第二十三話 勝峰の勘違い

(何なんだ、あの小娘は……!)


 勝峰は憤りを隠せなかった。

 先ほど朱里は勝峰を脅したのだ。処刑されたくなかったら外に出てこい、と。


(俺に自白を強要させようとしているに違いない。そんな馬鹿な真似をするものか)


 酔い醒ましと偽って広間を出てから少し歩き、園庭内の池のそばにやってきた。

 柳の木のそばにある四阿に腰掛け、勝峰はそっと息を吐く。


(俺がしたという証拠はないはずだ……)


 いま朱里が握っているのは宇辰の証言のみのはずだ。あの男は口が堅いから拷問されても口を割らないだろうと見ているが、勝峰の不安はぬぐえない。宇辰が後宮に入った時に推薦したのは勝峰だ。だがそれらが記されている書類は密かに処分したし、関わる官吏は口止めしてある。確たる物証はない。だというのに途方もない不安感が勝峰を襲った。


(気圧されるな。幾度も修羅場をくぐってきたではないか。今こそ本領を発揮する時……)


 その時、道の向こうから石畳を叩く複数の沓の音が聞こえる。先頭には朱里がおり、侍女が一人と傘をかぶった腹の出た宦官らしき男が控えている。猫背で顔を伏せているため男の顔は伺い知れない。


「勝峰様、お待たせしてすみません」


 朱里はそう言って東屋に入る。宦官は少し離れたところで立っていた。侍女は手に持っていた盆から酒筒と酒が注がれた杯を二つ卓上に置いて離れていく。

 妃が侍女や宦官を連れ歩くのは当然だが、勝峰は気に入らない。この状況で朱里が勝峰を警戒するのは当然といえば当然なのだが。


(まぁ良い。距離もあるし大声を出さなければ奴らには聞こえないだろう。よしんばまずいことを聞かれたとしても召使い達の言葉に信憑性などない)


 勝峰はそう思い直して、椅子に腰掛けた朱里に笑みを浮かべる。


「先ほど浩宇のことについて話していたが、何やら誤解があるようだ。私は確かに彼とは交流があったが、浩宇が君の宮に立ち入ったこととは何の関係もない」


「そうですか……しかし、浩宇さんはそう思ってはいなかったようです。勝峰様のお気持ちを伝えにきてくださいました。とても主思いの方ですね」


 優美に微笑んでそう言われて、勝峰の眉がピクリと動く。


(宇辰が自白したと? 私のことを漏らしたと言いたいのか? 馬鹿な……)


 しかしいくら口の堅い男だと言っても絶対ではないだろう。拷問されれば口を割る可能性も考慮していた。

 かつて文家に宇辰を知り合いからの伝手という形で潜入させたのは、左丞相である文泰然ブン タイゼンの弱点を密かに探るためだった。しかし何も見つからず、やむなく娘のどちらかを陥落して良いように操ってやろうとしたが、朱里は義兄の警戒が強すぎて近付けず、妹の蘭玲は大層我が儘で思うように事が運ばなかった。


(宇辰、お前はまったく使えない男だ……!)


 勝峰は怒りで頭に血が昇りかけたが、ふと冷静になる。


「しかし、それを主上に伝えれば私も閉じ込められて尋問を受けたはず。何故言わなかった?」


 宇辰が勝峰のことを白状してしまえば、その時点で兵士が彼を捕えにきたはずだ。それなのに未だに無事でいるということは逆に言えば勝峰の罪は明らかになっていないということだ。

 勝峰は乾いた唇を舐める。


(まだ勝機はある……! 俺がやったという証拠がないから小娘は言質を取ろうとしているだけだ)


「尋問? 何のことでしょう? 私は勝峰様にお礼を申し上げたいだけですよ。おかげさまで私は天職というような仕事に巡り合え、主上のご負担を軽くして差し上げることができました」


「なん……だと?」


 勝峰は頬が引きつった。


(どういう意味だ? まさか毒見役になる前から私のことを怪しみ警戒していたとでも言うのか? 憂炎の負担を軽くする……つまり右丞相である私の地位はもうないとでも言いたいのか?)


