第4話
「それは政府として公式のプロジェクトなんでしょうか」
「公に知れ渡っているという意味では現在非公式ですが、錦の海原教は政府では仏教に代わる国教として認められており、既に政界・財界を中心に日本各地に多くの信者を獲得しております」
「そんな機密情報をどうして私なんかに」
「えっ、シンイチ様でございますよね。少し前に●●議員から入信希望の方があると伺った」
相手の若い女性はどうやら僕を同名の政府中枢につながる重要人物と間違えているようだった。そんなことあるのだろうか。しかし、事実彼女は同名で声の似たシンイチなる政府の人間と僕を誤認している。
後には引けない一線を既に超えてしまい、背後に広がる平穏で鬱屈した日常がボロボロ崩れ落ちる音がした。国家機密を知った一般人に待ち受けるのは粛清、つまり死である。免れるには選択は「シンイチ」のふりをして入信するほかないように思われた。が、恐怖にも勝っていたのは自分という硬い皮膜がべきべきと壊れていく優越感に似た興奮であった。
「●●議員のお口添えがあったこと、私から希望したのですが、すっかり失念しておりました。ぜひ私もぜひ入信させていただきたいです」
真一の流暢な話し口調にはところどころ、引き攣るような緊張が見られた。
「かしこまりました。入信に関する儀式は1週間後、午前1時にK県の▲▲港で一斉に執り行いますのでご予定を空けておいて下さいませ」
「分かりました、よろしくお願いします」
そう言って受話器を置くと、太陽は分厚い雲に覆われて地上には灰色の帷が降りていた。しかし、パチンコ玉のような銀の光が蠢きながら明滅する僕の網膜は、今までのどんなときよりも眩しさを感じていた。
非日常へのトリップから醒めた後に残るのは、種々の恐怖だった。淡々と話していたが、電話に出た女性は信用できるのだろうか。いや、118番をしっかり押したからそれは信用に足りるだろう。
他には、気味悪いものを嘲るような視線を送り続けている通行人の中には、僕をキチガイだと思って面白がってSNSに載せてそれをきっかけに当局にバレるかもしれない。あるいは、ボロく誰の手入れもされていないことを逆手にこの電話機には盗聴器が仕掛けられ、今の会話を誰かに聞かれているかもしれない。どんな荒唐無稽な妄想だと分かっていても、それは首元に突きつけられたナイフのように鋭く命に迫っているように感じられた。
今すぐにでも走り去って逃げ出したい衝動に駆られたが、全身に染み渡り始めた疲労感もあって動かなかった。それから時間にして数分、僕は電話ボックスの中に呆然と立ち尽くしていたが、その間は永遠に等しかった。
ようやく、ボックスの外を出ると首筋に大きな雫が一滴当たった。そして、束になって雨として降り注いだ。街はたちまち遠くが見えないほど白んで、水の騒音に包まれた。
呑気に歩いていた通行人たちは決して濡れまいとたちまち駆け出していた。カバンを頭の上に掲げる人もいれば、水たまりを避けてうさぎのように飛び跳ねる人なんかもいて、見ていて滑稽だった。以前の僕ならばこの光景の一部になっていただろうが、今は違っていた。
真一は傘も刺さずゆうゆうと歩き出した。体が冷たい水を欲していた。きっと興奮冷めやらず火照っているからであろう。濡れたシャツや靴下が肌にべっとり吸い付く不愉快な感覚も、まるで生まれ変わったかのように絶えず水分の触れていることへの皮膚の喜びが勝っていた。恐怖は雨とともに排水溝へと流れ落ちてしまったようで、真一の顔には優越感が浮かんでいた。
そして、真一は雑踏の中に霞んで見えなくなってしまった。
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