第十五話 後宮の友人

 宇辰は朱里と天祐の様子を門の陰から覗き見ていた。


「クソっ、あの侍医頭、邪魔しやがって……」


 もう少しで朱里が毒饅頭を食べるところだったのに邪魔されてしまった。それに今後は警戒されてしまうだろう。


「あいつ邪魔だな……」


 侍医頭という勝ち組で、容色も優れている。日陰者の宇辰とは縁遠い、とことん嫌いな類の男だ。


(だが、あいつの義妹である朱里への過保護ぶり……あの女を始末すれば、どれほど嘆く姿を見られるだろう)


 その様子を想像して溜飲を下げる。あの男を始末するのはその後でも遅くはない。


(それにしても、どうやってあの小娘を始末するか……何度蟲毒を与えても打ち消してしまう。さすがに神仙の血を引く者はしぶといな。道士の俺でも手を焼く。もっと大量に毒を与えなくては……)


 その時、宇辰はひらめいた。


「そうだ……! 五年前と同じやり方にすれば良い。幸い、あの小娘は後宮妃だ。ならば毒に触れさせるのは容易い」







 書庫番に鍵を開けてもらい、朱里は薄暗い室内に入る。

 書庫の中には端から端まで本棚があり、書物が詰まっていた。あふれた巻物は木箱に入れられて雑に積み上げられている。


「わぁ、すごい書物の量ですね……」


 書庫番が管理しているので埃などはなかったが、ここで調べ物をしようと思うと目が回りそうだ。


「まぁな。夏王朝が始まってから約二百年だ。後宮で毒殺らしき事件は数えきれないほどあるし、それ以前の記録もできる限り焼却せず残してあるからな」


 突然背後から声をかけられて、朱里は飛び上がった。振り返ると、そこに立っていたのは天祐だった。


「わっ! お義兄様! もう戻ってきたんですか」


「なんだ、戻ってきてはいけなかったか?」


「そんなことはありませんよ。驚いただけです。それにしても随分早かったのですね」


「配下にいくつか命じただけだからな。それより何を調べていたんだ?」


 何だか話題を変えられたような気がして朱里は首を捻りながらも答える。


「過去に後宮で起きた毒殺未遂事件について調べようかと……」


「そういえば陛下から許可が出ていたな。どうしてそんなことを調べようと?」


「いえ……後宮のどこかに毒が残ってないかなぁ~と?」


 両手の人差し指を突き合わせてモジモジしながら誤魔化し笑いをする朱里に、天祐は大きなため息を落として額を押さえる。


「お前は本当に……。はぁ、まあ良い。医官としてそういうことに興味を持つのも業務外ではないからな」


 朱里のことになるとかなり甘い義兄は、そう思うことで己を納得させたようだった。


「で、いつの事について知りたいんだ? 俺に聞いた方が手っ取り早いだろうに」


「お義兄様はお忙しいのでお時間をいただくのは申し訳ないですし、自分で調べてみようと思ったのです。ですが、この蔵書の量を見ると……心が挫けそうになりますね」


 朱里は苦笑しつつ本の山を眺める。


「まあ全部読もうと思うと常人なら数十年はかかってしまいそうだが……要点を絞れば難しくないだろう。年代別に分かれているからな。まあ、知りたいことなら俺が教えてやろう。何の話を聞きたいんだ?」


(まさかお義兄様は全ての書物にすでに目を通しておられるのでしょうか……?)


