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 喫茶店で彼と別れてから大体2時間後、私は電車を二度乗り換え、郊外の廃屋の前にいた。元はレストラン、その前はお寺が建っていた土地であり、現在は第一級の霊障物件として一般人の立ち入りは禁止されている。

 偏在性魂魄原理の証明以降、寺社や教会のような宗教施設は時代の激動に様々な形で巻き込まれた。何せ世界のあらゆる宗教が自分たちの信じる経典の書き換え、あるいは再解釈を迫られた一大パラダイムシフトである。新時代における真なる聖堂として扱われた場所はまだよいが、錯綜した情報が特に田舎のような村社会で事実とはおおよそ真逆と言ってよいほどの誤解を生み出し、結果破壊された寺社も数多くあった。一説ではこの「新・廃仏毀釈運動」で取り壊された日本の寺社は実に全体の3割近くに及んだという。アインシュタインは神仏を祀りそこに人が寄り添ってきたという"歴史"そのものの価値を証明したに等しかったというのに、残念ながら後の祭りである。

 が、しかし、この悲しむべき破壊が後世に意外な恩恵をもたらすのが歴史というものだったりする。

 現在、幸運にも生き残った歴史ある寺社のほとんどが発電施設としての役割を兼用しているのだが、現実的にそれだけでは都市の電力を賄いきれない。あの出雲大社ですら精々一町村の夜間灯を灯すのがやっとであり、それも年々出力が下がり続けている。その手のものは指向性がそもそも『解脱』や『禁欲』にあり、生者の欲を満たすための電力への変換効率が著しく低いのが原因だ。

 土地や物にしがみつくドロドロとした亡者の怨念こそが今日の世界のタービンを回す主役である。

 私は関係者以外立入禁止のテープをまたぎ、廃屋はいおくに足を踏み入れた。色の褪せたフローリングの上に、割れた窓ガラスの破片がたくさん散らばっている。土が入ったままの植木鉢やクッションの剥がれた椅子、恐ろしく古い映画のポスター……当然ながら前来たときと何一つ変わるところはない。霊障付きの土地ということもあってレストランの創業当初は電気代の浮く優良物件であったはずだが、ある時期を境に、皿が勝手に割れる、食事に骨の破片が混入する、床が水浸しになるなどの危険等級『C』クラスの心霊現象が多発し、放棄されたのが遥か30年以上前の話である。

 現代の日本には、こういった潜在的発電施設候補がたくさん眠っている。霊障付き物件や祟り・呪いの詰まった物品から電力を取り出すためにはそこにあった『恨みつらみ』を理解し、晴らされぬ無念を正しく『祀る』ための儀式的な機構が必要となる。未だ古い世代には誤解されていることもあるが、恨みを抱いた霊魂を電力に変換していくのは残酷なことでは決してなく、むしろ人道に則った社会の霊的清掃活動とさえ言えるだろう。

 成仏を助けるために地上に残った霊と交信し、土地や物を電力へと変換させていく手法を確立するのが、現代における『霊媒師』、つまりは私の仕事である。

 私はチャックが壊れかけたショルダーバッグからイヤホンと古いカセットテープ、それに携帯式の再生機器を取り出した。この手の古い機器を所持しているのは職業柄ということもあるが、ぶっちゃけ壊れかけでも機能が残っているうちはまだ感じがしてしまってスパッと諦められない、私の性分によるところが大きい。

 スイッチを入れると、ザアザアとノイズ混じりに般若心経が鳴り始めた。ひとまずはだみ声の経文に耳を傾けつつ、霊視用のメガネで周囲を見渡しながら徒然つれづれと歩き回ってみることにする。今日は夜に薪人との約束もあったのでスカートだしあまり動きやすい靴でもないので、長居する気はない。こういう同調シンクロ作業は回数が重要なので、時間さえ見つければ通うことにしている。

『……しゃーりーしーしきふーいーくーくーふーいーしき……』

 イヤホンから流れる読経を聞きながら、何か霊的な予兆はないかと神経を尖らせる。もともとここは、私が勤めていた霊媒事務所が調査を進めていた発電候補地だったのだが、時代が古すぎたために資料集めが難航し、採算に見合う目処めどが立たないとして事務所からは「お預け」にされた場所である。とはいえ私としてはこの場所は初めて本格的に担当した案件であり、しかもやっと糸口を掴みかけていたところでのプロジェクト放棄だったので到底受け容れられず、結果事務所を辞めてフリーの立ち場で調査を続けることにしたのが大体2年前の話だ。割と馬鹿な選択ではあるのだが、リターンがない話ではない。ここの調査権は現在私が独占的に保有している状態であり、私がこの場所の発電手法を構築できれば、「怨念」次第では一生働く必要がないくらいの利権が手に入る。この廃墟は、私が初めて足を踏み入れた瞬間、人生で一度も感じたことがないほどの悪寒に包まれたド級の幽霊物件だ。結構大きな夢を思い描いてもバチは当たらないだろう。

