3
20分後。私は荒い呼吸をしながら、地元の電気屋の前に備えられたお地蔵様の前で手を合わせていた。汗で全身が濡れていて、じっとりと脳内に暗いモヤのような気だるさがまとわりついている。
今は、無理だ。準備が足りない。
それが私の結論だった。
6つ並んだお地蔵様に祈りを捧げながら、ついでにその手にケータイを載せ充電もさせてもらう。改めて考えてみて、一時撤退は妥当な判断だったと思う。あの場所に残っている道遵さんの無念は想像以上に危険なものであった。自分で自分の手首を切り落とすなんて尋常ではない。覚悟なしで
もちろん、後悔がないわけじゃない。
ぶっちゃけかなり悔しい。
ああいうシンクロ体験はタイミングが命だったりするのだ。次に来るときに同じものが見えてくれるとは限らない。
だけど……今日は、薪人の予感を信じようと思った。彼の霊感は、勉強と知識で感度を誤魔化している私のそれよりもずっと確かだ。
「惜しかったなあ……」
それでも漏れてくる心の声を口を動かさずこっそり吐き出しながら、私は最後、お地蔵様に十円だけ
古びた駅で電車を待つまでの間、私は動物園のメモ帳に今日のことを記していた。見えた光景や道遵さんにまつわる大事な情報はもちろん、今日の天気とか時間とか、そういう些細なものまでできるだけ記録しておく。こういうマメな作業がシンクロにはとても大事なのだ。特に気になったのは、私が道遵さんを殺されたと誤認したことが、むしろ彼との同調を高めたということ。素直に考えれば彼の親しい人間が誰かに殺されたという可能性が一番高いのだが、そういう場合、その誰かの霊的な痕跡が霊視に映るはずである。
あそこには道遵さんしかいなかったのは間違いない。
電車が到着したので、私は乗り込む。窓辺の席に腰掛けてシートベルトをし一息ついた。電車が出発し、加速度とともに景色が上昇する。地縛霊の引力は直線よりもむしろ放物線を描くという法則に従い、鉄道のレールは龍か虹のように町の空を這っている。浮遊霊とレビテーションの研究が進むまでは無理やり地上を通していたそうだが、現在では都市メテロの8割がこのような放物線式である。
夕方に近づく空に、少しずつ鬼火の照明が浮かびつつある。格子窓を張り巡らせた純和風の高層ビル群が、遠くで金色と橙にキラキラ輝いている。最近はどの国でも土地神との親和性を高めて通電効率を上げるために、その国古来の建築法とデザインを踏襲した建築が増えている。百万枚の瓦屋根、鳥居を使った電信柱、どこまでも続く漆喰の壁や提灯のネオン……そして地鎮及びゴースト・グローバル・ネット用データサーバとして10年ほど前からの国家プロジェクトとして日本各地に増設が進められている、高さ800メートルに及ぶ卒塔婆の大行列。
心のふるさとと呼ぶにはいささかパンク過ぎる景色だよなあと、私は少し微笑んだ。
上るたびに雲に近づき、内臓が浮かび上がるような奇妙な高揚感に浸りながら、だけど私の気持ちは優れなかった。お地蔵様でリフレッシュしたというのに、まだ脳内に真黒いモヤが停留しているような感じがする。それだけ道遵さんの未練は強烈だったということだろう。
自ら手首を切り落とした僧侶。
燃え盛る寺。
狂気じみた行動とは裏腹に……あの声はどこか優しかった。
本当に、どうして彼は……。
道遵さんの死を想うとどうしても胸に寂しい気持ちがこみ上げてくるのを抑えられなかったが、それでも、殺されたわけではなかったのには少しだけ安心した。まあ、あえて不謹慎な言い方をすれば、殺された人間の方が発電量は圧倒的に多いのだが……殺人事件の場合に必然存在する『犯人』の調査がないというそれだけでも随分と気が楽である。未練と無念を電力へ変えられるこの時代、殺人事件の犯人なんていうのは極めてつまらない存在だ。ほとんどどんな場合であれ、どんな動機であれ、無関係な人間を殺した人間の魂には霊的に見るべき点が存在しないというのが現代霊媒学の結論である。かつて、罪のない子どもたちを『神への供物』として殺し回ったある殺人鬼の魂が乾電池一つ分という普通に少ない発電量しか生み出せなかった事実が公表されて以降、世界から人殺しをある種の憧れやヒロイズムを持って描く文学が消失した。
加害者なんて、人に成れなかった動物の成れの果てだ。ただ、自分のことでいっぱいいっぱいだっただけの稚拙な魂。かつて大学の教授が、殺人に限らずあらゆる暴力を『屁』だと例えた。肛門が自らを通過して排出されたそれをいかに解釈しようと、それはただの屁でしかないと。いい例えだと思う。
人殺しも、
連続強姦魔も、
