第6話

 八月。二週間の夏休みがあった。僕は実家ですごした。

 ルカは帰省していたので一度も会わなかった。


 夏休みが明け、授業が再開した。座学の授業には出席しなかった。あまり意味を感じられないので気が乗らなかったし、自分の中にある何かしらの機構がエラーを出力していたため危機回避という側面もあった。


 アンサンブルの授業で久しぶりに会ったルカはさらに白くなっていたが体調は良さそうに見えた。逆に岸田と熊田はこってりと日焼けしていた。僕はもちろん白いままだった。


 課題曲はスティーヴィー・ワンダーのハイヤー・グラウンド。夏休み中に各自覚えていたため、スムーズな演奏だった。粘り強く跳ねるようなリズムに合わせ皆の体も自然と揺れていた。僕はドラムを叩くのに精いっぱいで揺れる余裕はなかった。


 揺れる体と楽しそうな表情を見ていると、しかめ面で演奏している僕だけが異常者のような気分になった。

 ドラマーというのはそういうポジションなのかもしれない。舞台の前のほうに立って演奏するボーカルやギターやベースとは異なり、一番後ろの、太鼓に埋もれた場所で一人座って演奏する。


 曲は何度も繰り返し演奏された。そのたびに僕と彼らの間に存在する決定的な溝を見せつけられているようで、それは歯痛のようにきりきりと僕を痛めつけた。神経に直接届き、冷や汗の出る痛みだった。この冷たい痛みを僕は知っているような気がした。


 中学のころ、サッカー部に入った時に感じた痛みだった。そのころに仲が良かった友達がみんなサッカー好きだったため、なんとなく流されて僕もサッカー部に入った。僕自身はサッカーにまったく興味がなかったので、引退するまでひたすらに退屈で苦痛だった。あの時に感じていた痛みと似ていた。



 その日の授業が終わり、ルカの部屋でくつろいでいると、思い出したかのようにルカが言った。


「今日のアンサンブル、アキラがなんか微妙だったよ。夏休みちゃんと練習したの?」

「練習はしたよ」

「ふうん、なんかやる気が足りないというか、熱さが足りないというか……」

 よく見ているなと感心した。僕は「そうだね、ごめん。次からは熱くなるようにするよ」と言った。面倒くさそうなトーンにならないように細心の注意を払った。



 三宮地下街の薄暗い通路を歩く。

 多種多様な店が軒を連ねているが、ほとんどの店は十時開店であり、九時の時点ではシャッターが閉まっている。節約のため通路の電気も半分しかついていない。

 この時間が好きだった。僕以外に誰もいない通路が好きだった。たまに警備員や掃除婦と遭遇するが、今日はいないようだった。


 僕は奥まったところにあるトイレに入った。鏡で自分の顔を見ると目の下に隈ができていた。ルカとは違い僕は毎日それなりに眠っているはずだったが、なぜだろうか。


 ここのトイレは、鏡の手前にあるスペースに酒瓶が置いてあり、そこにいつも花が活けられている。今日は竜胆だった。まだつぼみではあるが、鮮烈に青かった。空と海の中間くらいの色合いだった。

一番奥の個室に入り鍵をかけた。


 煙草に火をつけた。心臓のあたりでじわじわと音をたてて何かが燃えていた。そこで燃えているのは僕にとって無駄なものかもしれないし、本当は必要なものかもしれなかったが、深刻に考える力は既に失われ、燃えるがままにした。ひとしきり燃えたあと、その感触は消えて静寂がおとずれた。


 頭上で換気扇の回る音だけが聞こえた。そこに吸いこまれる煙を見つめる。心地よかった。ニ、三度煙を吐いたあたりで邪魔するものがあった。音楽だ。スティーヴィー・ワンダーのハイヤー・グラウンドが頭の中で流れ始めた。元々好きな曲だったがもう聴きたくはなかった。しかし、手足は勝手にリズムを取り始めていた。それを自覚した時点でその動きは止めた。

 

