第二十話 夜襲
「さぁ、朱里様。そろそろ眠りましょう。明日は中元節で早いのですから」
そう言って明明は朱里を紅天宮の寝所に押し込んだ。
中元節とは死者の霊魂を鎮める日だ。皇帝と妃達は伴って先祖の霊廟にお参りし、その後に食事会が開かれることになっている。
「この日のための特別に衣装も新調しましたからね」
そう言いながら明明は箪笥の横に用意してある
「今晩は遅くまで本を読まず、早めにお休みくださいね」
明明に書物を取り上げられてしまった朱里は、やむを得ず布団をかぶった。
「分かりました……」
「おやすみなさい、朱里様」
「おやすみ、明明」
忠実な侍女は枕元の燭台の明かりだけを残し、室から出て行ってしまった。明明の寝泊まりしているところは建物の外にある使用人用の棟だ。本来は紅天宮の宮女達全員で使うものだが、朱里は明明しか連れてきていないので彼女一人で使っている。
とても静かな夜だった。
朱里は昼間のことを思い出して、なかなか寝付けずにいた。
(結局、青蝶様にお取次ぎはいただけませんでしたね……)
紫玉宮の宮女に頼んだが、「主は忙しいので」と、あっさりと跳ねのけられてしまった。
(宇辰さんなら、うまく便宜を図っていただけたのでしょうか……?)
そう思うと、昼間に話しそびれたことが残念で仕方がない。
(でも、幸い明日は中元節。主上の親族と後宮の妃がそろって宴会に参加する日ですし、もしかしたらそこで青蝶様とお話できる機会が巡ってくるかもしれませんね)
毎年欠席していた美玉も、今年は参加するらしい。そう友人の小鈴が嬉しそうに話していた。
そうこうしているうちに眠気が襲ってくる。朱里はそっと目蓋を閉じた。
だが、それから八刻──時計の長針が二周するほどの時間が経った頃に、ふと室の中に何かの気配を感じて目を覚ます。
「……誰かいるのですか?」
朱里は半身を起こし、暗闇に向かって呼びかけた。
とっくに燭台の炎も消えてしまっている。
紅天宮の門には
他の妃ならば、野鳥か何かが外で動いたのかと思っただけかもしれない。だが朱里は目が見えなかった頃のなごりで人の気配に敏感だった。
「どなたです?」
そう誰何すれば、暗闇の中から、くつくつと笑い声がした。
「よくぞ気付いたな」
「その声は宇……浩宇さんですか?」
相手は真っ黒な衣装をまとっているらしく、暗闇の中では完全に同化してしまっていた。しかし入口付近にいるのは気配と息遣いで分かる。
「フッフフ……やはり、俺がここにくることは予感していたのだな?」
卑屈めいた声色だ。
朱里はきょとんとした。
「予感? 何のことでしょう……? それより宇辰さんは真夜中に私に何の御用でしょうか?」
宇辰は普段は紫玉宮で宦官として働いているが、さすがに夜中に他の妃の宮に侵入する行為が見つかれば罪に問われてしまうだろう。
(昼間なら何か用件があってということで許されるでしょうが……)
これが後宮で働く去勢した宦官ではなかったら、大事になってしまうところだ。後宮内の衛士は女性でなければならないと規定があるくらいだから。
(あれ? 宇辰さんってわざわざ後宮で働くために去勢したのでしょうか?)
今更ながら気になった。
少なくとも文家にいる時は普通の男性のようだった。
宦官になるためには去勢──つまり男性器を切除しなければならない。手術を受けた者は猫背になり、尿漏れをふせぐために小さい歩幅で歩き、女性のように声が高くなり、髭が生えなくなるのが特徴だ。
確かに宇辰は声を意識的に高くしているようだが、それ以外は以前会った時と変わらない。特に歩き方は朱里の知る宦官とは違った。
(昼間も大股で歩いて行ってしまいましたよね……)
「もしかして宇辰さんは去勢していないのですか?」
朱里の質問に、わずかに押し黙った後に宇辰はフッと笑う。
「だったらどうだと? 今さらそれに気付いても遅い。お前は誰にもそれを伝えられないのだから……」
「何かご事情があることは存じていますよ」
宦官として後宮で働く前にきちんと去勢しているか検査したはずだ。それが見逃されたということは誰か協力者がいるということだろう。朱里の宮に難なく入れたこともそうだ。誰かが裏で手を貸している。何か目的があってのことに違いない。
「でも夜中にいらっしゃるのは危険ですよ」
朱里は心配してそう言った。
後宮は男子禁制の場所で、一部の許された者以外は男は出入りできない。
いくら皇太后の覚えめでたい彼でも、去勢していない男が他の妃の宮に夜に入れば死罪となってもおかしくないというのに。
「俺を脅すつもりか? 大声を上げても無駄だ。この時間は衛士の見回りはない。それに見張りも気絶させて縛り上げたから、こないぞ」
「えっ、そんなことまでしたのですか? 一体何の御用でしょう? でも、ちょうど良かったです。私も宇辰さんにお伺いしたいことがあったので」
朱里は困惑しつつもそう言いながら寝台から足を出して沓を履こうとした。
(青蝶様の件と、お礼にお茶会にお誘いしたい件を伝えなければ……)
「動くな! 毒は効果なかったが……これならどうかな?」
宇辰は懐から刃物を出したが──朱里は夜闇の中で判別できない。
(今のは鞘から抜いたような、鋭い刃物の音でしょうか……刃物? 包丁? え?)