ただ短気でつまらない人生を送った老人も、
酔いどれで暴力的だった私の父も……。
その心には当たり前でありきたりなもの以外は存在せず、彼らの魂は最期、ほんの少し不愉快そうな呻きを上げて、霞が散るように消えていく。
本当に、それだけ。
例外はない。
それなのに、
その『屁』に殺された方の無念は恐ろしいほど長い期間地上に留まり、失った時間と奪われた未来を嘆いて呪いを発し続ける。
あんまりにも理不尽である。
その理不尽さゆえに殺人事件は罪深く、どこまでも後味が悪い。犯人なんてできれば無視してしまいたいが霊の換電作業には『未練』への理解が必要な以上、なまじ調べないわけにもいかない。この仕事で一番嫌な作業だ。
殺人とは常に殺された側の物語なのに……。
私は胸に手を強く当て、嫌な気を押し出すように、深く息を吐き出した。
ネガティブなことばかり頭に浮かぶのは、呪いに引っ張られている証拠だ。
落ち着いて……大丈夫。
死がいかに哀しくとも、未練が地上に残っているというのは……字面ほど悪いことではない。
救済はある。
死んだ人間の
……ああ、駄目だ、またなんか思考がネガティブよりになってる。
どうやら思いのほか深刻っぽいので、やむなく私はT駅で一度降りて、どこかお寺か神社を探すことにした。もう一駅様子を見ようとも思ったが、ダルいからこそ行動は早いに限る。こびりついた呪念を払うにはなんだかんだ神社にお参りするのが一番だ。
楽しいことを考えよう。
夜は折角のデート。
なんだったらプロポーズされる確率だって、流石にまだ早いだろうけど、ゼロってわけじゃない。あまり変な気持ちを引きずって行きたくはない。
自動販売機で買ったお茶を飲みつつ、ケータイで地図を確かめながらできるだけ古い神社を探す。やっぱり本当に体が重い。余計な浮遊霊に憑かれてしまったのかもしれない。ふと気がつけば、電信柱に手のひらをついて肩で息をしていた。スベスベとした木目の感触。少しでも悪い気を祓おうと額をこすりつける。撤退は本当に正しかったかようだ。まじで吐きそうである。
視界に影を感じて、私はぼんやりと振り返った。人気のない路地裏から、黒い霊の影がこちらをこっそりと伺っている。ここでようやく、私はなぜ自分がこんなに調子を崩しているのかに気がついた。
このメガネだ。
おばけを映すためにあえて新調した曰くつきの霊視メガネ。しかもご丁寧に、未浄化の霊障物件で物騒な景色を映しまくって呪いを刷り込ませてある。
こんなもの掛けていれば、つかれないわけがない。
まったく、なんて初歩的な……。
きっと薪人に褒められて無意識に外したくなくなっていたんだろう。
乾いた笑みを漏らしながらメガネを外して目をこする。ああいう浮遊霊も、心はとっくにどこかへ飛び立った誰かの、ぼんやりとした後悔の残り香で……。
……あ。
もしかして道遵さんは、
ビビッと、耳の裏に這い上がるものがあった。それは背中に小さな水滴が落ちた程度の、かすかな予感。だけど何か、正解に近いところに
もし彼が、地上に残された未練に魂が残っていると誤解し、殺された人の魂が地上に100年も200年も囚われると思ってしまっていたとして、
その悲劇性に耐えかね、供養の合掌を地上に残そうとしたとすれば……、
ドラマチックすぎる?
いや、でも、筋は通るかも、
え、もしかして、これが正解?
あの時代でも心の揮発性は発見されていたと思うけれど、情報の伝わりは土地によって格差があったから……。
頭がぐるぐると回り始め、気持ちもやや上向きになってきたのを感じながら、私はふわりと顔を上げた。
さっきの影が、まだそこにいた。
さっきよりもずっと近くで私を見ていた。
黒い服と白いマスク、それにフードを被っているそいつは……幽霊じゃなかった。
「……え?」
男の右手に、光るもの。
ナイフだった。
腕を掴まれる。
「おい……お前……」かすれた男の声。
この男が誰なのかとか、
何が起きているんだとか、
一つでも理解するより先に、喉から悲鳴が飛び出した。
男の手が動き、銀色の刃先が迫ってくる。
おぞましい予感。
カードの中で、逆さに吊られた男が笑って……。
「や……っ!!?」
ドスッと、体の内側で、豆が潰れるような嫌な音が鳴った。
激痛。
真紅。
息が詰まる。
突き刺さった刃。
祈りを捧げる両手と、卒塔婆の行列。
(うそ……)
買ったばかりのメガネが、私の手から滑り落ちて……、
男の足元で、割れて砕けた。
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