第0.6話 ヒトを破壊する力
東京都内のある病院の一室。晴天に恵まれた今日は、心地よい風が窓を通じ、部屋中を通り抜け穏やかな気持ちにさせる。
そんな暖かな風を受ける二人の存在。一人は黄褐色のふんわりとした頭髪を風に揺らし、青空のように澄んだ双眸でベッドに眠る女性を優しく見守る。そう、その深い眠りから覚めることのない彼女の手をただ優しく……。
部屋の引き戸がゆっくりと開かれる。反対側からは看護師の格好をした若い女性が部屋に入ってきた。
「あら、開智くん今日も来てたのね」
「あ、どうも。大学終わって家帰っても、
黄褐色の髪の青年の名は
看護師は手際良くベッドに眠る泪奈の脈を測ったり、枕や布団の位置を整えながら、再び開智の方へと視線を向ける。
「泪奈ちゃん、経過は良好よ。今は彼女の力を信じることしかできないけど、治療法だって——」
「——いいんです水野さん」
開智は看護師の言葉を遮る。優しさに溢れていた瞳に若干の揺らぎが生じる。
しかし一瞬にしてその動揺は消え去り、再び開智は青い瞳で泪奈の方へと視線を戻す。
「俺、わかってるんです。ゲヘナに身体を侵され、眠りについてしまった人間がどうなるか。科学の力がどれだけ進化を遂げようと、今この瞬間からその進化に触れられるわけじゃないって。きっとゲヘナに打ち勝てる、その日は50年、いや100年先かもしれないじゃないですか」
「————」
開智は作った笑顔でそう長々と語る。看護師は開智の強がった言葉を察せてしまうだけに、次に掛けてあげられる言葉が見つからないと難しい表情を浮かべる。
開智は作った笑顔のまま続けてた――、
「水野さん、多分俺が次にここに来るのは、少し先になるかもしれないんです」
看護師はその言葉を受け、少し驚いた表情を浮かべる。
「開智くんそれってどういう……」
「ゲヘナに侵された人間を元に戻す方法、俺はその根本を解決するしかないって気付いたんです。進行を抑制するだけじゃダメなんです、きっともうこうするしか」
「ま、まさかGS——」
看護師が何かを言いかけたタイミングで、再び部屋の扉が開かれる。扉の先には白衣をまとい、白髪交じりの髭を生やした、いかにもな医者が立っていた。
部屋へと足を踏み入れるわけでもなく、開智に対し手招きをして見せた。
開智は泪奈の手をそっと布団の中へと戻し、看護師の水野に軽く会釈を済ませ病室を後にした。
部屋に一人となった看護師は、小さな呼吸で命を繋ぐ泪奈の頬を優しく撫で呟いた、
「——泪奈ちゃん、どちらもというわけにはいかないのかしら……」
**********
白髪交じり髭の医者に続き、開智は診察室へとやって来た。
二人は丸椅子に腰を掛けると、しばしの沈黙が生まれた。両者ともにその沈黙が良くないものだということは、言葉無くして理解することができる。
重い口を先に開いたのは医者の方だった。
「中村さん、単刀直入に伝えましょう」
「僕もそうしてくれた方が助かります」
「今一度ゲヘナについて私の方からお話ししましょう」
そう言うと医者はパソコンを操作し始め、開智に二枚の画像を見せた。
画面に映し出された画像は少々惨いものだった。
「画像の左側は、あなたの妹さんである中村泪奈さんと同じ、ゲヘナウイルスに死性感染の反応を見せたネズミの体内です。画像の通り、あらゆる体内の臓器から出血が見られ、最終的には体内で出血多量及び心肺停止で死に至る。これが死性感染。そして泪奈ちゃんに今後起こる末路です」
「は、はぃ……」
開智の動揺は幼児が見ても気が付くことができるほどのもの、だが医者は続ける。
「画像の右側のネズミ、これはゲヘナに順応感染の反応を示したネズミの画像です。私と君たちの付き合いは短い様で長い。私は君のことは少しだけ理解しているつもりだ、だからこれを告げようと思います―—」
覚悟していたはずなのに、極限の恐怖が開智を襲い始める。己の死が近づいているわけでもないのに、開智の脳内に走馬灯がよぎる。
体をぶるぶると振るわせる開智を横目に、医者は開智に告げた、
「万策尽き果ててしまいました。私たち医師の不甲斐無さ、心よりお詫び申し上げたい」
ゲヘナに感染した者の末路。何十年も前から存在するゲヘナウイルスを前に、人間は未だにワクチンすら生み出すことができない。開智の頭の中で何かが千切れる。彼はこの体験を何度繰り返し、後何度受ければいいのだろうかと頭の中が真っ白になった。
開智は頭を下げたままの医者に告げる、
「先生、頭を上げて下さい。僕もわかっていたことだし、覚悟も決めてました。ただ、目の当たりにすると人間の弱さって露呈するんですね。医学の力ではどうにもならない、これだけの時間を費やしても人間はゲヘナに勝てない。僕はゲヘナを治療するんじゃなく、破壊することを選びます」
「まさか、君……」
「はい。もう大学には届け出も提出しました。医学のことはほんの少ししか学べませんでしたけど、先生にもすごく感謝してます。でももう決めましたから――」
椅子から立ち上がる開智を、医者は怪物を目にしているような視線で見つめた。しかしその視線は正しいもの。開智が選択した道は正しく修羅の道、人間の
それ以上の会話が生まれることはなく、開智は診察室を後にした。
病院の廊下をゆっくりと歩く開智は、胸元から赤い封筒を取り出す。封筒の隅には『GSW』との文字が記載されていた。
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