1. 家康の上洛と降伏宣言 -2
時は遡り天正14年10月18日。
儂は立ち上がって拳を振り上げながら叫ぶ。
「よし、秀吉殿に降伏するぞ!」
本多忠勝や鳥居元忠といった徳川家の重鎮が目の前に並んでいる。
しかし、主君たる儂こと徳川家康が決断を下したというのに、訝しげな表情をしている者や、納得できず不満げな者ばかり。
こいつらは徳川家が置かれている状況を理解しているのだろうか。
「殿、正気でございますか?」
徳川家の知恵袋、本多正信が声を上げる。
良く言えば柔和な顔立ち、悪く言えば間の抜けたような顔をしているが、見た目とは裏腹に非常に知恵が回り、必要とあれば容赦なく相手を貶める策を生み出す。
武勇一辺倒の脳味噌まで戦で染まっている徳川家家臣において、数少ない参謀役として頼りになる人物である。
ただ、機嫌を損ねると何故か家が鷹に襲われるという噂もある。
「それはどういう意味だ」
「どうもこうもありませぬ。我々は殿を天下人にするため、粉骨砕身の努力をして参りました。その殿が天下を諦めるおつもりでしょうか」
「逆に聞くが、今から秀吉殿と戦って勝てると思っているのか?」
正信とのやりとりを聞いていた男が立ち上がって叫ぶ。
「猿ごときに負けるはずがありません!」
「康政は大人しく黙ってろ!また悪口を言って秀吉殿を怒らせるつもりか!」
榊原康政。
精悍な顔立ちをしたこの男は戦では非常に役に立つが、徳川家の中でも秀吉嫌いの筆頭格である。
小牧・長久手の戦では檄文と称して秀吉殿の悪口を書き、それを各地にばらまいたことで懸賞金をかけられた実績を持っている。
無駄に達筆なのが頭にくる。
秀吉殿の懐が広かったため今は許されているが、自由にさせると何をしでかすか分からない危険人物でもある。
「黙ってなどいられません!以前のように猿を叩きのめせばよいではありませんか!」
「あの時とは状況が違うわ!豊臣家直轄の軍だけではなく、前田・上杉と合わせれば10万どころか15万近い軍勢を相手にすることになるぞ!」
小牧・長久手の時とは違い、今や秀吉殿は周辺大名を叩き潰し、包囲網を打ち破っている。
そして、大阪を基盤とした経済圏の確保、並びに周辺大名を傘下に収め軍備の増強に成功していた。
加えて信じられないことに、源平藤橘に並ぶ氏として豊臣が下賜された。
どのような搦手を使ったのかすら理解できないが、これにより官位叙任権に対して大きな力を持ち、政治面でも圧倒的な地位を築いてしまった。
まさしく天下人を名乗っても許される状況である。元主君である織田信長殿を超えたと言ってもいい。
この秀吉殿と戦をして勝てると本当に考えているのか。
正信の方を振り返り確認する。
「今動員できる兵はどの程度だ」
「2万。頑張っても3万といったところでしょう」
「小牧・長久手の時から増えてないのか...」
「大雨などで領内が荒廃しましたので。真田に負けてなかったら、もう少し増やせていましたね」
くっ、信州の不幸製造装置こと真田家か。
名前を聞くだけでも頭痛がしてくる。
真田を北条から引き抜いたところまでは良かった。
しかし、徳川から上田城築城の人手や金を引き出したかと思えば、沼田周辺を勝手に奪って占拠し、上杉に寝返り、上田で徳川を打ち破り、その後も徳川と戦を続けていたかと思えば豊臣家に鞍替えし、豊臣を煽って徳川と戦わせようとしたりとやりたい放題。
真田のおかげで北条の勢力拡大が頓挫しているのは大きいが、徳川の被害も馬鹿にならない。いい加減どうにかしなければいけない。
ただ、今は上洛の話の方が優先だ。
「北条からの援軍はどうだ」
「周辺に敵対勢力がいますので、こちらの援軍に回せるのは2-3万程度です」
「5万で15万を相手にすることになるのか...」
「豊臣は九州に送り込んでいる長宗我部と毛利からもう少し回せそうですけどね」
「相手の方が増えてどうする!はい、無理!」
「以前は織田と合わせてこちらは3万程度、相手は10万程度でしたので今回も大して変わりません!やれますよ!」
「康政は黙ってろ!」
小牧・長久手での争いの後、秀吉殿と和睦して時間稼ぎをした。
しかし、徳川家は勢力拡大に失敗しており、秀吉殿との差はより広がってしまった。
最早抵抗することすら不可能だというのに、頭の固い三河武士たちは納得しない。
そんなに討ち死にしたいのか。
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