第十話 毒殺未遂
黄色の屋根瓦を戴く朱色の高い塀の中には多くの官吏や宮女が行きかっていた。
文家がいくつも入ってしまいそうなほど広大な敷地は石畳で整備されている。朱里は輿から降りると後宮の門の詰め所で身体検査を終えて、徒歩で明明と後宮の門をくぐった。
そのまま宦官に案内されてどこかに向かうのかと思いきや、皇帝の寝所である
庭園には
「──朱里。待ち望んだぞ」
憂炎は紅潮した顔で飛んでくると、朱里に抱きついた。
「きゃっ、憂炎……じゃなくて陛下」
朱里は周囲にいた宦官達の目が気になった。先ほど明明から、憂炎には側近の宦官の恋人がいると聞いている。
(こんなふうに抱きつかれたら誤解されてしまうわ……!)
朱里は慌てて憂炎をそっと押しやる。
「駄目ですよ、主上。このような真似をなさっては」
「何故だ。妃を抱きしめることがどうしていけない?」
朱里はきょろきょろと周囲を見回す。誰が憂炎の恋人なのか見極めようとした。
「だって、誤解されてしまうかもしれません。あなたの恋人に」
「恋人?」
目を丸くしている憂炎に、朱里は言った。明明が青くなって止める隙もなく。
「憂炎には宦官の恋人がいるのでしょう? 噂になっていますよ。毎夜激しい夜を過ごしていると……私は憂炎の友人なのですから教えてくだされば良かったのに」
「なっ、なっ……」
憂炎はあまりのことに言葉がでないのか、真っ赤な顔で口を開閉している。
「なんだその噂は!? 俺は男色家ではないッ!!」
「あら、そうなのですか。私はてっきり……」
口元に手を当てて、朱里は目を丸くする。
何だか疲れた様子の憂炎は額に手を押し当てて深く息を吐く。
「……十年前にお前が言ったんだろう。皮膚毒にも注意せよ、と。だから俺は寝所の布団にも毒が沁み込んでいないか腹心の宦官を横にさせて、しばらく経っても異変がなければ寝るようにしているんだ。衣装も一度宦官に着せてから着ている。俺は毒殺されないよう用心しているだけで、男色家ではない!」
朱里は感心して目を輝かせる。
「それは素晴らしい心がけですね。それなら教えてくだされば良かったのに」
そう朱里が言うと、憂炎はばつの悪そうな顔をする。
「……皇帝が毒に怯えているだなんて恰好悪いだろう」
「恰好悪くなんてありませんよ。誰だって毒は怖いものです」
朱里だって、毒が無毒化できるようになる前までは恐ろしかった。しかも憂炎は幼い頃から周囲に毒を盛られ、危険な目に合ってきたのだ。彼の気持ちはよく分かる。
(十年前のあの事件も……憂炎に水銀入りの薬を盛っていた侍医は処分されたと聞きましたが……結局、裏にいる者の存在は分からなかったそうですね)
朱里はじっと憂炎を見つめる。
「私はきっとお役に立ちますよ」
「それは一体どういう意味だ?」
その時、筆頭宦官が近付いてきて憂炎に頭を下げる。
「お食事の準備が整いました」
憂炎はうなずく。
「そうか。……まあ良い。朱里、一緒に昼餉を食べよう。腹が減っているだろう」
「まあ。嬉しい。ありがとうございます」
明明には先に朱里に与えられた紅天宮に向かってもらうことにした。朱里だけ憂炎の後に続く。
絢爛豪華な室内は、金や玉がいたるところにあしらわれていた。すぐそばの室に食事処があった。円卓の上には点心や、
椅子に腰掛けるようにうながされて、朱里は戸惑いながら周囲を見回した。
(ここは始めて来ましたが、明らかに憂炎の私室ですよね……他の妃の方々は一緒に召し上がらないのでしょうか)
朱里を含めて四人の妃がいると聞いていたが。元々友人とはいえ、二人きりだとまるで特別扱いされているようで少々心配になってしまう。
「そこに座れ」
憂炎にそううながされて、朱里は彼の向かいに腰掛ける。
「ところで、他のお妃様達はどのような方々なのでしょうか?」
朱里の問いかけに、憂炎は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……知らない。会ったことがないんだ」
「そうなのですか?」
憂炎は居心地悪そうにお茶を口に運びながら言う。
「……本当はお前以外の妃を娶るつもりはなかった。だが俺はまだ即位したばかりで、功臣達に報いるために彼らの娘を後宮に入れるべきだ、という意見が官吏達から出て、それらを無視できなかった」
