青い霞
川野笹舟
第1話
電車の座席から伝わる振動が眠気をさそう。
窓の向こうには青緑の海が春の光を含んでゆっくりと揺れていた。
JR神戸線はゆるやかにカーブしながら明石海峡大橋をくぐり抜けていく。
僕は海の光に焼かれて痛む目を閉じ、イヤホンから流れる曲に耳を傾けた。今日の授業で演奏しなければならない曲だった。すでに覚えているし、聴き飽きた感もあるが、好き嫌いはさておきリピートボタンを押した。
元町駅で降り、繁華街から少し離れた路地裏に入った。
こぎれいな三階建てのビルが見えた。
KMC――神戸ミュージックカレッジ専門学校――である。KMCは音楽系の専門学校で、僕はこの春から通学している。高校の軽音楽部でドラムを叩き始め、さらなる上達を目指してここに入学した。
「おはようございます」
機嫌が悪そうに聞こえないぎりぎりのトーンで、すれちがうスタッフや学生に挨拶をしながら、スタジオへ向かった。
ピッピッピッピッ――BPM60の速さで鳴り響く電子音。それに合わせながら楽譜どおりのリズムでスネアドラム――小太鼓――を叩く。高校時代は楽譜を読む練習をあまりしていなかったため、まだ不慣れな僕にとって複雑なリズムではあったが、この程度の速さであれば間違えることはなかった。
個人レッスンの授業なので、小さいスタジオの中にいるのは僕と後藤先生の二人だけだった。
僕の座っているドラムセットと向かい合うようにしてもう一つのドラムセットが置いてある。そこには、先生が眉間にしわを寄せ、腕組をし、体を少し右に傾けながら座っている。
後藤先生は長年プロのドラマーとして活動している。海千山千の業界で生き抜いてきたことによる迫力が、体から――主に顔からにじみ出ていた。要するに顔が怖かった。
僕は十六小節の短いリズムを叩ききった。
「ふん、いいんじゃない? 一応楽譜どおりではある。リズムはボロボロだけどね」
「え?」
「全然メトロノームに合ってない。ズレてる。まぁ、まだわかんないか。練習しなよ」
一時間の個人レッスンが終わった。まだ僕にはズレというのがわからなかった。が、そういうものなのだろうと飲みこんだ。釈然としない顔をほぐしながら、次のアンサンブルの授業へ向かった。
僕はドラム科に所属しているが、アンサンブルの授業では他の科から寄せ集められた人達とバンドを組む。バンドでの演奏力向上を目的としている。四、五人が余裕をもって演奏できる程度の広さをもったスタジオに入ると、既に僕以外のメンバーがそろっていた。
「おはようございます」
音楽業界特有のものなのか、昼夜問わず挨拶は「おはようございます」らしい。
ボーカル科から参加しているルカが、
「アキラ、ちゃんと曲覚えた?」と笑いながら言った。
「うん、もう叩ける。ルカのほうこそ、歌詞が英語だけど大丈夫なの?」
彼女はサムズアップで返した。ボブスタイルのまっすぐと黒い髪がしゃらしゃらと揺れた。髪が流れる音をマイクが拾っているのかと思ったが幻聴のはずだ。彼女は鋭い切れ長の目に、薄い唇で、古風な顔である。髪型と相まって、こけしかクレオパトラのような、妙に雰囲気のある人だった。
紅一点のルカ以外に、ギター科の岸田とベース科の熊田が同じ授業のメンバーだ。彼らは既に準備ができており、適当なフレーズをつまびきながら音を確かめていた。
僕のカウントで曲が始まった。アンサンブルの授業は二回目で、まだお互いさぐりさぐりの感はあるものの、曲はスムーズに進んだ。一回目の授業ではオリエンテーションや自己紹介がメインだったので曲を合わせるのは今回が初である。
ルカの喋り声は汚い。
初めて聞いたときは酒やけか風邪でもひいているのかと思ったくらいだが、元々そういう声らしい。
しかし、それを曲にのせると、柔らかさと緊張感を含んだ美声になるのだった。英語に関してもネイティブのような発音の良さがあり、目を閉じて聴くと日本人が歌っているとは思えないほどだった。
アンサンブルの授業の後は座学で、楽典の知識に関する授業だった。先程のルカの歌声がまだ体に残っており、授業の内容は半分も頭に入らなかった。ああいう人がプロになるのだろうか、とぼんやり考えていた。
その日の授業がすべて終わった後、アンサンブルのメンバーで居酒屋に集まった。ギターの岸田が「決起集会をやるぞ」と言いだしたが、そんなに気合いの入ったものではなく、ただ仲を深めたいというか、飲みたいだけだろうと思われた。
学校近くの沖縄料理を出す店だった。岸田と熊田は先に一杯やっていた。ルカと僕が揃ったところであらためて乾杯し、だらだらと始まった。少し酔い始めた岸田が言った。
「ルカは何でアキラだけ下の名前で呼ぶの?」
「え? 呼びやすいから」とルカが言った。
「じゃあ俺のことも下の名前で呼んでくれてもいいんじゃない?」
「いや、岸田は岸田で、熊田は熊田でしょ」
「なんでだよ。じゃあ、アキラはなんでルカのこと下の名前で呼ぶの?」
「ルカが下の名前で呼ぶからだよ」と僕は言った。
嘘ではなかった。気付いたときにはそう呼んでいたし、特別な意味はなかった。それは自動的に選択された結果であり、指摘されるまで僕が意識することではなかった。
「あっそう。まぁいいや。俺さぁ、最初アキラのこと女だと思ってたんだよね」と岸田が言った。
「あぁ、時々言われるから気にしないけど」
「そうなんだ! やっぱりね。ピアスしてるし髪も若干長いし、ボーイッシュな女に見えたんだよな」