 暇さえあれば医学書を速読している義兄のことだから、あながち的外れでもないかもしれないと朱里は思う。


「そうですね……あまり昔の話だと毒も残っているとは思えませんから……十年ほど前までの目ぼしい事件について知りたいです」


 朱里がそう言うと、天祐は近くの古書の背表紙を撫でて、「十年か……」と呟き、何かを思考しているようだった。


「やはり、一番印象深いのは五年前に起きた憂炎帝の生母である美玉ビギョク様の服毒自殺未遂だろうな」

 そう言って天祐が口を開こうとした時──書庫番が扉を叩いた。


「すみません、天祐様。水天宮すいてんきゅうの宮女が主のために阿膠あきょうを持ってきてほしいとおっしゃっているのですが……」


 阿膠あきょうとは美容と体力増強に効果のある生薬だ。驢馬ろばの骨や皮を長時間煮詰めて作るコラーゲンで、どろどろとしていて少し獣の臭いがする。


「ああ、ではすぐに用意しよう。すまないが、朱里。話の続きはまた後で……」


 そう天祐が言いかけた時、書庫の入口から蒼天宮そうてんきゅうの宮女が顔を出す。


「すみません、主が膝の調子が悪いから天祐様に見ていただきたいと。ご指名です」


 いきなり同時に仕事が舞い込んできて、天祐は顔をしかめる。義兄は見目麗しい男性なので、後宮の妃達から名指しで呼ばれることが多い。


「指名か……なら俺が行かねばな。しかし今は侍医院に人手がない」


 数人の男は残っていたが書庫番や薬番をしている。どこかに穴を空けるわけにはいかないし、針師はりし按摩師あんましも今日は非番だ。運悪く使部つかいべ──雑役に従事する下級役人──も、どこかに出払っているらしい。時機が悪いということはあるものだ。


「阿膠は煎じてあるから、先に水天宮に持って行ってから蒼天宮へ向かうとするか」


 そう呟いた天祐の袖を朱里は引いた。


「私が水天宮に参ります。お義兄様は蒼天宮へ向かってください」


 朱里も一応は助手である。時間がある時は近場に薬を運んだり、薬園の手入れをしたりと侍医院の雑務をしてきた。

 天祐は渋い顔をしている。


「しかし、いつ主上から呼び出しがくるか分からないぞ」


「すぐに戻るから大丈夫ですよ。もし陛下の使いが来たら、私は水天宮に行っていると侍医院に残っている方に伝えてもらいましょう」


 そこまで朱里が言うと、ようやく天祐は許した。


「そうだな。今はやむを得ない。早めに戻ってくるんだぞ」


 朱里はかまどの前にいた薬番から土瓶と器と匙を受け取り、お盆に載せて運んで行く。


「水天宮に行くのは初めてですね」


 朱里はのんびりと口にしながら、こぼさないように慎重に石畳を歩いて行く。後宮は広くて、遅くなれば阿膠が冷えてしまう。まあ、もしそうなれば水天宮のかまどを借りて温め直すこともできるのだが。


「ここ……でしょうか」


 天祐に教えられた場所は、朱里が寝泊まりしている紅天宮から、さほど遠くない場所にあった。

 庭園にはいくつもの睡蓮鉢と、水甕みずがめに入れられた金魚が泳いでいた。そのせいか、門をくぐった途端に涼やかな空気を感じる。

 朱里は金魚に餌をあげていた宮女に声をかけた。華やかな襦裙じゅくんをまとい、おしゃれに髪を結い上げた十八歳くらいの女性だ。


「見事な睡蓮と金魚ですね」


 そう声をかけると、その宮女は艶やかに笑う。


「そうでしょう。なかなか高い金魚だったのよ」


 ふむふむ、と朱里は感心する。宮の雰囲気は主によって作られるものだ。


「水天宮の主である小鈴ショウリン様は洒落者でいらっしゃるのですね。──阿膠をお持ちしました。小鈴様にお取次ぎをお願いいたします」


「えっ、あなたが? ああ、もしかして、あの噂の寵妃? ……ふぅん? 本当に変わっているのね。自分から下働きのような仕事をするなんて」


 じろじろ見られて、朱里は苦笑いする。こんな好奇の視線も慣れっこだった。


「私が秦小鈴シン ショウリンよ! 同じ妃同士なのだし、小鈴で良いわ。私も朱里って呼んで良いかしら?」


 朱里はうなずく。


「もちろんです。小鈴」


「朱里、中に入りなさい。暇していたのよ」


「はい」


(この方が小鈴様だったとは……なんだか楽しそうな方ですね)


 自ら案内されて室に入ると、内部は紅天宮と似た構造だった。左に食事ができる室、右にくつを脱いでくつろげる小上がりがある居間があり、その奥の室は薄絹で間仕切りされた寝床がある。

 小上がりには卓を挟んで座椅子が二脚、用意されていた。小鈴は朱里に座るように促したが、今日は医者助手としてやってきたので「いえ、結構です」と遠慮した。


「まだ温かいので、どうぞ」


 そう言って朱里がそばにいた宮女にお盆を手渡せば、小鈴はつまらなさそうに唇を尖らせる。侍女が目の前に阿膠を置いても口をつける様子はない。


「つまらないわぁ。もっとお話しましょうよ。あなた、せっかく妃になれたのに、わざわざ侍医院で働いている変わり者なのでしょう? どうして主上の毒見役になんてなろうと思ったの? 教えてよ」


