第4話
七月、紫陽花の毒にやられたかのような倦怠感が僕を包んでいた。梅雨の水気が生活にしみこんでいるようだった。
アンサンブルの授業では、お互いの癖のようなものをつかんで、悪くないグルーヴ感が漂い始めた。と、先生は言っていたが、僕は個人的に何も成長を感じられず、メトロームにも合わないし、バンドメンバーともまるで合っていないような感覚にさいなまれていた。
ふとした拍子に空中分解しそうな演奏を必死につなぎ止めつつドラムを叩いていると、ルカと目が合った。それはギターの岸田やベースの熊田にも平等に注がれる視線で、特に気にするものでもないはずだが、なぜか癪にさわった。
その時にルカの顔にあったのは自然な笑顔、音楽の気持ちよさに酔ったような笑顔だったと思うが、僕には何か意味ありげに見えた。「もっと自然に」と叱責されているような気がした。自然な演奏、自然な表情、自然な言葉。僕には難しかった。
ルカと僕が付き合っていることはまだ明言していないため、岸田と熊田から見て自然な僕を演じる必要があった。
演技といえば、僕は自分の言動のどこからどこまでが演技なのか判断できない。
そもそもこの体は勝手に動き、勝手に喋ることが多々あるため、僕が制御可能な領域は極めて少なかった。ドラムを叩くために、自分の体のすみずみまで意識をはりめぐらせて微細な制御をしようと試みるたびに味わう無力感、それと似ていた。
アンサンブルの授業が終わった後、うまくルカと二人きりになったタイミングで伝えた。
「あんなあからさまにこっち見たら変だよ。何かあったのかなと勘ぐられる」
「そうかな? ていうか、やっぱりわざとらしかったかな」とルカは嬉しそうに言いながら僕の肩をなれなれしく叩いた。
やはりあの笑顔にはある程度の意味がこめられていたようだった。ルカの笑顔は素直すぎた。意味をこめない笑顔を出力する方法を今度教えてあげようと思ったが、そもそも僕も笑おうと思って笑っているわけではなく、あれもまた勝手に作動する一種の機構であることを思い出した。そのことについて今はあまり深く考えたくなかったので、ルカの頭にやわらかく手を置いて、「じゃ、僕次の授業あるから」と言って別れた。
次の授業の教室へ一人向かっていると、途中で岸田と出くわした。
「アキラ、ちょっと」
「ん? なに?」と言いながら話の内容は予想できていた。
案の定、岸田は当たり前のことを確認するトーンで「ルカと付き合い始めたの?」と言った。「うん」とだけ返した。岸田は僕の背中を力強く叩いた後、何も言わず去っていった。いい奴なのだろうなと思った。
その日、授業が終わった後、ルカの家にお邪魔した。
マンションの五階で、1LDK。壁にはいろんなアーティストのポスターが貼ってあった。部屋の隅にあるラックには大量のCDが収まっていた。可愛らしい要素はあまりなく、清潔で、ただ音楽への愛情が伝わってくる部屋だった。
「一人暮らしするなら十分広いね」
「そうだね。アキラもここに住むなら狭いかな」
僕はCDのラインナップをチェックしながら「それはない」と返答した。
ルカが想像の中で縮めようとした距離は変わらなかったが、代わりに身体的な距離がゼロになった。ルカが僕を後ろから抱きすくめた。僕は鈍いうめき声を出して静止した。
壁に貼ってあるカート・コバーンと目が合った。ルカのつけている香水の匂いがした。それが好きか嫌いかを判断するよりも、僕の頭の中は「ティーンスピリットってどんな匂いなんだろう」という疑問で満たされていた。
深夜になって、ルカがテレビアニメを観始めた。
「アニメとか観るんだ」
「うん、最近はこれにはまってる」
僕はアニメに詳しくなかったが、繊細な絵柄で、これは子供用というより大人用のアニメなのだと思う。『博士とメイド』というタイトルだった。既に何話か進んだあとらしく、途中からだと世界観がよくわからなかった。
研究所のような場所でいかにも博士といった白衣の男性がパソコンの画面を見ながら何か作業をしている。その博士を横目に、クラシックなメイド服を着た女性が掃除をしたり料理を作ったりしていた。メイド服は黒く、女性の髪も美しい黒だった。ぼんやりと画面を眺めるルカに申し訳ないと思いながらたずねた。
「どういうお話なの?」
「ん……これはね……」
ルカ曰く、博士と自動人形のメイドが織りなす日常が描かれているアニメらしい。
博士は身の回りの世話をメイドに任せている。研究のためにおろそかになりがちな家事を任せる世話係としてメイドを雇っていたらしいが、いつの間にか博士はメイドに惚れてしまった。もちろん博士は生身の人間である。メイドはいろいろな作業ができるものの、自我らしい自我は存在しない。そのため、博士はなんとかしてメイドの制御システムにハッキングをしかけ、自我を生み出そうと試みている。(そして毎回失敗する。)
アニメとしては、毎回博士がハッキングに失敗する場面から始まり、その後メイドと博士がどたばたしつつも、ほのぼのとした日常を送るという構成らしい。
今回はメイドが洗濯機を壊してしまい、代わりに手で洗濯しようとしているようだった。
「やめたまえ! 君の防水機能はそこまで良くない。水が変なところに入りこんでバグが発生したらどうするのだ」と博士が言った。
「変なところとはどこでしょう、博士」とメイドが無表情に問うた。
博士はしどろもどろになりながら、結局自分で洗濯をし始めて、メイドがそれをそばで見守るというストーリーだった。
メイドは基本的に無表情だが、博士に話しかけられたタイミングで美しく笑う。
「笑顔が素敵だね、このメイドは。ロボットなのに」
「ロボットじゃないよ、自動人形」とルカは訂正した。
「博士と話すときは毎回笑顔だけど、これは好きってことじゃないの?」
「なんか違うみたい。そういう設定を組みこまれているだけで、好きではないらしいよ」
僕は「そうなんだ」と言おうとしたが、喉がふさがり声を出すことができなかった。丁寧に唾をのみこんだ後、特に意味のない質問をした。
「家事全般ができるの?」
「うん。そこまで考察しながらこのアニメを見てるわけじゃないから自信はないけど『こういう状況だとこの作業を優先させる』みたいな判断は自分でしてるね」とルカはとぎれとぎれ説明した。さらに言葉を選びながら、
「AIがすごいらしい。あ、このアニメの世界はめちゃくちゃ未来の地球という設定だからね、今の現実世界に存在するAIよりはすごいんだよ、なにせ」と苦笑いした。
その場その場でAIの判断に基づき、適切と思われる行動をとっている。自動人形にしてはかなり優秀である。そこまで優秀であるにも関わらず自我はないらしい。それゆえに博士はハッキングをしかけている。彼女の自我を求めて。
「かなり人間らしく見えるんだけど、自我はないってことになってるの?」と僕は口に出した。出した瞬間、冷たくて不気味な手が僕の背中を撫でた気がした。それこそ自動人形の手みたいな感触だった。横目でルカを見ると体育座りをしていて、両手は彼女の膝を抱いていた。
「自我……ないんじゃない? この程度なら自我じゃないでしょ」とルカは目をすぼめながら言った。なんだかひどく突き離されたような気がして、思わずルカの肩を抱き寄せた。
「なあに?」とルカが間のびした声を出した。「なにもない」と、できるだけ優しく聞こえるように僕は言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます