第十九話 朱里と宇辰の勘違い
そして朱里はさっそく青蝶に約束を取り付けるために、宇辰に会うことにした。
貴人相手には突然訪ねるのではなく、宮女や宦官にまず言伝を頼むのが一般的だ。その点、宇辰ならば知り合いだし、朱里は気軽に声をかけられる。
──と、そこまで考えたところで義兄に宇辰に注意しろと言われたことを思い出す。
(宇辰さんは良い方ですが、お義兄様があんなに口酸っぱく警戒せよと、おっしゃっていましたし……黙って会ったと知られたら怒られてしまいそうですね……)
仕方なく朱里は義兄に事情を話してから宇辰のいる紫玉宮に向かおうとしたのだが──。
「駄目だ。危険すぎる」
むすっとした表情の義兄に止められてしまった。
「なぜ宇辰に拘る? もし皇太后様に取次ぎを頼みたいだけなら宮女でも良いだろう」
そう言われて、朱里も『確かに』と納得した。
宇辰に取次ぎを頼もうとしたのは知人だったからだ。見ず知らずの相手よりも顔見知りの方が話しかけやすいという理由だけである。
朱里が考え込んでいる姿を見て、天祐はハアと大きくため息を吐いてから言った。
「仕方ないな。俺も一緒に行こう」
「お義兄様も?」
「俺がそばにいたら、アイツも下手な真似はできないだろう」
(お義兄様ったら……宇辰さんは良い人なのにいつまでも疑わなくても…)
朱里は目を治してくれて、さらに好物の毒をくれる宇辰のことを良い人だと思い込んでいた。
(そうだ! 私が彼の疑いを晴らして差し上げましょう! きっとお義兄様もすぐに宇辰さんの優しさに気付いてくれるはずです!)
それが己に親切にしてくれた彼へのせめてもの恩返しになるだろう。朱里は己の思いつきに内心飛び跳ねたくなった。
天祐と紫玉宮へ向かう道中、運よく宇辰の姿を見かけた。朱里の知らない身なりの良い三十半ばほどの年の男性と話し込んでいるようだ。それを目にした義兄は顔をしかめて足を止める。
「あれは……
「右丞相様……?」
その役職名に朱里は聞き覚えがあった。左丞相の父親の宿敵らしく、酒を飲んだ父親の口から良く彼に対する愚痴が出ていた。
「ああ、確か皇太后様の弟君の」
朱里の問いに、天祐は忌々しげにうなずく。どうやら義兄は好まない相手のようだ。
相手も朱里達に気付いたらしく、小さく目を剥くと口の端を歪める。
天祐は再び小さく嘆息して勝峰の元へ向かった。朱里のその後を追う。
「勝峰様、御無沙汰しております」
「おお、天祐か。息災そうで何よりだ。……隣の女性は?」
勝峰に水を向けられ、義兄が紹介してくれる。
「私の義妹の朱里と申します。……このたび後宮妃として召し上げられました」
「ああ、君が噂の……陛下に寵愛されている毒見役か」
無遠慮にじろじろと見つめてくる勝峰の視線を朱里は受け流した。
「どうぞよろしくお願いいたします」
「私の姉は皇太后として後宮を仕切っている。何かあれば姉に聞くと良い。……君の父親にも俺は色々と世話になっているしな」
どこか含みのある言い方だったが、朱里はまったく気付かず嬉しそうに微笑む。
「お気遣いありがとうございます」
どこか興覚めしたようにフンと鼻を鳴らしてから、勝峰は天祐に向かって言う。
「ちょうど良かった。侍医頭の君に聞きたいことがあったのだ。ちょっとそこで話をしても良いか?」
そう言って勝峰は近くにある
朱里としても宇辰に直接交渉できるのなら幸運だ。
天祐は少し渋っていたが、「そんなに時間は取らせない」と勝峰が言ったので仕方なく受け入れることにしたようだ。立場上、身分が上の勝峰の命令には逆らえない。それに仕事のことなら聞かねばならないからだろう。
「必ず目の届くところにいるんだぞ」
義兄は朱里にそう言った。
東屋に向かう天祐と勝峰の背を眺めながら、朱里は隣で顔をしかめている宇辰に視線を贈る。
「宇辰さん」
「はっ?」
「あっ、すみません間違えました。
うっかり普通に呼びかけてしまい朱里は反省する。
(そういえば宇辰さんは何故か偽名を使っていらっしゃいましたね。忘れていました)
どうして身分を偽っているのか気になるが、本人が別人を名乗っている以上追及できない。
とりあえず、青蝶に取次ぎを頼む前に伝えたいことは言っておくべきだろう。
「先日は毒入り饅頭をありがとうございました」
朱里の言葉に、宇辰は硬直する。徐々に青ざめていくのを見て、朱里は「あら?」と首を傾げた。
「どうなさったのです、お顔の色が悪いようですが……」
「い、いや……何の話か分からないが。毒とは?」
しらばっくれる宇辰に、朱里はきょとんとする。
「えっ、先日くださったではありませんか」
宇辰は焦り顔で早口で言う。
「人違いだろう。俺は宇辰などという名前ではないし、そんなことはしていない!」
「そんな……何故、毒饅頭のことを隠されるのです?」
そこまで言って、朱里はハッとした。
(そういえば宇辰さんは私に蟲毒を与えて目を治してくれたことも黙っているほどの謙虚な御方でしたね……!)
ならば、自分が贈り物をしたことを朱里の負担に思わせないように否定しているのだろう。
その心遣いと奥ゆかしい態度に朱里は感動した。
(なんて心根の清い方なのでしょう……!)
朱里は宇辰にお礼をしたい気持ちが高まる。目が良くなったのも蘭玲と宇辰のおかげなのに、これまで恩人の彼にろくに感謝の言葉も伝えられていなかった。
「私は宇……いえ浩宇さんにお礼をせねばならないと思っているのです」
「お礼……だと?」
何故か宇辰はわなわなと震えている。
(寒いのでしょうか? もう暑い季節なのですが……)
朱里は少し心配になった。先程から青くなったり震えていたりと宇辰の様子がおかしい。
「風邪でも引かれているのですか?」
「い、いや……」
朱里は首を傾げる。
(体調が悪いなら、あまり長話をしては悪いでしょうか……?)
しかし、お互いに天祐と勝峰を待っている状況で手持ち無沙汰だ。せっかくの機会だから、せめてこれまでのお礼と皇太后様の話はしておきたい。朱里は宇辰の様子を窺いつつ悩む。
(お礼だったら、何が良いでしょう……? 毒饅頭を自分用に作っているほどですし、宇辰さんも私と同じ毒好きです。それなら毒のお茶会を開いてご招待するのが良いでしょうか?)
主上から日頃の多忙な業務のねぎらいとして家族や友人を招いても良いとお許しをもらっている。
それまでに毒をどこかから調達しなければならないが、お茶会を開くのは楽しそうだ。
(最近は忙しくて満足に毒を食べられていませんでしたしね……せっかくなら大人数の方が面白そうです)
しかし朱里には他に毒食仲間はいない。
(宇辰さんならば他に毒好きな人をご存じでしょうか? それなら一緒にお誘いしても良いかもしれませんね! 皆でした方が食事は楽しいですし)
「ところで、他の道士の方で毒好きな方はいらっしゃいますか?」
「……ど、道士で? どうして道士の話なんか……」
「浩宇さんには道士のお友達がいらっしゃるのではないですか?」
思い違いだっただろうか、と朱里は首をひねる。
道士は道教を信仰する者のことだ。蟲毒は彼らの作りだしたと言われる特殊な毒だから、まさか宇辰が一人で編み出したものではないだろうと思ったのだが。それは毒について宇辰に教えた者がいるということで。
(つまり宇辰さんのお友達は毒食仲間である可能性が高いですね!)
名推理……いや迷推理だった。
だが、宇辰は開いた口がふさがらないのか、血の気の失せた顔で口を開閉している。
朱里は四阿で話し込んでいる義兄と勝峰を見つめて、ふとつぶやく。
「……もしかして、勝峰様も毒に興味をお持ちだったりしますか?」
ただの思いつきで口にした言葉だったが、宇辰は愕然とした表情になる。
「そんなわけないだろう! 何を根拠に我ら【黒牡丹】と勝峰様が行ったと……ッ!?」
すごい剣幕で言われて、朱里は目を丸くする。
「え? 突然どうされましたか?」
「は、話にならない! 俺は帰らせてもらう!」
怒ったようにそう言って、宇辰は去って行ってしまった。
「ああ……」
朱里は困り顔で頭を掻く。
(青蝶様にお取次ぎをお願いしたかったのに、機会を逃してしまいました……仕方ありません。紫玉宮に行って他の方に言伝を頼みましょう)
逃げるようにいなくなってしまった宇辰について、「やはり体調がよろしくなかったのかもしれませんね」と朱里は見当はずれの心配をするのだった。
「それにしても……先程の発言、いったい何でしょうか。宇辰さんはひどく焦っておられましたね……」
(確かに毒食はあまり口外できない趣味ですからね。宇辰さんは心配しておられたのかもしれません。私は秘密は守りますのに……猫じゃらし攻撃をされない限りは)
朱里はウムムと悩む。
(同じ毒食仲間なら、その【黒牡丹】の組織の方もご招待しても良いかもしれませんね。ちょっとどういう集まりの方か分からないので、お義兄様に聞いてみましょう)
そして準備が整った際には皆を毒のお茶会に招待するのだ。その時のことを想像して、朱里の胸は弾んだ。
(意外と世間には私のような毒食家は多いんですね……! そうですよね。毒とはいっても薬にもなるものですし)
朱里が見当違いの方向に暴走していることを諫める者は、この場にはいなかった。
宇辰はほとんど駆けるように歩きながら紫玉宮に戻っていた。
(あの小娘、気付いている……! 俺が【黒牡丹】の組織の一員で、勝峰様のご命令で動いていることに……!)
だから毒を贈ったお礼参りをしたいなどと言ってきたのだ。
毒を盛られて感謝する者などいるはずがない。文家の邸ではたまたま目が治ったから宇辰の行動に目をつむったのかもしれないが、後宮で命を狙われていることに勘づいて、さすがに看過できなくなったに違いない。
「なんて女だ……笑顔であんな探りを入れてくるとは……」
毒で殺せない宇辰の無能ぶりを嘲笑っているのかのような思わせぶりな笑みを思い出すと、宇辰は怒りで頭が沸騰しそうになる。
「殺さねば……一刻も早く!」
今まで以上に焦りを覚える。できるだけ早くあの娘を始末せねばならない。
(今晩、決行だ……!)
夜陰に紛れて朱里を殺す。その算段をしながら、宇辰は歩を進めた。
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