 勝峰は不安のために血の気が引いていくのを感じた。完全に深読みしすぎているだけなのだが彼は気付いていない。


「証拠を出せ! そこまで言うならば私がやったという証拠を!」


 そうわめき散らして卓を叩けば、朱里は驚いたのかビクリと身を引いた。その拍子に帯に差していたらしき白粉の容器が卓上にすべり落ちた。

 衝撃で蓋が開き、白い粉が広がる。


「これは……」


 意図せず震えた声が勝峰の口から漏れる。その容器に見覚えがあったからだ。

 朱里はなぜか恥ずかしそうに笑みを浮かべた。


「実はこれは侍医院が回収した美玉様の白粉なのです」


「そ、そういえば陛下が話していたな。後宮の妃達が使っている化粧品には鉛や水銀が混ざっていたと」


 そんな化粧品は憂炎の実母が住む碧玉宮以外にもたくさんあったはずだ。だから勝峰のしわざだと発覚するはずがない。だが不安が込み上げてくる。

 朱里は満面の笑みで言う。


「ええ。しかし、これに含まれていたのは鉛や水銀ではなかったんです。何だと思いますか?」


 勝峰はそれをよく知っていた。


(……蟲毒だ)


 勝峰の顔面から血の気が失せる。美玉を呪い殺そうとして宇辰に作らせたものだ。しかし失敗したことが発覚し、すぐに美容水に砒素を入れてやり直した。


(まだ残っていたのか……)


 朱里はニコニコとした表情で話す。


「これらの化粧品は勝峰様の姉君である皇太后様からいただいたものだと美玉様はおっしゃっていました」


 勝峰は身を強張らせる。


(俺の姉のしわざだと言いたいのか? いや……わざわざ俺をここに呼びつけたということは、この娘……俺が指示したことだと気付いている!)


「私、この中身に匂いで気付きまして、侍医頭に許可をもらっていただいたのです。味を確認したら食べたことのある味だったので蟲毒であると分かりました。とても入手経路が気になるのですが、蟲毒ってどうやったら手に入るのでしょうね」


 口調は雑談のそれだというのに、完全に煽っている。勝峰はそう感じた。

 朱里はおっとりと笑って卓上の杯を示す。


「お飲みにならないのですか? 残念ながら勝峰様のお好きな毒は入っていませんが」


「毒……?」


 呆然とつぶやいた勝峰に朱里はうなずく。


「勝峰様も私と同じなのでしょう? 毒が好きなんですよね? だって浩宇さんもそうですから」


 勝峰の震えが卓に伝わってしまったのか、杯の中の酒は小さく波打っていた。


(動揺するな……私がやったという証拠などないのだ。きっと小娘のハッタリに決まって……)


 しかし疑いを持つと、この酒には毒が混ざっているのではないかと思えてきてならない。


(もしや、主上はもうとっくに俺の行為に気付いて……? それで毒見役の小娘に毒酒を俺に飲ませるよう命じたのか?)


 ぶるぶる震える手で杯をつかむ。


「……これには何が入っているというんだ?」


「何が、とは不思議なことをおっしゃいますね。こちらは、ただの祝い酒ですよ」


 勝峰は力なく笑う。それは半ば諦めの混じった物だった。


「おおかた、鉛か水銀か。俺にはそれがふさわしい、と主上がご判断されたのだろうな」


 勝峰の言葉に、朱里はゆったりと首を傾げている。

 何も知らない振りが上手だな、と勝峰は内心感心した。


(女子供は馬鹿で愛嬌があるのが可愛らしいと思っていたが……もしかしたら皆、笑顔の裏に毒を隠していただけなのかもしれないな)


 朱里も無知の振りが上手いようだ。


(……終わったな)


 勝峰はその時、完全に自分がこの目の前にいる娘に敗北してしまったことを悟った。

 自ら罪を自白するか、毒酒を飲んで死ぬか。二つに一つだが、自白した先に待っているのは処刑だろう。ここで逃げたところですぐに衛士に捕まる。

 勝峰は杯を一気飲みして、卓にそっと置いた。


「良いだろう。俺が息絶えるまでの間に、どうしてそんなことをしたのか話してやろう。俺の叶えられなかった野望も」

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