「宇辰さん、お持ちの物は包丁ですか? 何故……」
(まさかここで何か調理を?)
困惑ぎみに尋ねた朱里に、宇辰は嫌な笑みをこぼす。
「分からないのか? おめでたい奴だ。お前に毒をくれてやっていたのが勝峰様の差し金とも知らないで」
「えっ、勝峰様……?」
それは昼間会った皇太后の弟だ。
(勝峰様が……私に毒をくださっていた? まさか蠱毒を用意してくださったのも彼?)
「それは申し訳ありません。まったく気付きませんでした……!」
「馬鹿な女だ」
宇辰はじりじりと近づいてくる。
朱里は自分の鈍さに呆れながら、両手で顔を覆う。
(宇辰さんが怒るのも無理はありません。せっかく昼間会う機会があったというのに私は勝峰様にお礼も申し上げず……主想いの宇辰さんは胸を痛めて、わざわざ夜中にそのことを教えにきてくださったのでしょう。昼間は体調が悪かったから言えなかったのですね……!)
宇辰の主は皇太后だが、同じように主の身内も大事にしているのだろう。彼の忠誠心に、朱里は感じ入る。
「改めて、お礼を言わせてください。必ずや近いうちに勝峰様に……そ、そうです! きっと明日は皇太后様の弟君として宴に参加なさるでしょうから、その時にでも……」
「もう遅い。お前にお礼参りなどできると思っているのか? 今日、ここでお前はもう死ぬのだから……」
「宇辰さん、そんなにお怒りなのですか……? 私を殺そうとなさるほどに」
朱里は血の気が引く思いがした。勝峰をないがしろにされたことが、そんなにも宇辰の怒りを買うとは。
「御託は終わりだ! 死ねぇぇええ──!!」
叫びながら朱里にかかってこようとした宇辰に、朱里はハッとして静止の声を上げた。
「宇辰さん! お待ちください! そこは……っ」
「うわっ!?」
「危ないですよ! ……って……」
その辺りの足元に毒を保管するための小瓶を置いていたのだ。
それに気付かず、宇辰は小瓶を思い切り踏みつけて足を滑らしてしまう。
派手な音が響いた。
「う、宇辰さん!?」
朱里は慌てて駆け寄る。
宇辰はどこか頭を打ち付けたのか気絶していた。
「た、大変です……! 宇辰さんが死んでしまうかも。人を呼びに行かねば!」
倒れた人を動かしたら被害が広がる可能性がある。朱里は侍医見習いだが、ここはもっと医術に詳しい者に任せるべきだろうと判断した。
朱里は目が見えなかった頃のなごりで、真っ暗でもどこに何が置いてあるか、その距離感も把握していた。
沓を履いて室から出ると門の方に走って行く。しかし衛士はいない。
「う〜〜〜」
そのくぐもった声に気付き朱里が周囲を見回すと、刈り込まれた低い木々の裏に隠れるように女性衛士が倒れていた。
「だっ大丈夫ですか!?」
朱里は慌てて顔見知りの彼女の元へ駆け寄る。すぐさま猿轡と拘束を外してやると、さすがは衛士というべきか、彼女はすぐに態勢を立て直した。
「は、はい! 朱里様はご無事でしたか!? 変な臭いがしたと思ったら意識を失ってしまいまして……目が覚めた時には縛られていました。不覚です」
悔しげに衛士の女性は唇を噛む。
「そういう時もありますよ! 御無事で何よりです。体調は大丈夫ですか?」
「私は平気です」
「それでは、室の中に宇辰さん……ではなく
侍医院は基本的に皇族と妃のみ診察する。それ以外の官吏達は怪我をした時は太医院という医局が担当するのだ。
(でもお義兄様にもお伝えしておいた方が良いですね。あと紫玉宮にも)
「え? なぜ紫玉宮の宦官が……?」
目を白黒させている衛士に、朱里は駆けだしながら振り返って言う。
「細かい話は後です! よろしくお願いしますね!」
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