『じゅーそうぎょうしきーやくぶー……にょー……おぉ……』

 音声が乱れたので、ひとまず足を止める。このくらいの現象は街を歩けば日に十回くらいは体験できるほどありふれているので期待はしていなかったのだが……。

『おぉ……なんという……』

 ドロリと、お経と比べてもなお低い声。

 全身が凍りついた。

 ……来た。

『なんということだ……これは…………』

 男性の声だ。くぐもっていて、どこか悲痛な響きを伴っている。

「……道遵ドウジュンさん?」

 私は名前を呼ばわった。かつてここに在ったお寺、白院寺の住職の名である。

『…………』

 読経は完全に沈黙している。私は眼鏡越しに荒れ果てた店内をうかがった。気がつけば背中を汗が伝っていて、なのに体の芯は冷えている。

 この感覚……大切な手がかりを見つけた高揚感と、霊魂というものへの純然たる恐怖が混じり合った独特の精神状態。

 やがて眼鏡の中にオレンジの光が揺らめく。火災……だろうか? 僧衣の袈裟、嘆き、痛み……。

「道遵さん?」

 もう一度、私は名前を呼んだ。

 そして気づいた。

 店の真ん中に、数珠を持った真っ黒い手首が二つ、祈りの形を取って浮いている。震える手で眼鏡を少しずらして確認すると、手首は消えたが、数珠は確かに。実体化と浮遊現象レビテーション。よほど強力な未練がなければ、ここまでのことは起きない。

 じゃあやっぱり道遵さんは……。

「あなたは……殺されたのですね?」

 半ばトランスに近い状態で、私は呟いていた。

 この場所にお寺があったのは、今から50年以上も前の話だ。道遵という僧侶がいたことを知っているという人物すら今のところ見つかっておらず、数少ない手がかりは、国立大学の図書館の古倉庫の中に眠っていた彼の貸出記録くらいのものだった。

 彼は、偏在性魂魄原理発見の黎明期にあって、まだ和訳すら存在していなかったであろう霊学の学術書や論文を熱心に読み漁っていたらしい。

 なんという聡明さだろう。

 私はその宗教家としての誠実な態度と知性に惹かれ、そしてそれだけに、ここに巨大な『未練』が残っているという事実に胸を焼かれた。

 理解したい。

 そして、きちんと供養したい。

 だから私は……。

『なんと……むごい……』

 宙に浮かぶ手はいよいよくっきりと像を結んでいく。その手は骨であり、そして恐ろしいことに、手首のところで切断されている。寒気は息が白くなるほどで、あたりは間違いなく暗くなりつつある。

 きっと今なら、理解ができる。ここで何があったか、何が必要か。

 だけど……。

「死人が直前に引くカードは死神や塔よりもむしろその吊られた男の方が多いんだ……」

 薪人の声が、頭に響く。

 くそっ。

 やめろ……考えるな、こんな雑念。ここまで来るのに二年かかった。ようやくシンクロできたのに……。

 いや、でも本当に、これは雑念か?

 霊との交感による死亡事故は、ごく稀だ。ほとんど起きることではない。ようするに0ではない。死なずとも深刻な精神障害が起きる確率はもう少し高いだろう。

 クラクラと立ちくらみがする。鼻の奥に、あるはずのない灯油の匂いが漂い始めた。この場所が本当に『ヤバい』ことは知っていたが、正直に言って、ここまでの呪圧は想定外である。

 誰かに殺された人間の無念に勝る『遺志』はない。

 奪われた時間を代替するものなど、この世に一つも存在しないのだから。

 読経が、またイヤホンから響く。先よりも激しく、明らかに苦しげに。

 そして私は、見た。

 合掌する躯の手の奥に……彼が、いるのを。

『……どうか』

 彼は言った。

 脳内に映像が巡る。燃え盛るお寺、祈る僧侶の後ろ姿、誰か叫び声。そして、手首が切り落とされる強烈なイメージ。

 その手を、

 落としたのは、

 ……え?

 まさか、自分自身で?

『救いを……』

 彼は喘ぐ。

「なんてこと……」

 キーンと、頭の中で悲鳴にも似た危険信号が上がった。彼は誰かに殺されたわけではない。5系統に大別される地縛霊の中でも特に確率が高い5型地縛霊<自死によって故意に土地・物に定着した霊魂>である。

 でも……、

 逃げるの?

 せっかくここまで同調できたのに?

 切り落とされた手首。

 燃えるお寺。

 逆さに吊られた男……。

 これが、試練か?

 行くべき試練か、戻るべき試練か。

 どっちだ?

『どうか……どうか……』

 大きく、息を吸う。

 どうする?

 どうする?

 ああ、

 もう少し、

 でも、

 私は……。

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