第三話 目が見える

 朱里は飛び起きた。


「朱里!?」


 そう声をかけてきたのは憂炎だった。その後ろには義兄である天祐テンユウも控えている。二人共ひどく驚いたように目を見開いていた。


「憂炎!?」


 朱里は目が見えることに驚き、目蓋を大きく見開いた後にポロポロと涙をこぼした。


(まとう雰囲気で分かります。彼こそが十年来の友人の憂炎なのだと……)


 今年で二十歳になった憂炎は、仕立ての良い布に見事な龍の意匠をほどこされた袍を着ていた。

 十年前に交流が始まってから、朱里は今でも皇帝になった憂炎の友人だ。人目がない時は呼び捨てすることも許されている。憂炎は政務で忙しい中でも、時折朱里と会う時間を設けてくれて、庭園の四季の花を送ってくれた。──そのたびに父と義兄が渋い顔をするのだが。


「それにお兄様……ですか?」


 朱里が視線を向けると、固まっていた義兄の緊張が解ける。

 義兄は驚くほどの美丈夫だと周囲から常々褒めそやされていたが、手で触れて形はおぼろげに知っていても目で見たのは初めてだ。


「ああ、そうだ。朱里、本当に目が……?」


 そう言って憂炎が朱里の両頬を掌で包んだ。


「それは本当か?」


 と憂炎は朱里の頬に手で触れて、眼を凝視してくる。朱里はコクコクと何度もうなずいた。


「陛下、朱里にむやみに触るのは止めてください」


 義兄が殺気だった声で言うと、憂炎は名残惜しげに手を離した。二人は同い年で馬が合うらしく、皇帝と侍医頭という立場の違いはあれど、友人として接している。

 朱里が周囲を見回すと、住み慣れた自分の室が目に入る。物の場所やその形は知っていても、その色は知らなかった。

 視界に広がる鮮やかな色彩と模様が眩しくて、また目から雫がこぼれる。


「これまでは目を開けても光しか感じませんでしたが……世界はこんな色をしていたのですね……」


「朱里……」


 憂炎の気遣いような声に、朱里は彼の方に顔を向ける。


「……憂炎もこんなお顔だったのですね」


 朱里がそう言って微笑むと、憂炎は「うっ」と赤面して口ごもった。

 朱里は首を傾げる。


「憂炎? お顔の色が変わっています。これは何色ですか?」


 赤も青もまだ判別できない朱里は、彼の顔色の変化を心配して近付く。だが、ため息を吐かれた義兄に制されてしまった。


「朱里は気にしなくて良い」


「……そうですか?」


 少々残念だったが、朱里は引いた。年長者の言うことは守るよう父に教えられている。

 朱里は皇帝がここにいることを不思議に思い尋ねた。


「ところで、憂炎。どうしてこちらへ?」


 外の鳥の鳴き声から察するに、まだ早朝のようだ。


「昨日、日照り続きだったから雨乞いのために天壇てんだんに行っていたんだ。天祐は随行していたが、文家に帰宅するというのでついてきた」


 天壇とは、雨乞いや豊作を願うために建てられた建造物だ。

 遠征中に臣下の邸に立ち寄る皇帝というのは珍しくないが、ここは帝都で皇城も近い。わざわざ足を運ぶ意味はなさそうに思えた。

 朱里が戸惑っていると、義兄が補足してくれる。


「今朝がた帰ってきたら、玄関口でお前の侍女が私に声をかけてきたんだ。朱里が寝苦しそうにしていると聞いて心配になってな。そうしたら、その場にいた主上がついてくると言って聞かなくて」


 半眼になっている天祐に、憂炎は肩をすくめる。


「朱里が心配だったんだ」


「まあ……そうだったんですね。ご心配おかけしてすみません。確かにお腹が痛かったのですが、もうすっかり良くなりました。ありがとうございます」


 朱里はぺこりと頭を下げる。

 憂炎は「ふむ」と眉根を寄せて、朱里に向かって言う。


「それにしても、突然目が見えるようになるとは不思議なこともあるものだ。それで、どの辺りまで見える? へやの隅まで見えるか?」


「ええ、はっきりと見えます」


 朱里が答えると、憂炎は「ううむ」と唸る。


「そうか……めでたいことだが、どうして突然目が見えるようになったのか分からないな」


 朱里は先程の夢を思い出した。細かいところはあまり覚えていないが、道士から蠱毒を盛られたと言われた気がする。


「関係あるか分かりませんが……そういえば、妙な夢を見ました。道士らしき男性が私に蠱毒を飲ませたとか。それで私の中にあった祖先の神仙の血が目覚めたと変なことを言っていましたね」


 あまりに荒唐無稽すぎて、朱里自身も変な夢を見たなあという感想しか持っていない。

 幼い子供のように夢の話をしたのは笑い飛ばして欲しかったからだったが──。

 しかし義兄は真面目な表情を崩さなかった。


「なるほどな」


(あ……しまった。お義兄様は真に受けてしまっていますね)


