第二十二話 天女の舞


 なかなか眠れないまま朝を迎えた。

 小鈴が朝早くから紅天宮にやってきた。とても心配そうな表情だ。


「朱里、大丈夫だった? 襲われるなんて災難だったわね……目が覚めたら宮女から話を聞いて仰天したわよ。しかも相手は紫玉宮の宦官だとか」


 朱里は明明に化粧をしてもらいながら、小さくうなずいて嘆息する。


「そうなんです。まさか、こんな大事になるなんて……」

 小鈴は困ったような表情で頬に手を当てる。

「昨日の今日だから、青蝶様は宴に参加できないでしょうね。残念だわ……」


「え!? ど、どうしてですか……?」


「だって、犯人は青蝶様の紫玉宮の宦官のしわざでしょう? いま取り調べを受けているらしいし。それに監督責任もあるわ。青蝶様も容疑が晴れるまでは宮から出てはいけないと主上から謹慎処分になっているの。……私も青蝶様の姪だからしばらくは派手な行動は慎むよう釘を刺されたわ」


「そんな……私のせいで……」


 朱里は衝撃を受けた。


(宴で青蝶様に美玉様と会ってもらう約束を取り付けられたら、と思っていたのに……)


 計画は台無しになってしまった。さらに恩人も檻の中だ。

 おろおろしている朱里に、小鈴は慰めるように微笑む。


「朱里のせいなんかじゃないわよ。あなたは被害者じゃない。元はと言えばあの宦官のせいよ! って、そう言えばその沈浩宇ジン コウウの話なんだけど……聞いた? あの男……付いていたんだって」


 声をひそめて小鈴に耳元で囁かれ、朱里は首を傾げる。


「付いていた? 何がですか?」


「その……男性器よ」


 話題が話題なだけに、小鈴は顔を赤らめて小声で言う。


「体を調べられて分かったらしいわ。それで大騒ぎになっているの。青蝶様はそれを知っていたのか、彼を推薦した者は誰かとか。入宮する際に体を検査したはずの官吏はどこにいるのかとか、色々調査されているみたい」


「そう……ですか」


 頭の痛くなる話だった。どんどん被害が拡大していく。


(確かに去勢したと偽って入宮するのは罪ですが……宇辰さんは何かの目的のためにきっと、やむなくそうしなければならなかったのでしょう。その理由を知れば、きっと主上に減刑していただけるはず……)


 朱里はひっそりと拳を握りしめる。


(一刻も早く勝峰様にお会いして、宇辰さんの誤解を解いてもらわねば……!)






 憂炎の後に続いて、朱里は小鈴達四人の妃達と共に霊廟を訪れ、先祖の墓参りをした後に皇帝の親族を交えて食事会をすることになった。

 最奥の中央の席には皇帝の憂炎が腰掛けていた。本来なら右横に皇太后の席が用意されているはずだったが今はなく、左側の皇后の席も用意されていないため上座は憂炎一人という寂しいものだった。

 迎賓宮の広間の左側に朱里を含めた妃達四人がそれぞれ独立した席につく。朱里は皇帝から一番近いところだった。

 向かいには憂炎の腹違いの弟──皇太后の息子である魏秀英ギ シュウエイが座っていた。どこか女性めいた容貌の二十歳の青年である。

 彼の隣には皇太后の弟である魏勝峰ギ ショウホウがいた。


(勝峰様です……何だかお顔色があまり芳しくないような気がしますね)


「この点心美味しいわね」


 隣の席にいる小鈴がそう声をかけてくる。

 朱里は小さくうなずいて、杯をチビチビとお酒だけ口にしていた。

 ちなみに誰よりも早く広間に来て皇帝が口をつける前の食事を全て毒見したので、すでにお腹はいっぱいである。自分の前に置かれた料理まで食べる余裕はなかったが、点心の味は覚えている。持参した調味料を小皿に混ぜて食するとさらに美味だった。


(それにしても、いつ勝峰様にお話すれば良いのでしょうか)


