シガーキス

 喫煙者は、煙草を吸っている時が一番無防備になる。


 初めて喫煙所に先輩がいるのを発見した時は驚いた。シンプルだが品のいいスーツでかっちり身を包み、人当たりがよさそうで実はまったく人を寄せ付けない笑顔を装着した、我が社のトップエース。


 そんな先輩が、ぼんやりした表情で煙を吐きながら、細い指に赤く灯った煙草をはさんでいるのを見かけたその日の帰りに、私は先輩と同じ銘柄の箱を自販機で買った。

 ラッキーストライクのエキスパート・カット。家で吸って盛大にむせた上、火災報知器を鳴らして夜のアパートを混乱の渦に叩き落とすことになった。


 あれから三ヶ月が経つ。私は喫煙者の仲間入りを果たした。

 ピアニッシモの箱をお守りのように携えて、会社の隅にある喫煙所に入ると、先輩はガラス越しに夕陽を浴びて立っていた。紫煙を周りに纏って、相変わらず魂の抜けた顔をしている。


「あら。新人さん、貴女も喫煙なさるのですね。知りませんでした」


 私に気付いて、さっと不完全に笑顔の仮面をかぶり直す先輩は、おそらく入社半年の私の名前を正確に覚えていない。

 おとなり失礼します、と灰皿の置かれたテーブルのそばに寄る。それから、箱から一本手に取ると、先輩に向かって少し上目遣いに「火、持ってますか?」と尋ねた。


 先輩は、おそらく内心でやや呆れながらも、にこやかに「貸しますよ」と答えて、口に煙草を咥えるとポケットを探り出した。それが絶好のタイミングだった。

 ちょっと背伸びして手を伸ばし、先輩の口のラッキーストライクへ、私のピアニッシモを押し付ける。先輩が一瞬、あっけに取られている間に、火は移っていた。


「ありがとうございました」

 してやった。私は勝利の喜びにあふれて、先輩に笑いかけた。先輩はしばらく読めない表情をしていた。


 許された時間はここまでだった。そろそろ仕事に戻るらしい先輩が、帰り際に「新人さん」と声をかけてきた。

 煙草を離して、なんですか、と振り返った私の口に、すかさず先輩の白い指が迫る。


「シガーキスなんかで満足する人は、私の好みじゃないですね」


 口に押し付けられたのは先輩が吸ったラッキーストライクの残り。

 まだ私には強すぎるタールの煙が肺に入って、むせる私を面白そうに見つめてから、先輩は背中を向けて行ってしまう。


 くやしい。私は煙にむせながら、それでも、その苦い味が嫌いではなくなっている自分に気がついた。

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