ふたり、湯船に沈む。〜そうだ、温泉行こう!男子高校生の温泉巡り〜

七緒ナナオ

第1話 5月7日(日):牛乳瓶はどこに廃棄すればいいんだ

 すっかり飲み干して空になったフルーツ牛乳の空き瓶を、手のひらの上でころりと転がす。

 紙製のフタを開けるときにも四苦八苦させられたというのに、捨てるときにも苦労させられるとは。


 ここは楽華らっかの湯。

 埼玉県戸原市にある天然温泉が湧き出る日帰り温泉施設だ。

 その楽華の湯のロビーで座面に畳を張った長椅子の端に座った七里旭しちり あきたかが、牛乳瓶の捨て場所がわからず、人より明るい色をした茶色の眼を険しく細めていた。


「牛乳瓶は、どこに捨てればいいんだ……」


 まさかペットボトル用のゴミ箱に捨てるわけにもいかないし。

 七里が深く深く息を吐く。

 乾かしきれなかった髪の毛束が少し揺れて、目尻に刺さった。眼の色と同じで色素が薄い七里の髪が、今はしっとりと湿っていて暗い金色に輝いている。

 青いレンズのブルーライトカットグラスのブリッジを中指で押し上げながら、眼鏡の位置を正しく戻す。

 まさか家を出てくるときには、こんな些細なことで困るだなんて、思いもしなかった。

 そうして七里はがっくり肩を落とし、再び深く深く息を吐き出した。






 実のところ、今日、七里は生まれてはじめてひとりで温泉に来た。

 七里は埼玉県立稜泉高等学校へ入学を果たしたばかり。一瞬で友人を作れるほどのコミュニケーション能力は持ち合わせておらず、孤独な一週間を過ごした。

 独りぼっちの一週間は一ヶ月まで延び、ようやく訪れたゴールデンウィーク。

 七里は慣れない高校生活から解放されて、喜び勇んだ。


 起きている間はもちろんのこと、日付が変わってもずっとパソコンに向き合った。実に充実した時間ではあったけれど、それが現実逃避だなんてこと、薄々わかってもいた。

 そうして今朝。

 延々とプログラムコードを書いていた七里の目の下に色濃く浮かんだくまを見て、母親が楽華の湯の無料券を押しつけた。


「今日は日曜日で近所なんだし、シャンとするまで帰ってこなくてよろしい!」


 無料券を握らせながらそう言う母親に、七里は少なからずショックを受けた。

 そんなに隈が酷いのか、それとも寝不足でぼんやりした顔に情けなさを感じたか。

 一度も他人から悪く言われたことがない容姿を遠回しにダメ出しされた気分になって、七里は無料券を渋々受け取った。


 ゴールデンウィークも最終日となり混み合う中、七里は無事に入浴を果たした。

 源泉掛け流しとうたうその温泉は、なんと湯船が黒かった。薄めたコーヒーのような色合いに衝撃を受け、そのショックを和らげようと購入したフルーツ牛乳の瓶でつまずいた。


(温泉に入ったら瓶牛乳を飲むのが嗜み……なんじゃ?)


 空になった牛乳瓶を持て余し、気づけば五分も経過している。


(クソッ、誰か……誰かいないのか)


 誰かが瓶牛乳を飲んでくれさえすれば、飲み終わった後の瓶をどこに捨てればいいのかわかるはずなのに。

 けれどロビーにいる利用客に動きはない。

 板張りの広いロビーの奥にはコインマッサージ機が三台ほど並んでいて、気持ちよさそうに眼を閉じている爺さんたちで席がすべて埋まっている。


 食事処もあるようで、衝立ついたてで仕切られた小上がりの奥に座卓や掘りごたつが並んで賑わっていた。お昼時間が近いせいか、食事処へ入っていく人たちはいても、出てくる人はひとりもいない。

 受付にでも行き、牛乳瓶はどうしたらいいのか聞けばいいだけのことなのに実行に移せない。日曜日なだけあって、待機列はできていないものの途切れることなく利用客が受付にいるからだ。


