第2話
学校内にスタジオは複数あるが、数に限りがあるので予約制となっている。今日は予約で埋まっていた。仕方なく、ドラム科の生徒がよく利用する溜まり場で、僕は音の出ないゴム製のパッドを叩きながら練習していた。
相変わらず先生からは「ズレている」という指摘を受けていたが、いっこうに合わせるコツをつかめないでいた。溜まり場で暇そうにしていたネネさんに相談すると、三十分ほど指導してもらえることになった。彼女は既にギャラを貰って演奏の仕事をしているという噂を聞いたことがある。僕からすると雲の上の存在だった。
ネネさんが個人練習用に取っていたスタジオに二人で入った。スタジオはドラムセットが一つ置いてある以外に何もなく狭かった。ネネさんは僕のすぐ後ろに立ったまま演奏を聴いていた。さすがに集中しづらいものがある。
「多分だけど」ネネさんは苦笑いしながら言った。「アキラ君は、スティックがスネアに当たるタイミングとメトロノームを合わせてるんじゃないかな? 合わせる必要があるのはそこじゃなくて、音だからね」
「……言われてみれば確かにそうですね。でも、そうか……それってかなり難しくないですか?」
「難しいよ。難しいよね。ちょっとどいて」
ネネさんが僕と入れ違いにドラムセットに座った。ルカとは違う柑橘系の匂いがした。
あらためて意識すると、ネネさんは背が高かった。百七十センチある僕と同じかやや大きいくらいに見えた。やせっぽちな僕より肉付きもよく、喧嘩をすると負けそうだなと、全く関係ないことを考えていると、ネネさんは世間話をするみたいに滑らかに演奏を始めた。
上手い。安心感と迫力が同居しているしっかりとした音とリズムだった。個人レッスンで指導を受けている後藤先生が演奏した時にも感じた、何か一線を越えたようなプロらしい音だった。敗北感によって不細工に笑う顔を元に戻しながら「さすがです」と伝えた。
お礼を言って、僕だけがスタジオを出て、また溜まり場でゴムパッドを叩く作業に戻った。パタパタと鳴る薄い音をじっと見つめ続けた。
五月最終週のある日、アンサンブルの授業後にルカを家まで送ることになった。まだ日の入りまで一時間はある。明るかった。
ルカの家の近くまでさしかかったところで、ルカがふいに右折した。直進でいいはずだった。
「そっちだっけ? 近道?」
「いや、寄り道」
よくわからないままついていくと小さな公園があった。ルカは何の説明もなく公園に入り、藤棚の下にあるベンチに腰掛けた。
藤棚。ここでは時間が停止し、雨滴が空中で静止しているかのような花の房が垂れ下がっていた。
公園に遊具は一つもなかった。
「いい公園だね」と僕は言った。
「そうでしょう。よく来るんだ。今日はまだ帰る気にならなかったから来ちゃった」
「それに僕は巻きこまれたの?」
「そういうこと」
ルカが藤棚を見上げた。そして、赤くなり始めた西の空を見た。何も言わないルカにじれったくなり、僕は適当な話題を口にした。
「楽典の授業は順調? 僕は全然覚えられなくて苦戦してるんだけど」
「ん? 楽典? 順調だね。覚えるだけでしょ?」
「それが難しいんだけど」
「こう見えて高校は進学校に通ってたからね、ただのお勉強は得意なの」と言いながら、ルカは右頬だけで笑った。西日が当たって目が金色に輝いていた。
「進学校からよく音楽の道に進んだね。反対されなかったの?」
「そうだね。どうだろうね」とルカは小さな声で言った。
しばしとりとめもない会話を続けたが、その「どうだろうね」の余韻は消えず、僕の頭の中でリフレインしていた。
黄昏がやってきた。空の抜け殻と太陽の抜け殻がまざりあい、昼でも夜でもない混沌が胸をざわつかせていた。
ちりちりという音が聞こえた。ルカが煙草に火をつけた音だった。
「私ね、二年生の終わりくらいに高校辞めたんだよね。それから一年引きこもりみたいになってて、去年の冬くらいに普通に戻った感じ。今は病み上がりみたいなふわふわした状態」
リフレインがようやく鳴りやんだ。またちりちりと音がした。昼の世界はそこで燃え尽きて夜になった。
「その続きを聞くには、お酒がいるな」と僕は言った。
「近くにコンビニがあるから行こう」と言って、ルカは立ち上がった。
酒とつまみを買い、再び公園に戻ってきた。