「なるほど。そうだったのですね」
朱里としては毒を貰える可能性もあるし、同じ年頃の女性ならば仲良くなれるかもしれないから好ましいことだが、憂炎にとっては頭の痛いことらしく表情は暗い。
「安心しろ。他の女と寝るつもりはない」
「そうなのですか? 私はどちらでも構いませんが」
のんきな朱里の言葉に、憂炎はむっとした表情になる。
「それはどういう意味だ。気にしろよ」
「憂炎は皇帝ですから、後継者の問題もありますし妃一人という訳にもいかないでしょう。庶民だって妾を複数持つことは珍しくないのですから」
朱里の生家は高官にしては珍しく妾がいなかったが、経済的に余裕があれば妾は何人もいるものだ。
朱里は視線を落として嘆息する。
「ただ一人に対して誠実に生きる恋愛に憧れないわけではありませんが……私は恋や愛に疎いので、それらを憂炎に求めるわけにはいきません」
朱里の言葉に、憂炎は黙り込む。そして、しばらくしてから言った。
「分かった。それなら、お前が俺を異性として意識できるまで待とう」
「え……?」
「お前は十年も友人関係だったから、いきなり夫と言われて混乱しているのだろう? 俺も少し焦りすぎた。お前の気持ちが固まるまでは何もしないから安心しろ」
「それは……」
朱里にとってはとてもありがたい提案だったが、困惑してしまう。
(相手は皇帝だというのに良いのでしょうか……?)
一刻も早く後継者を、と求められる立場だというのに。
「気にするな。まあ、できるだけ早く覚悟を決めてもらえたら俺としてもありがたいが。十年も待ったのだから、もう少し伸びたところで変わらない」
その大人びた彼の苦笑に、朱里はドキリとしてしまう。
これまで幾度も好きだと告げられていたが、朱里はからかわれているのかと思って軽く流してしまっていた。しかし、こうして妃に求めてくれたということは本気だったのだろう。急にそれを意識してしまい、朱里の顔がカァと熱くなる。
朱里は誤魔化すように咳払いした。
「長話してしまいましたね。せっかく用意してくださった料理が冷めてしまいますよ」
「そうだな。食べよう」
憂炎はそう言うと宦官を呼んで、銀箸で小皿に鱶鰭の汁物を取らせた。朱里にも大皿から取り分けられた麻婆豆腐が渡される。
朱里の好みは知られているためか、卓上には香辛料が用意されていた。遠慮なく辛味と苦味の香辛料を山のように振りかける。
「それは料理に対する冒涜では……」
憂炎が引きつった顔で突っ込むが、朱里はしれっと言う。
「もちろんそのままでも充分美味しいですよ? ですが、こうして好みの味付けにすると、さらに美味しくいただけるのです」
「……さすが味覚の破壊神だな。まあ、お前がそれで良いなら俺は何も言わないが」
憂炎はやや呆れたように苦笑しつつ、汁物を口に運ぶ。
朱里も匙で麻婆豆腐をすくいあげて口に運び──ピタリと動きを止める。目が見えなかった朱里は味覚や嗅覚は常人よりも優れていたため、それに気付いてしまった。
「陛下、お待ちください。これは……毒です」
朱里の言葉に、憂炎は凍り付いた。
「毒……だと? 本当か?」
「ええ」
朱里は首肯する。
「毒見はしてあるはずなのに……クソッ」
怒りが込み上げてきたのか、憂炎はぶるぶると震えながら宦官に向かって叫んだ。
「毒見役を呼んで来い! 今すぐにだ!! それに作った者と運んできた者、接触する機会があった者を連れてこい!」
「は、はいっ!!」
憂炎に怒鳴られた宦官は青くなって走って行った。そして間もなく一人の男が引きずられるようにして連れてこられる。恰好から侍医と分かる。皇帝の毒見役は代々毒に造詣の深い侍医院の医者が務めることになっているのだ。
(ということはお義兄様の部下の方かしら……)
朱里がそう考えていると、侍医はその場にひれ伏した。
「申し訳ございません! 毒見役だというのに毒に気付かないとは、何という失態を……っ!」
このままだと死刑にされることが分かっているからだろう。カタカタと奥歯が噛み合わず震える音が聞こえている。
ぞろぞろと料理人と料理を運んできた宮女達も入室した。皆血の気の引いた顔で縮こまっている。
「侍医のくせに、俺の食事に何の毒が混ざっているのかも当てられないとは無能だな。朱里がいなければ、どうなっていたか」