 音楽を本当に好きで、ドラムを叩くのが楽しいと最後に思ったのはいつだったか。熱さが足りない、とルカに言われた台詞が頭に残っていた。

 高校の時は熱かったはずだが、今となってはそれも疑わしいくらいであった。なぜあの時の僕はこの道を選んだのだろうか。また僕の知らない機構が勝手に働き、判断してしまったのだろうか。自動人形。いったい僕の判断機構を設定したのは誰なのだろう。


 仮に、僕が自動的な判断にさからい、自分で考えていたら何かが変わったのだろうか。「この判断はただの現実逃避だ」とでも気付けたのだろうか。こういう自分自身の生み出したバグに対処する力は設定されていないようだった。音楽への熱はもうない。その事実を与えられても自動人形は何も答えを持たない。



 熱が冷めた時にどう動くべきか。自分で判断できないのであれば他人に聞くのも何かしらの意味があるだろうと考えた。先生に相談するという選択肢は早々に除外した。本来最も適切な相手ではあるが、人間的に信用ならないという直感が働いていた。他に候補はネネさんしかいなかった。


 日中は二人とも空いている都合のいい時間がなく、どうせなら夜に飲みながら話そうということになった。


 平日のためそこまで混んでいない居酒屋の片隅で僕とネネさんは乾杯した。一応真面目な話をするために来ているので酔うのはさけたかったが、軽く一杯飲むというのは何をするにしても必要な儀式だった。

ネネさんは生中をいっきに半分ほど飲むと「はぁ、美味い」と言った。今日は髪をおろしていた。黒いタンクトップにアロハシャツを着ている。よく似合っていた。


「お酒好きなんですか?」と僕は聞いた。

「好きだね! 毎日飲むよ」と言いながらネネさんはストレートに笑った。


 お互いの授業内容や、最近演奏している曲、最近好きなアーティストなど他愛もない話を一時間ほどした後、僕はあまり深刻にならない調子で切り出した。


「最近ドラム叩くのあんまりおもしろくないんですよね」


 ネネさんは一瞬何を言っているのだ? という顔をした後、今日の要件を思い出したように見えた。そして先程までの半分の声で、


「あぁ、そういう時期はあるね。私は小さいころから叩いてたからあんまり覚えてないけど、実際それで辞める子も結構周りにいたなぁ」と左斜め上を見ながら言った。

「え、辞めるの?」とあらためて気付いたようにネネさんは言った。

「いや、まだそこまで考えてないんですが、何かより良い方向へいくためのヒントとかをネネさんから聞けたらいいなと思ったんですよね」

「えぇ! そんなのないよ、なんで私に聞くの?」

「ネネさんはもうギャラを貰って演奏していて、プロみたいなものじゃないですか。なので、大先輩としてのお言葉を頂戴したく」と僕はおどけながら言った。


 ネネさんは「はぁ」と言いながらビールを飲み干した後、店員を呼び止め追加のビールを注文した。


「そうだねぇ、おもしろくない、それでも続けるかどうか……まず好きかどうかじゃない?」

「それはそうですね。好きかどうか……そこもいまいちはっきりしないんですよね」

「あらそう。別の視点で言うなら……本当に自分の人生にとって必要かどうかじゃない? 人生だよ。一生つきまとう話になる」とネネさんは言った。言葉はしっかりしているが、顔は少し赤く酔い始めているようにも見えた。


 彼女はまたビールを一口飲み、言葉を繋げた。「生きてるだけで毎日自分の命をすこしずつ削ってるんだからね。自分の命を懸けてでもやりたいことなのかって考えて、素直にイエスと答えられないなら……悩ましいことになるね」


 ネネさんは優しいし、そこまで僕の人生に影響を与える責任を持てないため、言葉を濁した。

 僕は「命を削っている」という言葉を口に出し、味わい、ビールで流しこんだ。何をするでもない一日であっても確かに命は勝手に削れている。居酒屋で酒を飲んでいる今も削れている。もしかすると酒の影響で削るスピードは加速しているかもしれない。


 その後、ネネさんの投げかけに即答できない僕は「ありがとうございます。ぐっさりきましたよ。しらふに戻ったらあらためて考えてみます」と言って、この日はお開きにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る