僕は自分を男だと思っているし、女が好きだけれど、昔から見た目に関しては女っぽいと何度か言われたことがあった。女が好きだと言ったが、それも怪しいもので、今まで誰も好きになったことがない。そのため、自分でも同性愛などを疑ったが、何度考えても男との恋愛は考えられなかったし、好きとまでは言わないものの女に惹かれることはあった。
ルカが煙草に火をつけた。天井のランプにむかって煙を吐きながら言った。
「そういえばバンド名決めないとだめじゃん。今決めようよ」
アンサンブルの授業で組んだバンドについて、バンド名を決めるよう先生に言われていたのだった。
みんなさんざん酔って、わけがわからなくなり、最終的にはその時に食べていたゴーヤチャンプルーを見つめながらルカが呟いた「チャンプルパラダイスでどう?」という言葉で決まってしまった。
僕も相当に酔っていて、気付いたときにはなぜか煙草まで吸っていた。これまで吸ったことはなかったし、持っていないので、メンバーの中で唯一の喫煙者だったルカからもらったのであろう。問い詰めたかったが、ルカは席に突っ伏して眠っていた。
岸田と熊田は終電が無くなると言って先に帰ってしまったので、僕がルカを家まで送ることになった。
彼女の家は学校から歩いていける距離にあった。春といってもまだ夜は少し寒かった。青い草と甘ったるい花の匂い、そしてルカの匂いがした。
「アキラって彼女いるの?」
「いないよ」
「彼氏は?」
「いない。女が好きだからね」
「女好きかぁ」
ルカの家はそれなりに大きなマンションだった。一人暮らしをしているらしい。マンションの入口で別れた。横にあった一軒家の庭で犬が吠えていた。犬は朝と夜の違いも理解していないように大きな声で鳴いていた。
終電が危うかったので僕は足早に立ち去った。
五月のある日、授業の合間に三時間ほど空きができた。
本当は個人練習をするべきだったが、気が乗らず、学校を抜け出して適当に知らない道を散歩することにした。
人気の無いほうへ歩いていくと、住宅街の中に喫茶店を発見した。入口近くに立て掛けられているメニューを一、二分かけて読んだ。住宅街は静かで、平日昼日中から暇を持て余している罪人は僕だけのような気がした。
一人で店に入る勇気もなく、学校へ戻ろうと決心してメニューから顔をあげると、すぐそばにルカがいた。心臓が痛くなるほど驚いたが、体の外にその響きは伝わらなかったと思われる。
「ルカ、なんでこんなところにいるの?」
「こっちの台詞なんだけど。私の家、この近くだから。アキラこそ何してるの?」
そういえば以前、ルカを家まで送ったときに、このあたりを通った気もする。それはともかく、僕はここで何をしているのだろうか。本来の脳とは別で、足に搭載された脳が考えて勝手にここまで連れてこられたような気分だった。僕が一瞬言葉につまった隙をついてルカがまくしたてた。
「めちゃくちゃメニュー見てたけどお腹空いてるの? いま暇? 暇だよね。すごく暇そうだね。このお店でお茶しよう」
店に入ると僕達以外に客はいなかった。友達のお母さんが部屋着でやっているような喫茶店だった。
窓際の席に座った。二人ともブレンドコーヒーを注文してしばし沈黙した。お腹が空いているのになぜ食事を頼まなかったのか自分でもよくわからなかった。
窓の横にある棚には色とりどりの空き瓶が飾られている。緑と青の瓶が多いように見えた。僕の目線を追ってか、ルカも瓶を見つめていた。僕は、彼女の肩の上で切りそろえられた黒髪のまっすぐなラインを見つめながら、
「ルカの歌声、すごいよね、今まで聴いた声の中で一番好き」と言った。言葉を間違えたなと思った。ただお世辞を言いたかっただけのはずが、過剰に表現してしまった。
「え、嬉しい。ほんとに? ありがとう」
ルカは不思議な表情をした後、握りこぶしで口を隠しながら笑った。笑いながらも疑うような鋭い目つきで柔らかく僕を睨んだ。
「あと英語の発音も良くてびっくりした。なんであんなに?」
「小さいころから親が洋楽ばっかり聴いてたからね。耳コピで発音も真似してたらああなった。アキラもドラムうまいよ」
「適当だな……まぁ、ありがとう」
「ほんとだって! あとね、優しい。前、家まで送ってくれたし」
「それこそ適当な」
褒められるよりも適当なお世辞を言われるほうが素直に笑えた。
店員がコーヒーを持ってきた。ルカはミルクと砂糖を入れて一口飲み、煙草に火をつけた。僕はブラックのまま二口飲んだ。
「そういえば飲み会の時、なんで僕は煙草を吸っていたのかな? 覚えてないんだけど」
「覚えてないの? 私が『あげようか?』って聞いたら、アキラがちょうだいって言ったから一本あげたんだけど、もしかして吸わない人だった?」
「そうだよ。あの時まで吸ってなかったのに、あれ以来、吸うようになっちゃったんだよ」
僕は「どうしてくれるんだ」とぼやきながらポケットから煙草を取り出し火をつけた。煙草の味はまだよくわからないが、煙を胸の奥に入れると落ち着くということだけは理解している。
「煙草美味しい?」とルカが聞く。
「うん。ありがとう」と僕は目を細めた。
「煙草が似合う指をしてるね」
「そう? ルカは煙草が似合う横顔をしてるね」
それから二時間弱、お互いに褒めるところがなくなったあたりで店を出た。すきっ腹にカフェインを流しこんだせいか、最後のほうは胃が痛かった。僕はこの時点で一日のエネルギーを使い果たしたらしく、その後の授業では居眠りをした。
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