 七里は途方に暮れていた。

 自分が持つ貧弱な対人能力では、到底、受付に声をかけることなどできるはずもない。このまま閉店時間まで空瓶を持て余したまま残ることになるのではなかろうか、と。


(オレは高一にもなって、こんな……カッコ悪い)


 七里がひとり内省とともに赤面している、そのときだった。鬱々と沈んでゆく青色の視界の中で、七里はハッと顔を上げた。


 誰かに見られている。


 射止められた、と思わずにはいられないような強烈な視線。その場に縫い止められたかのように七里は思わず息を呑み込んだ。

 ソースコードの中に潜むバグコードのようにゾワリと震え立つような存在感で、ひとりの青年のような少年のような男が七里を見ている。


 短く刈り上げた黒い髪に黒い双眸。肘まで捲られた袖と、たくましい筋肉。背も高く、シャツの上からでもよくわかる体格のよさ。

 名も知らぬ彼は七里と目が合うと、にこりと笑って近づいてきた。


「こんにちは。なにか困っているよね、俺が助けようか?」

「えっ、あ……」

「もしかして牛乳瓶? さっきから空のまま、ずっと持ってるけど」

「は? いつから見て……」

「最初から。おっかなびっくり蓋を開けて、一気に飲んだところから」


 彼はそう言うと、指を丸めて瓶の形を作り出し、飲み干すジェスチャーをしてみせた。

 人の観察は苦にならないが、自分の挙動をいちいち覚えられているのは恐ろしい。七里は目の前の男から逃げるように、ズリ、と腰をずらして身体を反らせ、距離を取る。


「えっと……オレ、見せ物じゃないんで」


 どうにか声を絞り出して返した七里の頬は、ヒクヒクと引き攣っていた。それに気づいているのか、いないのか。なんの陰りも裏もない笑顔で彼が言う。


「ははは、ごめんごめん。凄く美味そうに飲むからさ。俺も瓶で飲むフルーツ牛乳、好きなんだよね。特に風呂上がりは最高!」

「そう、ですか……」

「あ、警戒してる。大丈夫大丈夫、怖くないよ、俺。温泉にさ、若い男ひとりで来てるヤツって、なかなかいないでしょ。だから興味があんの」

「若い男って……あんたもですよね。てか、……興味? なにに?」

「君に興味がある、って言った」


 うっ、眩しい。

 まるで太陽のような輝ける笑顔。ニカリと歯を出し眼を細めて笑う様は、爽やかな好青年そのものだ。

 七里へ向ける言動はすっかり怪しいのに、向けられた笑顔ひとつで信用してしまいそう。


(なんだ。なんなんだ、こいつは)


 戸惑う七里を追撃するかのように、男が七里の隣にどかりと腰を下ろす。人懐こい笑みを浮かべて七里を見ている。


「だからさ、名前。教えてよ」


 いつの間に取り出したのか、男は自前のスマートフォンを七里に向けて差し出した。画面の上にはメッセージ交換用S N SアプリM I N Eの連絡先通知用Q Rコードが表示されている。


