第5話
七月も半ばにさしかかると、最高気温が安定して三十度を超え始めた。
最寄り駅から学校までの道のりを歩くだけでふらふらと貧血のような症状が出ることもあった。日本の夏が強くなったのか日本人が弱くなったのかわからないが、イメージの中の夏とは似ても似つかぬ季節が僕らを押しつぶしていた。
アンサンブルの授業は順調だが、またしても個人レッスンの課題で僕は苦しんでいた。
練習のために予約していたスタジオに向かって歩いていると、通路にある自動販売機の前で、ネネさんが飲み物を選んでいた。
「おはようございます」
「おはよう。今から授業?」
「いえ、自主練しようと思って、スタジオを取ってます」
ネネさんは、たった今買ったレモンスカッシュの缶を開け、飲んだ。
彼女の首が汗で光った。肩の下まである重めの黒髪は乱雑にしばりあげられ、ポニーテールというより、何やらサムライのような風格があった。うなじにも汗がしたたっていた。彼女もまた夏の光から逃げてきたばかりのようだった。
「どんな練習するの?」
「ポリリズムです」
面倒見がいいのか、暇なだけなのか、またしてもネネさんが僕の練習を見てくれることになった。
「暑い……」
スタジオに入った瞬間二人で声をそろえて言った。
まだ朝早い時間のため空調のききが悪かった。幸い個人用の小さなスタジオだったので、五分ほどお喋りをしているうちに部屋は冷えた。
僕は楽譜を広げ、メトロノームを鳴らし、叩き始めた。
ネネさんは僕の横にパイプ椅子を持ってきて座った。距離はかなり近かったが、先生に睨まれながら叩くよりもいくぶんリラックスして演奏できた。
メトロノームと同じタイミングで両足を動かし、ハイハットとバスドラムを叩きながら、右手はそのリズムを二で割り、左手は三で割る。その振り分けを変えたりしながらひとしきり叩いた。
「いいんじゃない? なにに悩んでるの?」
「一応叩けるんですけど、なんか体が勝手に動いている感があるというか、流れに身をまかせているだけで、本当は意識して手足を動かせていないんじゃないかという気がするんです」
「ああ、そういうこと。強く意識すること……メトロノームの音、つまり基準となっている四分音符を強く意識することが大事なんじゃないかな。最初だけ意識してもだんだんと手足の、いわば枝葉末節に注意がひっぱられて、結局心臓の音は置いてけぼり、みたいな状態になってる」
その後、ドラムを叩くよりも、叩くときの心構えについてネネさんと議論した。
彼女は自分のことを客観的に分析し、論理的な回答を用意し、自身の頭と体にフィードバックし続けているようだった。それに引き換え僕は、あまりにも自分に興味が無さすぎた。よく今まで生きてこられたものだと思った。本当に生きてきたのか怪しいものだった。
スタジオから出ると、出口付近に置いてあるソファーにルカが座っていた。
「ルカ、何してるの? もしかして僕のこと待ってた?」とたずねた。特に今日会う約束などはしていないし、予定を伝えてもいなかったので理解できなかった。
「いや、今来た」とルカは答えた。
「じゃ、私、次の授業あるから行くね」とネネさんが言った。お礼をして見送った。
「ねぇ、このあと暇かな?」とルカが聞いた。
「ごめん、今日はこのあとずっと授業で、次もすぐ行かないとだめなんだよね。明日は休みだからどっか行こうか」
「わかった。ごめんね」
ルカが手に持っていた空き缶がパキリと音を立てた。
レモンスカッシュの缶だった。僕は、ひりつくほど喉が渇いていることを思い出し、自動販売機でレモンスカッシュを買った。そのまま立ち去ろうとしたが、ルカが沈黙しているのが気になって動けなかった。
ルカの横に座って、レモンスカッシュを一口飲んだ。まだ彼女は無言だった。どこからか聞こえる空調の音だけが、二人の上を漂っていた。
半分ほど飲んだ。この時点で次の授業には遅刻確定だった。もう欠席しようかと考え始めたところで、「明日、行きたい場所あるから、後でまた連絡するね。それより、はやく授業行きなよ」とルカが言った。僕は「わかった」と言って、彼女をその場に残し次の授業へ向かった。
翌日も暑かった。痛いほど晴れていた。
ルカの案内で電車に乗り、僕の知らない駅で降りることになった。二回たずねたが、どこを目指しているのかは教えてくれなかったので、僕は諦めてただついていくだけの人形になっていた。