街灯に照らされた藤棚は、立ち入ると戻れない幽玄な空間を作り出していた。入っていいのだろうか、と自問した。先に入りこんだルカは座ってこちらを見ていた。表情は見えない。彼女が何か言おうとしている。その声はここに入らなければ聞くことができない。
僕は諦めて藤棚の下へ足を踏み入れた。
「進学校に通ってたって言ったでしょ? その中でもわりと上位の成績だったんだけど、途中からそれを維持するのが厳しくなってきて、夜遅くまで勉強するようになっちゃったの」
僕は黙って聞いていた。なぜこういう話になったのか考えてみたが、よくわからなかった。
「で、どんどん睡眠時間を削ってたら、いつの間にか不眠症みたいになって目の下の隈が取れなくなってた。今でもファンデで隠してるけど残ってるんだよね」
隈なんてあっただろうか、とルカの顔を見たが、ほとんど表情さえ判別がつかない暗さだった。今度見せてあげるね、とルカが言った。僕は、いいよ、といった。どちらの意味に取られたかはわからなかった。
「病院に行ったら、適応障害って言われちゃって。それ聞いたら、何か折れちゃって次の日から学校に行けなくなった。ベッドから出られないし、制服を着ようと思っても体が動かなくてだめだった」
僕は二本目の缶ビールを開けた。ドラムのフィルインみたいにあいづちを打つのはためらわれた。ルカに届く最小の音量で曖昧な言葉を返すにとどめた。
「三年になる前に辞めて、いろいろ考えてここに来た。音楽以外に誰も私を救ってくれなかったから」
水に濡れたような声だったが、やはり表情は見えなかった。僕はそこまで音楽に思い入れがあるわけではない。何を言っても間違いな気がして沈黙した。こういう人がプロになるのだろうかとぼんやり思った。
「今はもう眠れるの?」
「うん、睡眠薬は今でもたまに飲んでるけど、基本的には眠れるようになった」
「それはよかった。もしまた眠れなくなったら僕に言いなよ」
「えぇ? 子守歌でも歌ってくれるの?」
「ドラムなら叩ける」
ルカが笑った。一分くらい笑い続けた。僕の仕事は終了といったところだ。
ふいに風が強く吹いて、ベンチに置いていた空き缶が倒れた。
ルカにとって音楽は救いだという。僕にとっては、ただの好きなものだと思う。救いとまでは言えない。いや、はっきりと思いだせないが、高校生のころは、僕にとっても音楽こそ救いで、運命だったはずだ。だからこの道を選んだ。それなのに、どうしてこんなにもその想いが、今ぼやけて見えるのだろうか。酒を飲み過ぎたのかもしれない。
それにしても、ルカがこのような話をした理由はやはりわからなかった。今日はこの話をするためにわざわざ寄り道をして僕を引き留めたのだろうか。最初から決まっていたことなのだろうか。
彼女に踏みこむつもりはなかったのだが、いかんせん僕は自分の口と仲が悪いので、制御しきれず、彼女にとって都合の良い言葉を吐いてしまったかもしれない。それが呼び水となってしまったのかもしれない。自動的に出た言葉達が、彼女を誘導したのだ。
僕は自分の笑顔も制御できない。
何も楽しくない場面でも、嫌いな相手に対してでも、とりあえず笑顔を作ってしまうらしい。自分では気づかないし、制御できないから知ったことではない。が、今まで何度も「なぜ笑っているの?」と不思議そうに尋ねられたことがある。
知るわけがなかった。笑おうとして笑っているわけではないのだから。ともかく、今回も僕の知らないところで、僕の笑顔が彼女を誘導したのかもしれない。なにせ僕が認識している唯一の長所がこの笑顔だからだ。この笑顔のせいで、今まで数人のよくわからない女性から好かれたことがあった。彼女たちのことを僕は何一つ理解できなかったし、彼女たちも僕のことを何一つ理解していなかったはずだ。今回もやはりそうなのだろうか。
僕はその後も、ルカの気が済むまでお喋りに付き合った。僕の制御できない機能が勝手にあいづちを打ち続けるのを、ぼんやりと聞いていた。
ルカを家まで送り届けた後、駅に向かう途中で迷子になった。また一人で公園に戻り、三十分程度休憩した。ルカとの会話の内容を思い出そうとしたが、ルカの台詞はどれもくっきりと覚えているのに、自分の吐いた言葉はほとんど覚えていない有様だった。
ともかく酔いはさめたようで、今度は迷わず駅にたどり着いた。
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