セミの恩返し

神原

第1話

 花火を見に行く道中。軽快な音が短く鳴り響いた。はてなと言う顔をして達也が携帯を取り出す。


「何々? だれから?」


 後ろから画面を覗き込もうとする明美をよそにメッセージを開き、感慨深く達也は懐かしそうな瞳で薄暗い空を見上げたのだった。


 そして、楽しそうな表情で振り返る。恋人の明美に十年も前の事を語りだす。






 その日、達也は汗だくになりながらもアイスをかじり、お婆さんの家へと向かっていた。熱風の中、タオルで頬や額を何度も拭う。


 田んぼと森に挟まれた小道は午後と言う事もあって、もろに日の光を浴びていた。


「あぢぃー。婆ちゃん家まだかよぉ。ん?」


 ふと、大木の下の地面に、変わった色のセミの抜け殻が落ちているのを見つけた。ラッキーと呟いて達也が駆け寄る。そして手を出した処で思わず、おお!と声をあげた。


 その抜け殻は生きていた。ジタバタとゆっくり手足を動かしている。これから羽化するセミの幼虫だったのだ。これまでこの状態のセミを見た事がない達也にとって、新鮮な驚きだったに違いない。


 再び恐る恐る幼虫を手にして眺める達也。ずんぐりむっくりの体型。白に近いうす緑。とても愛嬌のある幼虫に幼い達也が惹かれないはずがない。しかし、必死に逃れようとしているのを見て、何を思ったのか達也は大木の幹へとその幼虫をとまらせたのだった。


「すっげーほしいけど、ま、いっか」


 うんうんと頷いて再び田んぼ道を達也は歩き出した。良い事をした後の気分の良さも手伝って、鼻歌を歌いながら。






「それとメールに何の関係があるの?」

 明美が素朴な疑問を投げ掛ける。二人の周りを見物客が通り過ぎていく。

「いいから聞けって。それでな」






「婆ちゃん、こんちはぁー」


「おお、よく来た。よく来た」


 満面の笑みでお婆さんが出迎える。靴を脱ぎ散らかして達也はさっそく居間の扇風機の前を陣取った。生暖かい風が達也の顔をなでる。それでも家の中と言う事もあり。スダレなども手伝って幾分安らげる気温になっていた。


 靴を揃えたお婆さんが、おぼんにスイカと麦茶を乗せて持ってきてくれた。


「うっめー!」


 ギンギンに冷えた麦茶を一息にあおり。ふとお婆さんに向かって、なあ婆ちゃんと呟いた。


 ミーンミンとセミの声が響き渡っていく。


「ん? なんじゃ?」


 優しいお婆さんの笑顔。何時もそんな感じだから、達也はどんな事でも聞く事が出来たのだろう。


「セミってすぐに死んじゃうんだよな」


「そうじゃな。土から出てきて一週間くらいじゃろう」


「そっか」


 寂しそうな表情。達也のそんな顔を見て、お婆さんは言葉を続けた。


「でものぅ、土の中に居る時間は長いんじゃぞ。十年はそこで過ごすのじゃから」


「十年かぁ。そっかぁ」


 なんとなく、その事に思いをはせたのか、達也の顔には笑顔が戻っていた。






「いや、だから、訳が分からないんですけど」

 呆れ顔の明美に、達也が焦る。

「ここからが本番だから、もうちょっと聞いててよ、ね」

「はーい」

 花火客の雑踏の中、そんな明美の表情には、ちょっとだけ笑いが含まれている事に達也は気づかなかった。






 お婆さんの家に来て七日後の夜。達也は夢を見た。綺麗な女性の夢を。寝ている頭の処に、ひっそりと佇んでいたのだ。だが、何故か怖いと言う気持ちが湧いてこない。


「ありがとう達也さん」


「へっ?」


 いきなりの言葉がそれだったから。幼い達也が、その事に思い至るまでしばしの時間がかかったのは当然かもしれない。


 美しく柔らかい女性の笑顔が達也から思考を奪っていく。


「あなたのお陰で子孫を残せました。ご恩返しをしたいのだけど、もう私はこの世におりません。なので、私の子供がきっとご恩を返しにまいりますね」


 それだけ言って、女性の姿はかき消えた。翌日になってもはっきりと思い出せるのが不思議な、夢の中で。






「うそだぁ」


「うそじゃないって。ほら」


 携帯のメールを明美へとかざす。そこには「恋愛に忙しくてご恩返し出来ませんでした。母のご恩は私の子供に託しますね。てへっ」っと、茶目っ気たっぷりな文体で書かれていたのだった。


「じゃあ、また十年後だね。次もわたしに見せてくれるんでしょ?」


「ああ」


 明美の顔が喜びに綻ぶ。その時、大きな音が響き渡った。夏の終わりの夜空に大輪の花が咲いた。達也と明美の顔を照らしていた。





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セミの恩返し 神原 @kannbara

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