憂炎の言葉に、平身低頭していた青年がビクリと体を揺らす。
「お、恐れながら……口にしたのが少量だったゆえに気付けなかったのかもしれません。お詫びいたします。これからはもっと注意深く確認しますゆえ、どうかお許しを」
「ほお。それでは慎重に大量に食べていれば何の毒かも当てられたとでも?」
憂炎は冷たい声で毒見役を見おろしながら言う。
「は、はい! もちろんでございます! この身に誓って……!」
「ならば食べてみよ」
「……は?」
固まっている侍医の青年に向かって言う。
「貴様の手落ちだ。本来なら人豚刑に相当する罪だが、もしお前が何の毒か当てられたなら罪を軽くしてやろう」
人豚刑とは両手足を切断し、目、耳、喉を潰して身動きも取れなくした後、豚便所に放り込んで死ぬまで放置するという残酷な刑罰だ。
「は、はい……ありがとうございます」
顔面蒼白になりながら、青年は震える手で麻婆豆腐が取り分けられた小皿を受け取った。恐怖のあまりに手が震えてこぼしてしまう。しかし、匙ですくって一口食べた。
憂炎は集まっている料理人達にも冷たい視線を送る。
「次はお前達だからな」
「ひぃっ!」
成り行きを見守っていた朱里は眉根をよせた。
(憂炎……随分怒っていますね)
幼少の頃に毒殺されかけたせいで、彼は毒に対しての拒絶反応が強い。信頼していた毒見役がまったく役に立たないことを悟った失望感もあるのだろう。もしかしたら誰が犯人か探ろうとしているのかもしれないが。
朱里に対しては年相応の気の良い青年だが、憂炎は周囲からは冷徹と恐れられている皇帝なのだ。
「ほら、もう一口だ。そろそろ何の毒か分かったか?」
憂炎の問いかけに、毒見役の青年は狼狽を見せた。
「お、恐れながら……私が浅学ゆえに、まだ毒の詳細は分かりません。もっと摂取しなければあるいは……しかし、これ以上は私も命に関わります」
「それがお前達の仕事だろう! 無能な集団なら要らぬ!」
憂炎は苛立ちのあまり卓を拳で叩きつける。椀に入っていた液体が揺れた。
「何の毒が入っているのかと聞いているんだ! 分からなければ次に毒殺されそうになった時に解毒薬も作れないだろう! 優秀な医者なら少量で何の毒か見分けられると聞くのに何というざまだ!」
憂炎の剣幕に辺りは水を打ったように静まる。
──その時、黄天宮に義兄が入室してきた。
「大変お待たせいたしました。文天祐が参りました。皇帝陛下に拝謁いたします」
義兄はそう丁寧に言って頭を垂れる。そして、むっとしている憂炎に向かって言った。
「……部下の不始末は侍医頭の責。俺が毒見役を務めさせていただきます」
天祐の言葉に、辺りが騒然となった。
「侍医頭がそんなことをせずとも! 囚人にやらせましょう!」
そう援護する部下や宦官達に天祐は首を振る。
「それでは処刑と同じでしょう。それに俺はあらゆる毒に精通しており、多少免疫もあります。わずかな毒でも何の毒か分かります。私は侍医です。ここは私にお任せください」
義兄が決然とした表情で箸を手に取ろうとしたが、朱里は彼を手で制した。
(美味しい毒は全部私のものです! これ以上、他の人には一口も渡しません! こんな事態になるなら、さっさと一人で食べておくべきでした)
「お義兄様、ここは私にお任せください」
「朱里!?」
仰天する憂炎。
「朱里? え、いや、妃のお前に任せるわけには……」
義兄も困惑している。
朱里はニコニコして言う。
「まあ、そう遠慮なさらず。他の物にも毒が入っているかもしれませんから確認しますね」
食い意地のはった朱里は、これ以上他の人に毒を取られまいと必死だった。
近くの野菜炒めの銀皿をつかみ、有無を言わせず箸で食事を喉に流し込む。その迷いない動きに、その場にいた人々の顔からは血の気が引いた。
「お、おい!」
「誰か止めろ!」
「死ぬぞ、あの妃……」
そう口々に漏らす人々の声を聞いて、ようやく呆然としていた憂炎は事態を理解したらしい。
「朱里、やめるんだ! お前が口にすることはない!」
制止しようと慌てて腕を伸ばしてきたが、朱里はひらりとかわした。
朱里は必死に
「朱里! いい加減にしろ! ふざけている場合じゃないんだ!」
珍しく朱里に対して声を荒げた憂炎に、朱里はやっと意識を現実世界に引き戻した。
