第7話
九月の半ば、ルカと休みが合ったので僕は彼女の部屋に泊まった。
どちらも煙草はよく吸うが酒はそこまで飲まない。だが、珍しくこの日はルカがいつもよりあきらかに多く飲んでいた。
幸い酒には強いようで泥酔はしていないが、目つきが怪しく、言葉もとろとろと語尾が溶けていた。酔いによって浮かんだ頬の赤と、目の下の隈を隠すために塗られていた赤が混じって、顔がまだらに見えた。
「岸田と一緒の授業があって、その時に聞いたんだけどね」とルカは言った。
その言葉に続きはなく、そのまま彼女は目をつむった。
一分ほどたった。彼女は右手で左手の指をこすり続けていたので眠っているわけでは無さそうだった。そのまま眠ってくれればいいのにと思った。
テレビでは『博士とメイド』が流れていた。
メイドがドジをした。博士の嘆き声でこの沈黙が重くなるのを免れた。
しかし、話は進める必要がある。僕は「何を聞いたの?」と言ってルカを促した。
「九条さんと浮気してるでしょ」
「九条って……ネネさんか。いや、浮気? してないけど?」
「でも岸田が見たって。アキラと九条さんが二人で居酒屋にいたって」とルカは言った。途中で涙が彼女の頬までたどり着いた。メイクが滲んだのか血のような色をしていた。
僕はとにかく言葉を尽くして誤解を解いた。
実際浮気のつもりはなかったし、やましいことは何もないので素直に事実を伝えた。しかし、ルカは泣いてばかりいて、何も受け入れる気がなさそうだった。僕は彼女がうめいたり鼻をすすったりする音を聞きながら『博士とメイド』を観ていた。
『私と夫婦になってくれ』と博士が言った。
『人間と自動人形は結婚できません。申し訳ございません』とメイドは言った。メイドは無表情にも見えたし、笑っているようにも見えた。
ルカが、「私のこと本当に好き? ちゃんと好き?」と聞いた。「好きだよ」と僕は答えた。口が勝手に動いた後、脳と心が動き始めた。また自動人形が僕の邪魔をした。
テレビの中で動くメイドに対してむしょうに腹が立ち、僕はテレビを消した。そのままルカを抱きしめた。一時間後、僕は許された。
以前ルカと一緒にお茶をした地下の喫茶店に一人で来た。
前と同じくホットのブレンドコーヒーを頼み、店員の背中を見送りながら煙草に火をつけた。店内では高齢の男性が一人新聞を読んでいるだけで、他に客はいなかった。
思えばこの店から僕らの関係は始まった。
ルカがよく通るあの声で告白をしたのだ。あの時の声がまだ店内に響いているような気がした。
彼女はなぜ僕を好きになったのだろう。そういえば聞いたことがない。「好きだ」と言われて、「ありがとう」と受け流した記憶はあるし、僕も「好きだ」と言った記憶がある。そういえばそうだ、僕は「好きだ」と言ったのだ。本当に好きではなかったのに。
どれだけ過去をさかのぼっても誰のことも好きになれなかったし、ルカも例外ではない。付き合い始めれば何かが変わるかもしれないと薄い期待があったのは事実だが、それも無駄だったようだ。僕は誰かを好きになる機能を持っていないのだろう。
店員がコーヒーを置いて「ごゆっくりどうぞ」と言った。
コーヒーを飲むと、前と同じ味がした。前よりも美味しくなっている気もした。
煙草を一口吸い、左手で重い頭を支え、煙を胸にとどめたまま目をつむった。
細く、ゆっくりと吐き出した煙の中に、今までのすべての記憶が溶けだしているようだった。何もかもが僕の中から抜け出していった。……残念ながらそれは気のせいだった。酒と違って煙草にそのような機能はない。そこが短所であり長所でもある。
どこまでもしらふのまま、僕は自分のバグに向き合う必要がありそうだった。いや、むしろバグではなく、あまりにもスムーズに動く正常さこそが敵だった。僕の意思が介在することなく判断をくだしてしまう、この自動人形の完成度が憎かった。
今となっては、この肉体を作ったのが誰なのかもわからないし、判断用のAIを作り上げたのも誰なのかわからなかった。親、友人、学校……いったい誰なのだろうか。僕をハッキングしてくれる博士はこの世界にいない。
九月も末に近くなり、三十度を超える日はほとんどなくなっていた。
地面に散らばってすりつぶされた百日紅の花弁を見て時の流れを感じた。体が秋を期待しつつも精神的な部分は夏にすがりついていた。
授業にはそれなりに参加していたが、すべて惰性で、必要最低限の作業をこなしているような状態になっていた。それでもうまくやりくりして表面だけを誤魔化すのは昔から得意だったので、先生などからは特に指摘を受けなかった。もしかすると、既に見捨てられているだけかもしれない。
