第十二話 蘭玲と宇辰の無謀な企み(その二)
蘭玲が父親の弟である
「痛っ! ちゃんと丁寧にしなさいよ!」
そう可馨に怒鳴られた。
桃の木櫛で可馨の長い黒髪を
(どうして私がこんなことを……)
内心不服な気持ちが抑えられない。これまで蘭玲は傅かれる側だったのに。父親は左丞相という偉い地位だから、本来ならば蘭玲は働かなくても楽に暮らせていただろう。
しかも仕える相手が昔いじめていた可馨というのも厄介だった。自分の方が親戚の中でも立場が上なことを利用して、いとこ達に会うたびに『
可馨は呆れたようにため息を吐く。
「何回やっても下手ね。こんなに何もできないなんてね。……もう良いわ、下がりなさい。他の侍女にやらせるわ」
蘭玲は怒りで顔が赤くなる。蘭玲が持っていた櫛を奪って、老齢の使用人が可馨の髪を梳き始めた。
「蘭玲、これからは私に仕えなくて良いわ。邸の下働きをしなさい」
その言葉に、蘭玲は目を剥いた後、にやりと笑った。この女の面倒を見なくて良いならせいせいすると思った。
(良いわ。邸の下働きでも何でもするわよ! 可馨に仕えるより、そっちの方がずっとマシだもの!)
「あら、気分が良さそうな顔をしているけれど、邸の下働きの方が大変よ。洗濯も厠の掃除も何でもしなくちゃいけなくなるもの。私の侍女として働くことはそんなに大変じゃなかったって思い知ることになるわ」
可馨の言葉に蘭玲は押し黙った。
うんざりとした様子で可馨はため息を落とす。
「お父様もあなたに気を遣って私の侍女にしたのよ。伯父様にも私はあなたのことを任せなさいと頼まれたの。でもあなたって五日経っても何も変わらないんだもの……私の手に負えないわ」
蘭玲は屈辱でぶるぶると震えた。
(どうして私がこんな目に……! 全部お義姉様のせいだわ!)
心の中でそう思っていたのが伝わったわけではないだろうが、ふと、可馨が思い出したように言う。
「そういえば、朱里お姉様が……」
可馨は昔から二歳上のいとこの朱里のことを姉のように慕っていた。そこも蘭玲が気に食わない部分だ。
「朱里お姉様が陛下のご寵愛をいただいているようね。主上はどこに行くにもお姉様を連れて離さない、と宮廷に出仕しているお父様から聞いたわ。皇城で有名になっているらしいわね」
可馨はまるで自分のことのように胸を張って威張っている。
(あんなのに騙されるなんて本当に男って馬鹿ね。私の方がよっぽど見た目も良いのに! 陛下は女を見る目がないわ!)
蘭玲は内心で歯噛みする。
朱里の性格は良く知っている。おっとりしていると言えば聞こえは良いが、蘭玲からしたらトロくて空気の読めない苛々させられる女だ。
可馨は嬉しそうに話す。
「朱里お姉様は主上のお食事の毒見役まで買って出ているそうよ。妃嬪の鑑のような献身ぶりに皇城の官吏達も一目置いているそうよ。当然よね。お姉様は昔から目は見えなくても聡明だったもの。どうやら主上の男色の噂もただの嘘だったみたいね」
「またお義姉様が……」
蘭玲はひそかに拳を握りしめ、可馨の室から出て行く。
「蘭玲! どこに行くのよ!?」
そう怒りの声を上げる可馨の言葉も無視した。
(いつもそう……! お父様もお母様もお義兄様も皇帝陛下も、皆して『朱里、朱里』って! お義姉様のことばかり……ッ! 目が見えないお荷物なのに……! 私の方が可愛いのに!)
それなのに、皆朱里のことを気遣うのだ。そして姉を好きになってしまい、蘭玲よりも優先し始める。
頭に血が昇ったままでは仕事に戻れない。蘭玲は深呼吸して、廊下から庭へ出ると人けのない方向に歩いて行く。
塀に手をついてため息を吐いた時に、どこかから小さく呼び声がした。
「──蘭玲様」
聞き覚えのある声に周囲を見回すと、塀に空いた穴から目が覗いていた。
「ひっ! って……あなたは……」
卑屈な笑みを浮かべているその男は、かつて文家で働いていた道士の青年、
「蘭玲様……」
蘭玲は慌てて周囲を見回す。幸い周りに人の目はなかったが。
「宇辰? あなた、そんなところで何をしているの?」
「蘭玲様に会いたくて、お探ししておりました。大事はございませんか?」
(ええ~……)
蘭玲は全力で引いた。ここまで探して追ってきた粘着質な彼に気持ち悪さを覚える、
かつて蘭玲は宇辰に交際をちらつかせることで意のままに操っていたのだ。彼の蘭玲への想いを利用して蟲毒を彼に作らせたこともある。
「てっきり、逃げ出したのだと思っていたわ」
「逃げるわけがありません。ですが、私が所用で邸を出ている間に蘭玲様が両親に咎められ、親戚の家に奉公に出されたと知り居てもたってもいられず助けに参ったのです」
蘭玲は宇辰の言葉に少し驚く。
「……私を助けに来てくれたの?」
「ええ。私と来てくだされば不自由はさせません」
そう真摯に言ってくれる彼に心がわずかに動いたが──。
(いや、やっぱり無理だわ)
蘭玲は憂炎みたいな美形で地位がある男が好みなのだ。宇辰のような
確かにこの邸から出たい気持ちはあるが、それは宇辰と一緒になるという代償が必要になるだろう。それはさすがにごめんこうむりたい。
しかし、わざわざ迎えに来たというこの粘着質な男を諦めさせる方便が必要だった。
「私はこの邸に奉公に出されたの。役目をまっとうしなければ……」
「そんな……! 蘭玲様がそんなお辛い目に合うなど……」
蘭玲な弱弱しい笑みを作って、目じりに涙が浮かんだ振りをする。
「私も本当は家に戻りたいわ。でも、お義姉様がいる限り、私が文家に戻されることはないでしょう。お父様がお許しにならないわ」
さめざめと袖で涙をぬぐう演技をすると、宇辰はしばらく黙り込んだ後、重々しい口調で尋ねる。
「では、もし文朱里がいなくなれば……?」
「そうね。私も文家に戻れるかもしれないわ」
「──ならば、私が文朱里を始末しましょう」
(その言葉を待っていたの!)