(し、しまった……! 美味しすぎて食べることに夢中になってしまいました……)
このままでは全部の皿を食べ尽くしてしまいかねない。
(憂炎はそれを指摘してくれたのですね。危ないところでした。これは毒見ですからね。彼の分も残しておかねば)
そう気付き、朱里はあまり好みではない皿の食事は残した。つまり毒の入った皿の料理だけ食べることにしたのだ。
(よく考えたら私の胃袋も無尽蔵ではありませんし、好きな物だけいただいて残り物は陛下に差し上げましょう)
そう不敬なことを考えつつ、朱里は麻婆豆腐を好んで食べた。一応、証拠に三口分だけ残しておく。
「ふう……ごちそうさまでした。毒人参が入っていたのは麻婆豆腐だけです。他の皿も毒見してみましたが、毒は入っておりません」
朱里の言葉に、あっけに取られていた皇帝は眉根を寄せる。
「毒人参とは?」
「毒人参は西国から輸入されるハーブです。緩やかな死をもたらす毒草で、痙攣と麻痺を引き起こし、死体には鉛色の斑点が浮かびます。葉や種には独特の腐臭がありますから、大量の香辛料で味を誤魔化しているのでしょう」
朱里は残っていた麻婆豆腐を皿ごと憂炎に差し出す。
こういう知識も全て書物と、博識な侍医頭の兄から得たものだ。後宮に入る前にも毒についてさらに書で調べ、義兄の薬棚に入っている毒は嗅いで舐めて学んだ。ただ味見しただけとも言うが。
「独特の臭いがします。嗅いでみてください」
憂炎は「ふむ……」と興味深そうな表情で象牙の箸を手に取ると麻婆豆腐に鼻を近付けた。
「……なるほど。確かに普通の麻婆豆腐とは違う匂いがするな。ネギや生姜、花椒……
「それが毒人参特有の香りです。西方では河原に大量に生えており手に入りやすいと聞きます。しかし、この辺りではない毒草ですから、厨房や入手経路を調べた方がよろしいかと」
「なるほど……おい、そこの者。この麻婆豆腐を誰が作ったか、途中で誰か触れたか、材料の入手経路や保管場所について調査しろ!」
憂炎の命令によって慌ただしく宦官達が去って行く。厨房に向かわせたのだろう。
朱里は穏やかな表情で言う。
「私の体にも、もうじき毒の症状が現れるでしょう。お調べになってください」
朱里は耐えきれず、その場に膝をついた。膝に力が入らなかったのだ。手や足の指先の感覚がもうない。
「朱里!」
憂炎と義兄が血相を変えて駆け寄る。朱里は仰向けにされて、義兄の指で足の先や脛を押された。
「朱里、手足に感覚はあるか?」
義兄の問いに、朱里は首を振った。
天祐は怒気のこもった声で言う。
「この麻痺はやがて体の中枢に進み、呼吸筋が動かせなくなり死に至る……なぜ!! 毒と知っていたのに飲んだ!? それは俺の役目だったのに……っ」
朱里はにっこりと微笑む。
「私は大丈夫です。お義兄様もそれはご存じでしょう?」
朱里に毒は効かない。症状が表れるのは一時だけだ。
憂炎は震えながら言う。
「だ、だが、苦しいのは同じだろう。お前を毒で苦しませたくないのに……」
こんなに動揺している憂炎を見たことがない。朱里は感覚がない指で彼の手をつかんだ。
「……憂炎。ごめんなさい。でもどうしても、私は自分に嘘は吐けなかったのです。とっさに体が動いてしまいました。でも憂炎や皆さんが無事で良かったです。……どうか愚かな私を許してください」
静かな朱里の目を見て、憂炎はハッとしたような表情になる。
「まさかお前……俺や毒見役の命を救うために……?」
憂炎はわなわなと震えていた。
義兄も「そんな……朱里、お前……」と目を潤ませる。
憂炎の足元で伏せていた侍医が朱里の元に駆け寄った。
「君は俺達の命を救ってくれたのか? 自分の危険もかえりみずに!? そんな……っ!」
その場にいる人々の朱里を見る目が変わっていた。命がけで自分達を守ってくれた心優しく聡明な妃を見つめる目に。
(え? 皆さん、どうしてそんなことをおっしゃって……?)
ただ単に食い意地の張った朱里が毒食の欲求に負けただけである。
何だか良い風に誤解をされているように感じたが、意識が飛びそうで、それ以上はうまく頭が働かない。
朱里は何か言おうとしたが、耐えきれず意識を失った。
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