「えっと……それは……」


 朱里はつい正直に答えかけて、憂炎と義兄に毒を無毒化できることは黙っているようにと言われたことを思い出して口をつぐむ。

 しかし嘘をつくのも躊躇われて、朱里は話題を変えることにした。


「そういえば、小鈴は皇太后様の姪子でいらっしゃいましたね。なかなかご挨拶に伺えず申し訳ありませんでした」


 後宮には朱里の他に三人名家の娘が輿入れしているが、そのうちの一人が目の前にいる小鈴だ。他の妃に会ってみたいとは思いつつ、朱里は日々の忙しさに負けて行動に移せていなかった。


(皇太后様には何とか時間を見つけて挨拶したものの、お忙しかったのか、すぐに話を切り上げられてしまって、あまりお話ができなかったんですよね……他の妃の方々とも仲良くしたいです)


 小鈴はころころと鈴が転がるように笑う。


「そうよ! 私は青蝶セイチョウ様の姪なの。そのご縁で後宮に上げていただいたのよ。でも主上はまだ妃の誰もお手をつけていらっしゃらないみたい。朱里はどうなの? 噂通り、寵妃のあなたは夜のお勤めもしているのかしら?」


 あまりにズケズケと踏み込んだ質問をされて、朱里は少し面食らってしまう。そして顔を赤らめて首を振った。


「い、いえ! そんな……私のお仕事は毒見だけです!」


「なぁんだ。つまらない。……だったら、やっぱり主上は男色家なのかしら。まだ誰も妃に共寝をさせていないみたいだし」


 皇帝が誰かに夜伽をさせれば、すぐに宮女を通して知れるらしい。だが、そういう類の話は朱里もまだ聞いたことがない。

 朱里は首を傾げて、「さて、どうでしょうね?」と考える。

 そう言いつつも、憂炎が誰かと夜を過ごすことを想像すると、少し胸の中がもやもやした。


(……どうしたんでしょう? 胃もたれでしょうか?)


 朱里は胸の辺りを押さえながら首を傾げる。

 小鈴が「はぁ」と大きくため息を落とした。


「叔父様から主上に色仕掛けをしろ、って命じられているんだけど、会えないんじゃ色じかけも何もできないわよね。しかも男色家とか。終わったわ~」


 歯に衣着せぬ小鈴の物言いだったが、朱里はむしろ好感を持った。高貴な身分の子女というよりは蓮っ葉な町娘のようだ。つい肩入れしたい気分になり、朱里は言う。


「小鈴のような器量良しならば、きっと一目見れば主上はお気に召されますよ。とてもお洒落で、衣装や髪飾りも洗練されていますから」


 小鈴は悪い気はしなかったのか苦笑をして、器に入った阿膠を匙ですくい口にする。


「そうかしら? 後宮は暇だから、美容に磨きをかけてばかりなの……ああ、そうだわ。朱里、あなた脱毛剤に興味はある?」


 突然話題を振られて、朱里はきょとんとした。


「脱毛剤……ですか? うん……そうですね。確かに興味はあります」


 朱里も一応は年頃の女である。毒食以外にも、少しは美容に興味はある。毒食に比べると象と蟻くらいの差はあったが。

 小鈴は侍女に化粧台の引き出しから何かを持ってくるように命じる。それは小さな紙包みだった。


「見て見て! じゃじゃ~ん!!」


 まるで銅鑼どらでも叩くような音を口にしながら、小鈴は紙を開いて見せた。中には土色の粉末がある。

 朱里は興味深げにそれを眺めた。


「これは?」


「ふっふっふ、これこそが脱毛剤! この粉末を唾液だえきと混ぜてね、脱毛したいところに貼りつけると綺麗に毛が脱け落ちるの!」


「へえ……それはいったいどういう仕組みなのでしょう……?」


 目を丸くする朱里に、小鈴は肩をすくめる。


「さあ? 詳しいことは分からないけど。帝都で流行っているから侍女に取り寄せてもらったのよ」


 後宮の妃は外に出られないが、宦官や宮女に頼んで欲しいものを調達することはできる。国からの俸禄ももらうため贅沢な暮らしができた。


「あなたにも一つあげるわ。仲良くなった記念にね」


 そう言って小鈴に紙包みを手渡され、朱里は微笑む。


「ありがとうございます。まだ仕事がありますので、今日はここで失礼させていただきます」


「ええ~? もう?」


 小鈴は不満そうにしている。


「宮も近いので、次はお仕事ではなく個人的に会いに来ます。その時にゆっくりとお話ししましょう」


 朱里はそう約束して、水天宮を離れた。

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