蘭玲は内心、狂喜乱舞した。
「でも、お義姉様は後宮に入ってしまったわ。皇城は警備が厳重よ。まさか忍び込んでお義姉様を殺せるとでも言うの?」
挑発めいた蘭玲の言葉に、宇辰は首肯する。
「できます」
「……本当に?」
「ええ、蘭玲様もご存じでしょう。後宮には我が道士達の組織【
「そう……では、やってみて。あなたしか頼れないの。どうかお願いね。私をここから救って!」
蘭玲がそう言って塀の穴に手を伸ばして宇辰の手を握ると、彼は気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「はい! 必ずや、良い知らせをお持ちします!」
◇◆◇
翌日、宇辰は文家の邸を出ると組織が根城にしている下町にある三階建ての民家に入る。
一番豪華な室にいるのが道士の組織である【黒牡丹】の統領、
「統領、戻りました」
そう声をかけて入ろうとしたのだが、開いた戸に杯をぶつけられた。何か不手際があったのかと心配したが、どうやらそうではないようだ。
室内は荒らされている。空燕が苛立ちのあまり物を破壊し、手下を困らせているようだ。
空燕は叫んだ。
「思わぬ伏兵にやられたわ! あの朱里とかいう寵妃のせいだ!」
(朱里?)
ちょうど想い人の姉である朱里を始末しようとしていた宇辰は、組織でもその名を聞くとは思っておらず目を剥いた。
近くにいた同胞に「何事です?」と尋ねると、「皇帝の暗殺に失敗したのだ。寵妃の朱里とかいう娘が毒見を買って出てな」と苦い顔でこぼす。
「我ら道士は先帝に冷遇され、道士の里である故郷を焼かれたのだ。そこを救ってくださったのが
再び空燕のつかんだ壺が叩きつけられて割られてしまう。
勝峰は野心家で、姉である皇太后様の息子の東宮を次の皇帝にさせたがっている。
(しかし憂炎は用心深い……幼い頃から毒殺の危機にさらされてきたために、まとう物すら側近の宦官に着せてから己も着るという念の入れようだ。隙がなさすぎる)
寝所の布団にも毒が沁み込んでいないか用心しているため、先に下着のみの腹心の宦官を横たわらせ、時間を置いても無事なら自分もその布団で寝るという念の入れようだ。その変態的な用心深さのために一部では宦官好きの男色家と噂されているが、実際は違う。生きながらえるための知恵だ。
「遅効性の毒を御膳房の用意した麻婆豆腐に混ぜさせたが……まさか言い当てられるとはな。念を入れて香辛料をたくさん混ぜさせたが……それで勘づかれたようだ。長期間忍び込ませて信用を得ていた料理人を失ってしまったのは痛いな」
空燕は腹立たしげに言いながら室内を歩きまわっている。
その言葉で、憂炎の命令によって料理人は捕らわれて始末されたのだと察した。御膳房とは皇族の料理を作る皇城の部署だ。
空燕はなおも言う。
「どうやら、あの朱里とかいう小娘はかなり毒の知識があるようだ。今や憂炎が口にするものは全て小娘が毒見をしていると聞く……邪魔だな」
宇辰は意を決して空燕の前に出て膝をついた。
「統領、ただいま戻りました。恐れながら……その朱里という小娘を始末する役目を私にお与えくださいませんか?」
空燕は片眉を上げた。
「お前にできるのか?」
宇辰は「はい」と力強くうなずく。
文家に忍び込んでいたのは
(蘭玲様は義姉のために気苦労をしてきたのだ。俺がしっかりと支えてやらねば……)
宇辰はそう思い、己を奮い立たせた。
暗殺に成功したら、きっと蘭玲は己の気持ちに応えてくれるだろう。そう信じて疑わなかった。彼女は献身的な男性が好みだ、と言っていたから義兄よりも宇辰を選んでくれるはずだ。宇辰は次の統領候補に目されている実力者だ。いずれ彼女を妻として迎えたいと思っていた。
「良かろう。朱里の暗殺はお前に任せる」
「かしこまりました」
宇辰が深く頭を下げると、空燕は笑う。
「我ら【黒牡丹】は毒によってこれまで国を裏から操ってきた。勝峰様のために、あの邪魔な小娘を消してやろう」
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