「MINE、もしかしてやってない?」

「やってる、けど」

「それならよかった。連絡先、交換しよう」


 名前を教えろと言ったはずなのに、どうして連絡先を交換する羽目になっているのか。

 七里はますます混乱した。目玉がぐるぐる回るような気分だ。


「な、なんで?」


 七里は、差し出されたQ Rコードとニコニコと笑う男の顔を交互に見ながら、戸惑いを隠しもせずに漏らす。

 男は七里が漏らした疑問を丁寧に拾い上げると、現在進行形で警戒している七里であっても気を許してしまうような、柔らかい笑みで答えた。


「待ち合わせするのに必要でしょ。交換すれば俺の名前もわかって、一石二鳥だし」


 まるで意味がわからない。

 いつの間にか待ち合わせをする前提になっているのは、なぜだ。まだこの男の名前だって知らないのに。

 七里はツキツキと痛むこめかみを指で揉みほぐしながら、隣に座る男を睨んだ。


「ちょっと待って欲しいんですけど……話についていけない」

「あ、なに。名乗ったほうが安心できる? そっかー、そうだよな」


 男はひとりで頷き、ひとりで納得したようだった。

 いや、それ当たり前。そんなことを七里が思っていると、男はゴホン、とわざとらしく咳払いをして、腰に手を当て胸を逸らし、得意げに名乗ってみせた。


九壇篁くだん たかむら、高校一年。よろしく。君は?」

「……七里、旭。稜泉高の一年」

「なんだ、同い年か! それなら尚更よろしくな、七里」


 マジかよ、同い年か。

 奇しくも七里と九壇の思いは同一だった。思いの出所が同じかどうかは、わからないけれど。


(もっと年上かと思った。ガタイもいいし、場慣れしてるし)


 七里は銀縁の丸型ラウンドフレームのブリッジを中指で押し上げ、表情を隠しながら九壇を見た。

 九壇は、奇遇にも七里と同い年であった事実がわかったことで肩の力を抜き、笑っていた。

 どうやら九壇は九壇なりに緊張していたらしい。よくよく見れば彼の指先は、ブルブルと細かく震えている。


(ただのコミュ強オバケじゃ、ないってことか)


 七里は青いレンズの奥から探るように九壇を観察しながら、ポケットからスマートフォンを取り出して差し出されたQ Rコードを読み取った。

 黒い眼をキラキラ輝かせ、九壇が期待に満ちた眼差しで七里を見つめている。

 一秒、二秒。

 視線に耐えられなかった七里がM I N Eに登録された九壇の名前を呼び出して、適当なスタンプをひとつ送りつけた。額に温泉マークをつけてまったり寛ぐ猫のスタンプだ。


「……はぁ。これでいいですか」

「あ、来た。……これ、湯ノにゃん。湯ノにゃんじゃん! 東日本温泉協会が温泉アピールのために配布してる湯ノにゃんのスタンプ!」


 七里が送ったスタンプを見て、九壇の黒眼が大きく見開いた。小鼻もわずかに膨らんで、ふんすと鼻息荒く興奮している。


(変なやつだな、こいつ。この猫のキャラが好きなのか?)


 七里はブルーレンズの向こう側で、頬を上気させながら湯ノにゃんのスタンプと七里とを交互に見ている九壇の観察を再開した。

 始終笑顔で目を細めている九壇も、よく見れば精悍な顔立ちをしているし、よく通る声のせいか好青年にだって見える。


 やっていることは、初対面の七里に遠慮なく声をかけて連絡先だけでなく次の約束を取り付けようとしている不審者だけれど。

 七里がまじまじと九壇を観察しすぎたのか。ふたりの視線がバチリと合わさって、気まずくなって目を逸らした七里とは逆に、九壇は思い切り破顔した。


「来週の日曜も空いてる? 空いてんならさ、温泉行こうよ。ひとりで温泉、来るってことは七里も好きなんだよな?」

「あ、ああ……まあ、うん」


 七里は嬉しそうに緩む九壇の顔に抗えなかった。その場しのぎで頷いて、偽りの答えを返して目を伏せる。


「じゃあ、連絡するから。またな、七里!」


 九壇はそう言うと、七里が持て余していた空の牛乳瓶をさり気なく奪い取って立ち上がり、手を振った。


「あっ……」


 腰を浮かしかけていた七里に気づかなかったのか。九段は振り返ることなく空瓶を牛乳自動販売機の横に積まれたコンテナの中へと収め、シューズロッカーへ向かって歩いて行く。

 去り行く九壇の広い背中を呆然と眺めながら七里は思わず顔を顰めた。どさり、と投げやりに長椅子に腰を落ち着けて、九壇がひとりで帰って行く様を見送った。


 腹の底がジリジリと焦げるような罪悪感に苛まれている。

 不誠実な真似をした。

 特段、温泉が好きというわけでもなかったし、今日、楽華の湯へ来たもの母親が無料券をくれたからだ。なんならおひとり様温泉は今日がはじめてだったのに。


「ああ、もう……」


 けれど、救いを得たかのように笑った九壇の顔を見てしまった七里には、今更追いかけて訂正し、真実を伝えるような真似などできるはずもなかった。





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