社会と云う温室、人と云う蚕
川上優
幻の楽園
気が付けば蚕になっていた。
私が眠りから覚醒すると、日常は歪んでいた。
睡眠に没頭する私の為に呼び掛けにくる母親の声は聞こえず、私のだいだい色の腕は失せて、爪のように尖り透けている昆虫か何かの手足のようになっていた。
一時は何かの冗談と考えていたのだが、途端に自分が見慣れぬ部屋に閉じ込められていると気が付いてただ事ではないと悟る。
体をくねらせてみたり、ひっくり返ってみたりして、とうとう私は蚕になっているのだと知る。昆虫観察が趣味としている人間だから、その模様を見たのみで蚕であると察せられた。
混乱した、と同時に解き放たれた気分だった。
私はいつも将来に悩まされていた、一寸先は闇、人とのコミニュケーションが苦手で、繊細で敏感で、頭が悪くて物覚えが酷くて、そもそも、社会と言う私を認めようとせず、書物でも無い空気を解読させる事を強制し、完璧な人間であれと提唱する世界が大嫌いで、人間に生まれたことを後悔していたのだから、かなり助かった。
蚕であれば、社会に悩まされる事は無い。
いつだって、私を悩ませるのは社会だった、私を見る人の目だった、職に就かない人間はダメ人間とする世間だった、型に嵌めようとする人の考えだった!
心底、安心した。私は人を落胆させる事も無いし、そうさせる訳にはいかないからと望まないのに己を他者の考える理想の形にする事も無い。
蚕に社会はあらず、ただ桑の葉を喰らい就寝するのみ、プレッシャーと焦燥感は誰にも課せられない。
今日も桑の葉は美味しい、人間界で絶品とされるどの食事達でも、この桑の葉に勝る物はないだろう。
ああ今日も充実している、自由に満ちている。
こうして糸を吐いても誰に咎められる事は無い。
やがて私はその糸で身を包み、眠った。
その繭は湯へと投げ込まれ、中で眠っていたその蚕はゆだって死んだ。
社会と言う温室で暮らしていた蚕は、どう足掻いても逃れられなかった。
後日、新卒の女性が自殺したとニュースで取り上げられた。
彼女を知る人に彼女はどんな人だったか尋ねると、「空気の読めて、気遣いも仕事もこなせる完璧人間。正に社会の求める理想像のよう」であったと、ある人は彼女を「個性を殺した人間、あれは機械だ」と例えた。
また、彼女の家族によると彼女は精神疾患を抱えているようなそぶりを見せ、ぼんやりとした目で部屋の隅にある観葉植物を眺めているなと思えば、次の瞬間にはぱくりと葉を貪っていたらしい。
さて、彼女は社会にとって理想の人物であった筈なのに、何故社会は彼女を殺めたのだろうか?
いいや、以前から、彼女という存在を己の為に殺してしまっていたのだろうか。
社会と云う温室、人と云う蚕 川上優 @kawazyouyuu
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