 広間の中央では踊り子が見事な舞いを踊っていた。

 集まった人々は酔いが回ってきたのか、赤い顔をして美味しい料理に舌鼓を打っている。

 話題は憂炎の治世がいかに優れているかなどを妃や親族が褒め堪えるというもので、小鈴は隣で退屈この上ないという表情で欠伸をしていた。

 朱里は勝峰と話せる機会を伺っているのだが、酔い醒ましに侍女を連れて広間を出ることはできても彼を連れだすことはできない。一応は妃という立場なので面倒だが異性と二人きりになるには、周囲から誤解されないような理由がいるのだ。


(いっそ侍医見習いという立場を使って『お顔色が悪いようなので休憩室にお連れします』と誘ってみましょうか……いや、もし成功したとしても宦官さんに『それでは朱里様は席にお戻りください。後は我々がしますので』と言われるのがオチですね……それならいっそ、お酌をしに行って、その隙に耳打ちするなどするとか?)


 しかし貴人に酌をするのは周囲の侍女や宦官達だ。妃達は周囲の者に命じて皇帝や皇弟の酌をさせている。自ら向かうのは、よほどの理由がなければ困難だ。

 朱里が頭を悩ませている時、勝峰が憂炎に話題を振った。


「そういえば主上も妃を召されてしばらく経ちますな。そろそろ妃に位を与えても良いのではないでしょうか」


 そもそも入宮したら何らかの地位につくのが普通だ。だが憂炎は妃の位はおろか、妃の元に通ったという話すらない。そのため臣下達──特に夜伽を管理する敬事房けいじぼうの官吏達は内外からの圧のせいか、心労でやせ細った姿を見かけたことがある。


「確かに、決めねばならないとは思っているのだがな。まさか後宮のことに口出ししようとしているのか? 立場をわきまえよ」


 憂炎に釘を刺され、勝峰は慌てた様子で首を振る。


「とんでもない。身分不相応なことは致しませぬ。ただ陛下のご寵愛なさっている朱里様はとても見目麗しく、舞いや七弦琴にも秀でた才女であると伺っております。私もぜひその舞いを拝見してみたく思います。そうだろう、皆の者」


 勝峰の傲慢な言い分に、一部の者達が同意した。

 憂炎は眉根を寄せて黙り込む。

 隣にいた小鈴が不快げな表情で朱里に小声で言う。


「なんて失礼なのかしら……朱里を商売女のように扱うつもりよ。それで上手く踊れなければ笑いものにする気なのだわ。足を引っ張ろうとしているのよ。嫌らしいわね」


(そんなふうには見えませんが……)


 妃のような身分の高い者が、己より立場の低い者に踊れと言われるのは確かに不敬なのだが、朱里はきょとんとしている。

 憂炎が嘆息して首を振って何か否定的なことを言おうとしたのを朱里は察知し、その場で立ち上がった。


「それでは踊らせていただきます。準備をして参りますね」


 あっさりと朱里が受け入れたのが意外だったのか、勝峰は目を丸くしている。


「ちょっと、朱里!」


 止めようとした小鈴に、朱里はやんわりと首を振った。


(ここで踊りを成功させたら、勝峰様に近付けるかもしれません)


 朱里は手早く用意を済ませ、踊りの衣装をまとって広間に入った。軽く準備運動もしてきたので、久しぶりの踊りだが支障はない。


 憂炎が目を細めて言う。


「それで何を踊る?」


「では、今日は中元節なので『鎮魂の舞い』を踊らせていただきます」


「そんな難しい踊りを? できるのか?」


 憂炎の問いに、朱里はうなずく。

 朱里がそう言うと、室の端にいた楽団が音を奏で始める。静かな音色から始まるその踊りは、簡易版は庶民にも親しまれているものだが、正式な神殿に奉ずる舞いとして選ばれた巫女が何年もかけて習得する難易度が高いものだ。


「簡易版でも踊れればすごいでしょうな」


 そう馬鹿にしたように勝峰が言って酒杯を傾けたが、朱里は気にしなかった。

 目を閉じて深呼吸する。そうすると目が見えなかった頃に戻ったような気がした。あの頃は病弱な体に少しでも体力をつけようと必死で舞いの練習をした。


(今は目が見えない方が、見えている気がしますね……)