駅から離れて、住宅街をずんずんと歩くルカ。こちらから質問すると目的地以外については言葉少なに答えてくれるのだが、彼女から何かを話はじめることはなかった。
特段機嫌が悪いようにも見えないし体調が悪いわけでもなさそうだが、どうやら目的地に着くまではそういうモードに入ってしまっているようだった。無言で手をつないでひたすら歩く。悪くないなと思った、暑ささえなければ。
住宅街を抜ける寸前に寺があった。
ルカは門前で立ち止まった。ここが目的地らしい。
門から見える境内には紫陽花が咲いていた。緑のしげみの中から、青、紫、白の紫陽花が無造作にこぼれていた。梅雨が終わり、水気と色気を少し失っているように見えた。
ルカは一分ほど紫陽花を遠くから眺めた後、また何も言わずに歩き出した。寺は目的地ではなかったようだ。
もういい加減熱中症になるのではないかと思い始めたころ、日陰に入った。
そこは十メートルか二十メートル程度の短いトンネルだった。内壁はコンクリートが打ちっぱなしになった薄い灰色で、涼しげだった。事実、この中に入った途端冷房でもついているのかと錯覚するほどひんやりとしていた。薄暗さに目が慣れるころに、ルカが立ち止まっていることに気付いた。
「ここに来たかったんだよね」とルカはやっと僕の目を見て言った。今日初めて目が合った。僕は「ふうん」と言いながらトンネルを抜けた先に目をやった。
「ああ、なるほど」と呟いた。
海が見えた。
トンネル出口、四角で縁取られた空と海と砂浜。空は日が強すぎるため白く、砂浜もやはり白く、空と砂浜に挟まれた海だけが青かった。
「綺麗だね。ここで海を見たかったってこと?」
「違うよ、アキラと一緒にいたかったの。ここ誰も来ないから」
ルカが大きな声でそう言った。それで気付いたが、このトンネルは音が響くようだった。しかし、一緒にいたいとはどういうことだろうか。毎日ではないが、それなりに一緒に時間を過ごしている。
僕が何か言う前に、彼女はおもむろに地面に座りこんだ。通行人の邪魔になりそうだったが、先ほど誰も来ないと言っていたし、問題ないのだろう。僕もそれにならい彼女の隣であぐらをかいだ。
ルカは白の半袖シャツにベージュのハーフパンツで、虫取りに行く少年のような恰好をしていた。ルカの前腕に透けた静脈が美しかった。顔を見るといつもより白く見えた。よく見ると目の下の隈が目立つようだった。
「ルカ、大丈夫? もしかして体調悪くない?」
「うん、ちょっとね。最近またうまく眠れなくて、睡眠薬も飲み始めた」
また高校時代のように持病が再発しているのだろうか。
「再発したってわけではないから大丈夫だよ」とルカは先回りして言った。
それから僕らは当たり障りのない話をした。一緒にいたいという割にルカはいつもと同じような話をしていた。彼女が何かに悩んでいる風に見えたので、僕はむしろそのあたりを喋ってもらえるように慎重にあいづちを打っていたのだが、誘導しきれかった。
ルカが鼻歌を歌いだした。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンだった。彼女は海かあるいは空を眺めていた。空には昼の月が出ているわけでもなかった。
「なんで今その曲を選んだの?」
「当ててみて」とルカは言った後、一度歌を止め、あらためて曲の最初から歌い始めた。今度は鼻歌ではなく、ちゃんと歌詞もあった。アンサンブルの授業でいつも聴いているような本気の声量ではなかったが、その声はトンネルとそこに滞留する空気を適切に震わせ、僕の背骨まで到達した。
僕は目を閉じて聴きいった。このまま彼女の声の振動に分解され溶けてしまいたかった。
曲が終わり目を開けると、遠くに紺の帯が重く漂っていた。そういえば海を見ていたのだな、と思い出した。海の上に堆積している空もまた青をより濃くしていた。空が青いのは嫌いだった。どこまでも行けそうなのに、なぜ僕はここにいるのだろうと考えてしまうから。結局、彼女がこの曲を選んだ理由はわからなかったが、
「ルカ、好きだよ」と僕は回答した。彼女はわが子を見守る母のような笑顔をみせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます