第十六話 砒素の色々
朱里は侍医院に戻ると嘆息する。
(良かった……憂炎からの呼び出しはなかったみたいですね)
三食以外にもおやつや休憩のためにお茶を飲む時間にも呼ばれるので、朱里は侍医院と黄天宮を行ったり来たりだ。
近くにいた
薬園は侍医院の近く、閉ざされた門扉の奥にある。ここへは皇帝や侍医といった一部の者しか入ることは許されない。ほとんどは薬草だが、中には過剰に摂取すれば毒になり得る植物も育てているためだ。
「侍医頭、戻りました」
朱里がそう声をかけると、義兄は「ご苦労」とねぎらってくれた。朱里は公私を分けるために人目がある時は役職で義兄を呼んでいる。
「何をなさっているのですか?」
「ああ、
天祐の言葉に、優しそうな風貌の初老の薬園師がうなずく。
堆肥とは落ち葉や植物のかす、動物の排せつ物などを混ぜて発酵させた肥料のことだ。
ジギタリスは西洋から入ってきた薬草で、その紫紅色の美しい見た目から家庭でも観賞用に育てられている。血行を良くしてくれる薬としての作用があるが、多量に投与すると嘔吐、下痢、腹痛、頭痛、視覚障害、動悸、場合によっては心停止する劇薬だ。まさに毒にも薬にもなる植物の代表だ。
「そうだったんですね。もうそんな時期ですか。良かったらお手伝いいたしますよ」
朱里がそう言って麻袋に入れられていた堆肥を持ち上げようとすると、薬園師と薬園生が慌てた。
「お、重いので大丈夫ですよ!」
「そうですよ! 気持ちはありがたいですが、後宮妃で毒見役である朱里様にそのようなことをさせるわけには……! せめてもっと軽いものを……」
口々にそう言われて、朱里はきょとんとして麻袋から手を離した。
目が見えるようになって健康になったから体を動かしたいのだが、身分が一応妃なためか周囲の人々が遠慮してしまう。助手というと侍医院では下っ端だから朱里としては遠慮しないでほしいのだが、後宮妃と考えると義兄以上に高位になってしまうためだろう。朱里が女ということも大いにあるだろうが。
「そうですか? それでは、せめてこちらの
そう言って朱里が近くにあった陶器の如雨露を手に取ろうとすると、天祐に手首をつかまれた。
「やめておけ。それは農薬だが
「……砒素」
朱里は動きを止めて、義兄を見つめた。彼はひとつ嘆息すると、「お前には別の仕事を与えよう。戻るぞ」
そう促されて、朱里は薬園師と薬園生達に挨拶して別れた。
朱里は昔、義兄に教わった砒素についての知識を思い出す。
「砒素は自然界のどこにでも存在し、農薬にも、絵具にも、殺虫剤にも、薬にも、粗悪な食料品にも、蠟燭にも、薬にも、化粧水にも……人の身にさえ微量に含まれているのでしたね」
「よく覚えているな」
天祐は口の端を上げて、朱里の頭を撫でた。
朱里は植物の生い茂る薬園を見渡す。薬草でもあり毒草でもあるジギタリス、そして土壌に混ざる砒素。
(毒に興味を持つ前までは、世界にこんなに毒があふれていることに思いませんでした)
知識としては知っていたのだが実感がなかった。親戚のおばさんが『妊娠して初めて町にたくさん妊婦がいることに気付いたわ』と話していたことがあったが、自分の意識の違いで世界の見え方はたやすく変わる。
天祐は歩きながら言う。
「だから砒素は厄介なんだ。毒見をする時に銀食器を使えるが、過信してはいけない。純度の高い砒素には銀は反応しないと言われているし、卵の黄身でも簡単に銀食器は黒くなる。それを毒見役が『これは毒が盛られたからだ』と言えば冤罪につながってしまう」
義兄の言葉に朱里の身が引き締まる思いがした。
「そうですね。だからこそ毒見役には毒の知識が必要なのですよね?」
ふむふむと朱里はうなずく。ふと、先ほど小鈴からもらった紙包みを思い出した。懐に触れると、カサリと擦れる音と感触がする。
「お義兄様、脱毛剤をいただいたのですけれど……見ていただけませんか?」
紙包みを天祐に渡した。
義兄は眉を寄せて開いた紙包みを見おろす。
「これは?」
「小鈴からいただいたのです」
「小鈴? お前いつの間に呼び捨てにするほど小鈴様と仲良くなったんだ」
苦笑している天祐に、朱里もフフフと含み笑いをする。
「その粉末と
天祐は嫌そうに顔をしかめる。
「……おそらく砒素だろうな」
「ああ、そうではないかと思っていました。しかし小鈴が持っていらっしゃるということは内務府も承知の上でしょう。帝都で流行っているから取り寄せたと話していらっしゃったので」
朱里はそう言った後、少し首を傾げる。
「砒素は多量に摂取すれば猛毒ですが、どこにでもあるものです。ならば、こちらも問題はないものでしょうか?」
天祐はため息を吐くと、ゆっくりと首を振る。
「程度の問題だ。砒素は
苦々しげな義兄の言葉に、朱里は納得する。
化粧品には鉛や水銀、砒素が含まれるものがあって常々政府も規制しているが、付けたばかりの時は肌が綺麗に見えるため好んで使用する女性が後を絶たない。徐々に症状が進行していくので病と関連付けられず出回っているのだ。
「ならば、小鈴にはその危険性をお伝えしておかなくては」