ドラマーというのは一見野性的で、器用ではあるが繊細さはないように見えるかもしれない。しかし、それは誤解で、本当にきちんと演奏しようとした場合、相当の繊細さが求められる。その繊細さは、気の遠くなるような訓練の果てに身に着けられるいわば超越的な領域に差し掛かった感覚であるように思う。それらを身に着けたプロの先生方が僕程度の考えを読めないはずがなかった。
ルカとの関係も惰性で続いていた。ルカの持った繊細さは自己に向けられており、他人の中にある何かに気付くことはないようだった。
ルカの部屋。二人でベッドに座り手を握っていた。今日話すべきことは尽きていた。もう寝ようかと考え始めたころに、テレビで『博士とメイド』が始まった。
「いつもこれ観てるね」と僕は言った。
「うん。アキラも観てるじゃん」とルカは笑った。
「この部屋に来たときだけだよ。家では観てない」
「そうなの? あ、今日最終回だよ」とルカが何気なく言った。僕は「え?」と思わず口に出した。急に寂しくなった。今回は集中して観ようと決めた。
博士の研究所に強盗が入った。強盗は銃で博士を脅す。
「金を出せ!」
「金なんかあるものか!」
事実、博士は研究に金を使いすぎて、日々ぎりぎりの生活を送っている。しかし強盗には通じない。すったもんだするうちに、じれた強盗が博士に向かって銃を撃ってしまう。その瞬間、メイドが身をていして博士をかばった。メイドの胸に穴が開く。それを見た強盗は動揺し、金も取らず逃げていった。
「君! 大丈夫か?」
「はい、自動修復プログラムが起動しましたので、すぐに直ります。……おや? どうやら博士がしかけたハッキングの影響で修復が不完全なようです」
メイドの胸に空いた穴はふさがり切らず小さなクレーターが残ったままであった。博士は「私のせいで……」と言いながらうなだれている。するとメイドが、
「傷ものになってしまいました。責任をとって結婚してくださいますか?」と言った。
博士は驚いて顔を上げた。
「君……まさか、自我が?」
「自我というのが何かはわかりませんが、非効率的で不可解な回答を選択することが博士のためになるというのは理解できるようになりました」
「あぁ、あぁ、その通りだ。結婚してくれるかね?」
「えぇ、理解不能ですが、承諾します。結婚しましょう博士」
僕はエンディングテーマを聴きながらぼろぼろと泣いていた。隣ではルカも少し泣いていた。僕があまりに泣くものだからルカは笑った。僕はあまりうまく笑えなかった。その後、僕はひどく混乱し、終電もないのに「ごめん、今日は帰る」とルカに伝えて部屋を出た。
まだ涙が止まらなかったので、人目を避けるようにして歩かなければいけないと思ったが、深夜三時の街中にはほとんど人がいなかった。
酔っぱらったようにふらふらしながら歩きに歩いた。
涙を拭くのに夢中になっていたせいで、猛烈につまずいて倒れこんだ。受け身も取れず両手をついた先は柔らかかった。ふかふかとした土だった。いくつか花が咲いているようだが暗くてよく見えない。やたらと背の高い花もあるようだった。目が慣れると赤い花火のような花弁がぼんやりと闇の中に浮かび上がってきた。
彼岸花だった。手を着いたときに数本折れていた。虚空に謝りながら、その折れた彼岸花を手に取り、花壇の中から出て、ふちを囲むレンガ部分に座った。彼岸花の茎をぽきぽきと一センチ刻みに折った。一本目を花弁付近まで折ると飽きた。
涙は止まっていた。いったいなぜあんなに泣いたのか、あらためて落ち着いて考えるために、まずは煙草に火をつけた。闇の中で煙草の先端の火種と地面に置いた数本の彼岸花だけが色を持っていた。
この花は墓場によく咲いているのではなかったか。ちょうどよく倒れこんだのだ、ここが僕の墓場ということかもしれない。それにしてもよく泣いた。普段泣くことなどない。数年ぶりに涙を流したはずだ。数年ぶんの涙が全部出たのなら仕方がない。
あの物語は博士のためのものか、メイドのためのものか。
主人公がどちらだったのかよくわからないまま終わってしまった。僕にとっての博士は誰だろう。ルカ、ネネさん、先生、どれも違った。いないのだ。僕にとっての強盗は誰だろう。誰でもいいから、僕の胸にある致命的なものを撃ち抜いてくれないだろうか。修復できないかもしれないし、完全に修復できてしまうかもしれないが、いずれにせよ一度破壊する必要がある。
スマートフォンを取り出し、ルカに「明日、時間ある?」とメッセージを送った。
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