第3話
六月に入り、雨の日が増えてきた。この日も雨だった。雨は空気を冷やしてくれず、じっとりと暑い日だった。
僕の取っている授業が無い日で、適当にスタジオで個人練習をしようと思っていたら、ルカに捕まった。
「三宮に行こう」とのことだった。
「うん、いいよ」と僕は何も考えず答えた。
三宮は、学校がある元町の隣なので歩いていける距離だが、雨が降っていることもあり電車で向かった。
電車の中は酷い湿気だった。ルカは半袖のシャツにスキニーパンツをはいていた。左手首にはリストバンドをしていて、いかにもバンドマンといった格好で、涼しげだった。僕は長袖を着ており既に汗だくだった。
電車に乗ってから正気に戻った僕はルカにあらためて尋ねた。
「で、なんで三宮に行くんだっけ?」
「デートだよ」
「ははぁ、なるほど」
二人で見つめ合って笑いあった。が、僕には何もわからなかった。ただ、良い笑顔を出力できたのは確実だった。
雨でも三宮のセンター街は人が多かった。センター街はファストフード、ファストファッション、お菓子、大き目の本屋など、だいたいなんでも揃っている巨大な商店街である。
僕らは適当な会話をしながらあてもなく歩いていた。デートと言えばデートだが、付き合ってもいないのでただの散歩にしか思えなかった。
少し歩くと大きな本屋がある。一人であれば一時間でも二時間でも立ち読みするのだが、ルカがいるので入らなかった。ルカは特に目的があるわけではないらしく、ただ目についた店を冷やかしながら歩くだけだった。
センター街もほとんど終わりに近づき、また元町駅周辺に戻って来たころになって、
「疲れたからお茶しよう」とルカが言った。蒸し暑い中、普段より長い距離を歩いたこともあり確かに疲れていた。
地下に降りる階段を見つけた。その階段の奥には喫茶店があった。細い階段を降りると、ほんのり薄暗い店内が見えた。席はそれなりに埋まっていた。コーヒーと煙草の匂いが混じりあい、その匂いを嗅いだだけで僕の体から湿気と重力が抜けていくようだった。
重い木でできた椅子を引き、座った。緑の皮でコーティングされた背もたれはちょうど良い固さで僕を支えてくれた。
僕はホットのブレンドを、ルカはアイスカフェオレを注文し、その後、流れるような手つきで煙草を吸い始めた。
「こんな暑いのになんでホット?」
「冷房がきいてるから寒くて」
「これで寒いの? 脂肪と筋肉が足りないんじゃない?」
ルカも痩せているが、もしかすると僕のほうが痩せているかもしれない。
浅黒い肌をした女性の店員が二人の飲み物を置いて去っていった。
「ルカは元町に住んでるから簡単にこのあたりまで来られるよね。いいね」
「そうだね。卒業までにはある程度このあたりを遊び尽くしたいね」
ルカはあまり気のない感じで薄い目をしていた。僕は新しく入店した老人をなにげなく見た。
「アキラは休日何してるの?」
「寝てる。時々こっちまで出てきたりするけど、あまり真面目に練習とかはしてない。今日は僕にしては珍しく自主練習でもしようかなと思ったのになぜかここにいる」
ルカは煙をふっふっふっと細かく噴き出した後、
「誰かと遊びに行ったりしないの? 彼女とか」と言った。鉛のように低い声だった。
「行かないなぁ。彼女もいないし」
今まで彼女ができたためしがなかった。誰も好きになったことがないのにできるわけがなかった。
「ルカは彼氏いるの?」と基本的な質問をした。やはり僕はルカのことも特別な女性としてみることはできないので、答えに興味はなかった。
「いないよ。アキラ、付き合おうか」と、ボーカル科特有のよく通る声でルカが言った。
おそらく、僕がその言葉の意味を理解するよりも、隣の席に座った見知らぬ男女のほうが先に理解したことだろう。
僕とルカ、そして隣の男女の時間が止まった。店内ではジャズの曲が流れていた。知らない曲だった。
ルカは眉間にしわをよせて鋭く僕を睨んでいた。どういう想いをこめたら、この状況でその表情になるのか聞いてみたかった。なぜか僕は今、責められている気がした。とにかく僕は逃げの一手を打つことにした。
「とりあえず店を出よう」
ルカは表情をかえず僕を見ていたが、僕が先に席を立つと素直についてきた。
どこを歩いたか覚えていないが、気付けば元町高架下の暗いトンネルを歩いていた。ここも商店街といえば商店街だが、センター街とはうってかわって、すべてが古く暗く、ほとんどの店はシャッターを閉めていた。どうしようもないほど、ほこりとカビの臭いが蓄積されていた。
一人で歩くのであれば好きな雰囲気の場所だが、ルカと、ましてや告白の返事を保留した状態で歩くような場所ではなかった。言外の拒否として伝わっていなければいいがと考えたが、むしろ伝わってもよかった。
僕らは無言だった。
馴染みの中古CDショップまでたどり着いた。相変わらず乱雑に積まれたCDが店の外にまであふれていた。いっそこのまま店に入って、お互いに好きなミュージシャンの話でもすればうやむやにできないだろうかとも考えたが、いつの間にかルカに握られていた右手の感触がその考えを打ち砕いた。
歩きに歩いて、開いている店が一つもないエリアに差し掛かった。
すべての店がシャッターをおろしていた。いったいどうやってこの領域が維持されているのかまるで理解できなかった。
そんなどん詰まりのトンネルに、救いのような光が差しこんでいた。見ると、外へつながる脇道があった。そこから雨音と雲の色がトンネル内へ流れこんでいた。その濁った青色に足をとられたかのようにして僕は立ち止まった。
ルカの手を引いて脇道に少し入り、外を眺めた。雨脚は強くなっていた。僕の頭に散らばっていた言葉は、どう積み上げても何も構築できないゴミばかりだった。しかし、胸のあたりでなんらかの機構が働き、ある回答を提示した。頭は沈黙していた。
「ルカ」
「なに?」
「いいよ、付き合おう」
ルカは目を見開いた。
もともと切れ長で細い目なので、そこまで開けるのかと新鮮な驚きがあった。初めてルカのことを可愛いのかもしれないと思った。
「やったぁ……やったぁ……いいの? ほんとに?」とルカは何度も確認した。
僕は無言でうなずいた。
「ほんとに?」と、またルカは繰り返した。
やはり僕は無言でうなずいた。
言質をとられたくないのか、僕の口からは何も言葉が出なかった。その様子に怒ったのか、半ば無理やり、ルカは僕にキスをした。僕はそれを拒否せず受け取った。僕はキスをしている間、ルカの後ろで依然として降り続いている雨をぼんやりと眺めていた。
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