朱里はそう言う。それは侍医の仕事の内でもあるだろう。
近いうちに再び水天宮へ行くことを告げると、天祐は渋い顔をした。
「……まさか、小鈴様は故意にお前に毒を与えたのでは」
思ってもいなかったことを指摘されて、朱里は驚く。
「小鈴には、私が毒を好むことは伝えていませんよ。それに私とは初対面ですし、先ほど会ったのも偶然です。仮に、あらかじめ砒素を多量に含ませた粉末を用意しておけても計画的に渡せないはずです」
「……だが、お前には恨みを買う要素がある。他人から見れば、お前は主上の寵愛を一身に受けた妃だ」
「私はただの毒見役ですよ」
朱里の言葉に、天祐は何とも言えない微妙な表情になる。
「周りから見れば、そうは見えない。妃嬪の中にはお前を邪魔に思う者がいてもおかしくない。気をつけるように」
「だから小鈴はそんな人ではありませんって」
朱里はすぐさま否定したが──。
「どうしてそう思う?」
「小鈴はお人柄も良い方ですから」
「人柄なんていくらでも演じられるし、表情だって繕える。お前は他人を信用しすぎだ」
矢継ぎ早に言われて、朱里はしゅんとしてしまう。
よく周囲から天祐は義妹に過保護すぎる、とからかわれるが、その通りではないか? と思えてきた。
「ご心配はありがたいですが、きっとお義兄様も小鈴に会えば、お考えも変わりますよ」
そう朱里が言えば、天祐は足をピタリと止めて悩む様子を見せた。
「……確かに一理あるな。小鈴様は最近後宮に来たばかりで、俺はまだお目にかかったことはないからな。良いだろう。後ほどお前と挨拶に向かう」
義兄がそう言ってくれたので、朱里は安堵して微笑む。
(良かったです。きっとお義兄様も小鈴に会えば分かってくださるはず……!)
侍医院に辿り着くと、天祐は己の医務室に入った。
天祐は壁一面に設置されている薬棚からいくつか取りだして調合しながら、朱里に向かって言った。
「それで先程の話しかけた後宮の毒事件についてだが……」
天祐は器用なので話しながら別の作業をすることができる。というか、そのくらいできないと侍医院の長の仕事は回せないのだろうが。
(お義兄様は器用ですねぇ)
「はい。何か薬を取りましょうか?」
「では、左から二番目、上から四段目の薬草を一束頼む」
言われた通りに運びながら朱里は問う。
「……五年前に起きた主上の生母である
「ああ、美玉様はその頃は水天宮に住んでいたが、砒素を含んだ茶を飲んで、倒れているところを宮女に見つかったらしい。自殺未遂と見られる」
「自殺未遂? どうしてそんなことを……」
当惑している朱里に、天祐は肩をすくめる。
「詳しくは知らない。俺はその頃はまだ侍医院に入ったばかりの下っ端で、直接妃に接する仕事はしていなかったからな。だが美玉様は憂炎の弟妹となる御子を流産したばかりで、傷心のあまり世を儚んでしまったのではないかと推察されている」
朱里は「ん?」と少しばかり引っかかりを覚えた。
確かに女性にとって流産は辛いことだろう。しかし上に第一子となる憂炎がいる状態で自死を選ぶものなのだろうか? しかも憂炎は皇太子だ。周囲からもう一人東宮を産めと切望されていた訳でもないだろうに。それに憂炎には二歳年下の腹違いの弟だっているのだ。第二皇子となる皇太后の息子の
「なんだか奇妙な話ですね」
「確かに違和感はあるが、美玉様本人が自殺しようとしたのだと証言したのだ。その時は美玉様が人払いなさっていたから水天宮内には人はおらず、建物の周りを
「なるほど……」
朱里は納得した。
多感な年頃に母親が自殺未遂をしたなら、心理的な影響は大きかっただろう。そのせいで、憂炎はあんなに毒に敏感なのかもしれない。
「今は美玉様は碧玉宮という後宮の隅にある宮で、ひっそりと療養なさっている」
天祐がそう言うので、朱里はうなずく。
「それでは近いうちにご挨拶に伺います」
「ああ、そうして差し上げると良いだろう」
朱里はその時ふと、皇太后の姿を思い描いた。
「青蝶様は第二皇子の母君で皇太后ですが、現皇帝の実の母親は美玉様ということですよね」
「ああ、本来は憂炎様が即位なさる時に美玉様が皇太后になられるはずだったが、病弱ゆえに繁雑な後宮の管理はできないと辞退なさったそうだ。今は主上に皇后様がいないため、後宮を仕切っているのは皇太后様になるな」
「なるほど……」
朱里は以前挨拶した皇太后の姿を思い出す。どこか気弱そうな四十歳ほどの女性だった。
(水天宮のどこかに砒素が残っていたりしないでしょうか……いえ、できれば砒素以外が良いですが……)
小鈴からもらった紙包みは義兄に没収されてしまった。砒素の量を調べるからと言われて。
手元に残っていたら、ちょっと舐めてみるくらいのことはしただろうが……。
しかし砒素は無味無臭だから朱里の求めている毒とは違う。
いくらそこら中に毒物が溢れているとはいえ、農薬や化粧品などは不純物が多いため、さすがに朱里も食べる気にならない。やはり食用の毒が良いのだ。食用の毒って何だ、という突っ込みは省く。
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