第3話

 今まで何で忘れていたんだろう、そう思えるほど鮮烈な懐かしい記憶だった。ボックス内で電話するわけでもなくただ呆然と立ち尽くす男を通行人は訝しむように見ていく。が、真一はそんな視線に気づいてすらいなかった。


 真一は電話機に視線を落とした。それから流れるように受話器を手に取って、空いた手で財布から十円硬貨を取り出して投入した。ダイヤルの「1」を押そうとしたとき、真一は手が細かく震えていることにハッとした。それは倫理観、常識、大人の責任といったものがとめどない好奇心の奔流とせめぎ合っている様子の現れであった。


 真一はあの日の可能性に満ちた少年だった。118を順番に押して耳元に受話器を押し付ける。

 安っぽいコール音が鳴るたび、皮膚を突き破らんばかりに心臓が脈打つ。久しく遠ざかっていた一番馳せにも似た興奮が血液とともに循環していた。


「・・・・・」


 日焼けでヒリつく首を滴り落ちる汗は体をたぎる熱を奪っていくようだった。いくら経っても電話の繋がる気配がない。緊急時に掛ける番号だから当然のごとく3コール以内に繋がると思っていただけに、ひたすら不可解だ。通行人の視線に当てられた僕の筋肉は変な緊張で強張り、石にでもなってしまいそうだった。


 そうだ、ゴルゴンの瞳が人を石化させるのは、本物の怪物を目にしたことで所詮人間であることを思い知らされて絶えず揺れる自意識の輪郭が一つに定まってしまったからだ。


 暑さで脳がおかしくなったと思いながらも、真一は悦に浸った笑みを綻ばせた。


 「mおしMosi」


 すると、暴風雨、もしくは荒波の船上にいるかのような水の騒音がする中、かろうじて「もしもし」という声が鳴った。


 「もしもし」


 胸の高鳴りに共鳴するよう自分の声は震えていた。


 「おna MAえは」


 「私の名前は、日下部真一と申します」


 「シンイチさんですね」


 次第に水の騒音が遠くに追いやられ、声が鮮明となり、はじめて相手が若い女性であることが分かった。聞こえづらかったのは周囲の音に紛れてしまう女性の低い声質のためのようで、それは暗い印象よりも上品な落ち着きを与えた。


 「はい」


 「本日はどんな用件での電話でございますか?」


 「えっ・・」


 言葉につまり、ふわついた夢見心地は一瞬にして現実に叩きつけられた。羞恥心が体を這い上がって嫌に全身を火照らせた。


 「あっ、もしかして錦の海原教のニュウシンの希望でいらっしゃいますか」


 女性は勝手に得心がいって弾んだ声を発した。「ゴニュウシン」という耳馴染みない言葉に真一は困惑した。


 「ニュウシンとは、どういうことでしょうか」


 「私たちは海上での事件や事故の窓口となって迅速に対応するのがメインの仕事なのですが、それとは別に宗教勧誘を行っております」


 そこまで聞いて、さっき「ニュウシン」という言葉が「入信」だと分かった。しかし、次から次へと湧き起こる疑問符とぐちゃぐちゃの感情が脳を満たしていく。泡立て器で撹拌される卵の白身のような気分だった。

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