 音だけが体にまとわりついている。他者の視線や声も耳に素通りする。体に染みついた足運びは、しばらく時間を置いても忘れるものではなかった。

 羽衣はごろもを揺らしながら音を表現する。伸ばした指先や足先まで、今は力がみなぎっているようだった。


「わぁ……!」


「きれい……」


 誰かの感嘆のつぶやきに、朱里はようやく目を開けてそちらを流し見る。憂炎と勝峰の方をそれぞれ見つめて艶っぽく微笑むと、二人は顔に朱を昇らせた。

 笛の音と共に動きを止めると、一斉に拍手が沸き起こった。

 憂炎は立ち上がって興奮したような表情で言う。


「見事だった。久しぶりにお前の舞を見た。まるで天女のようだったぞ」


「恐縮でございます」


 朱里が頭を垂れると、憂炎は満足そうに微笑む。


「宴を沸かしてくれたお前に褒美をやろう。最近手に入ったかんざしでも贈ろうか」


 そういう憂炎に、朱里は首を振る。


「いいえ。私も久しぶりに踊る機会に恵まれて楽しゅうございました。その機会をくださった勝峰様にお礼に酌をさせてくださいませ」


「ふむ……良いだろう」


 憂炎は少し面白くなさそうな表情をしたものの許しが出たので、朱里は宦官から酒筒を受け取って勝峰の元へ近付く。

 勝峰は引きつった笑みを浮かべていた。


「寵妃である朱里様自ら酒をそそいでもらえるとは痛み入ります」


 そう言って杯を手に持つ勝峰に、朱里は笑みを崩さないまま酒筒を傾けてそそぎ──。

 彼にだけ聞こえるような小さい声で言った。


「勝峰様、貴重な毒をたくさんいただきましてありがとうございます」


 ガタンと勝峰は机の裏に膝を打ってしまった。周囲の者達が驚いたように彼を見る。勝峰は慌てて「大丈夫、うっかり膝を打っただけだ。気にしないでくれ」と言いつくろった。

 勝峰は厳しい表情で、朱里に向かって小声で言う。


「な、何を言う。私は毒など知らぬ」


(あら……)


 話のとっかかりにするだけのつもりだったのに、宇辰に続いて彼にも否定されてしまった。


(本当にお二人とも謙虚でいらっしゃるのですね。善事を隠そうとなさるとは)


 朱里は困ったような笑みを浮かべて言う。


「昨夜、浩宇さんが教えてくださったのです。私に毒をくださったのが勝峰様だったのだと。だから隠さなくても良いんですよ?」


 二人の視線が絡み合う。

 勝峰は脂汗をかきながら強がるように言った。


「証拠はあるのか? まさかその宦官の言葉だけを信じて憶測で物を言っているのではないだろうな」


(証拠? どういう意味でしょうか。ああ、もしかして宇辰さんの発言だけを信じるなと?)


 朱里は首を傾げつつも言う。


「もちろん、私は浩宇さんの清い心根をよく存じ上げておりますので。浩宇さんは昨夜、私の宮に侵入して捕まってしまいました。このままでは彼のみならず関係者も調べられ、厳罰に処されてしまいます……もしかしたら処刑されてしまうかもしれません。勝峰様もそうされたくないでしょう? だから場所を変えて詳しくお話させてください」


 そう言って、朱里は掌に忍び込ませておいた紙片をそっと皿に隠すように置いた。


「……それではお待ちしていますね」


 にっこりと微笑み、朱里は去って行った。勝峰の顔から血の気が引いていることにも気付かず。

 紙片には『一刻後 外の池で』と書いてある。


(これで勝峰様が来てくださると良いのですが……!)


 己の席まで戻ってから、はたと気がついた。妃だというのに異性と二人きりで会うのは良くない。憂炎を怒らせてしまうかもしれなかった。


(事情があるのですが……しかし、この機会を逃しては……そうだ! 憂炎にも一緒に来ていただきましょう。きっと憂炎なら誘えば応じてくれるはず)


 憂炎も勝峰から真実の言葉を聞けば、きっと宇辰への誤解も解けるだろう。

 朱里はそう信じて疑わなかった。

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