 義兄は幼少の頃に親戚筋から文家に養子に入った。幼い時から聡明だったが十五歳の時に最年少で科挙に合格するほどの天才で、二年前から皇城の侍医院で侍医頭をしている才人だ。しかし、いかんせん堅物で冗談が通じないのである。


「ただの夢ですよ、お義兄様」


「いや、そうとも言えない。夢はうつつに通じる。……それに昔、父上から聞いたことがあるのだ。我が祖先は神仙なのだと」


「それは酒の席で言った酔っ払いの戯言たわごとですよ」


 そのくらいの冗談ならば、どこの家庭でも言っているはずだ。隣のおじさんも『我が祖先は龍の生まれ変わりである』と言っていた。

 天祐は言う。


「だが真実なら? それなら朱里の目が治ったことも説明がつくし、仮に蟲毒を盛られていたとしても無毒化できたことも納得できる」


「確かにそうですが……」


 ずっと黙っていた憂炎が低い声を出す。


「……今の話は本当か? 朱里が誰かに毒を盛られたと……」


 不穏な雰囲気になった憂炎に、朱里は視線を泳がせる。


「えっと……」


(確か、あの道士さんは蘭玲が作った肉野菜炒めに蠱毒が入っていたと言っていましたね……)


 しかし憂炎の剣呑な様子を見ると、そのまま本当のことを話してしまえば激怒してしまいそうだ。ただでさえ既に怒っている状態だというのに。

 天祐も渋い表情になる。


「お前が口にしたということは邸の料理人のしわざか? 誰がやったのか、しっかり調べ上げて罰を与えてやろう」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 朱里は慌てた。


(私のために怒ってくださっているのは分かりますが……)


 違う人物に容疑を向けさせるわけにはいかない。


「何だ、お前は誰が蟲毒を与えたのか知っているのか?」


 そう憂炎から詰め寄られ、朱里は視線を泳がせる。


(きっと蘭玲だって私の目が見えるようになると知っていたから蠱毒を与えてくれたのでしょう。嘘を吐くのも気が引けますし……正直に言うしかないでしょうか……)


「えっと……蘭玲がくれたんです。あ! でも誤解しないでください! 蘭玲は私に毒を盛ろうとした訳じゃなくて、私の目を見えるようにするためにしてくれたんです。おそらく蠱毒の効果を知っていたんですよ。ほら、毒と薬は紙一重だとお義兄様もよくおっしゃっているじゃないですか」


「蘭玲が? わざと薬の効果を知っていて? ううむ……それは信じがたいな。蠱毒は猛毒だ。普通の人間が食べれば即座に死ぬ。お前は蘭玲を信用しすぎだ」


 天祐は渋面で続ける。


「蘭玲がお前の足を引っ掛けたり、衣装を墨で汚したりと陰湿なことをしているのは知っているんだ。今回のことだって悪意がなかったとは言い切れない」


 天祐の言葉に、朱里は困り顔になる。


「蘭玲もわざとではなかったと思います。私が転んだのはそそっかしいからですし、蘭玲が私の襦裙じゅくんを墨で汚したのは古い仕立てだったから新しいものをお父様に買っていただくためでしょう。私の襦裙のほつれた袖が見苦しいと何度も指摘してくれていましたから」


 古いけれど気に入っていた衣装が着られなくなったので、父親が流行りの花模様の生地で衣装を注文してくれたのだ。


(そういえば、何故かそれも蘭玲は気に入らない様子でしたね……模様が好みではなかったのでしょうか)


「いや明らかに妹を良いふうに見すぎだろう。以前から朱里への態度が気に食わなかったが、もう我慢の限界だ。蘭玲を罰してやろう」


 憂炎は殺気だった目でそう言った。

 義兄と憂炎は昔から蘭玲に対して冷たい。朱里はどうしてなのだろう、と首をひねってしまうのだが。

 朱里は困った笑顔で二人に向かって言う。


「蘭玲は優しい子なんです。幼い頃は『おねぇさま、おねぇさま』と常に私の後ろを付いてまわる甘えんぼうな子でした。最近は話しかけても避けられてしまうことも多いですが……おそらく多感な年頃だからでしょう。根は良い子なんですよ。どうか信じてあげてください」


 朱里がそう言って憂炎の手を握ると、彼は「うぐっ……」と言葉に詰まった様子で、そっぽを向く。


「お前がそこまで言うなら仕方ない……今回のことは蘭玲に追及しない。だが、天祐。今後はしっかり蘭玲を監視するんだ。もしこれ以上、朱里を傷つけるなら俺も容赦しない」


 憂炎に鋭い目で睨まれ、義兄は青くなって首肯する。


「勿論です。私としても許せることではありませんから」


(憂炎も、お義兄様も、どうしてそんな言い方を……)


 朱里がなおも蘭玲をかばおうと口を開きかけた時──。

 扉が叩かれて、侍女の明明メイメイが入ってきた。明明は今年で二十歳になる女性で、十歳の時から朱里に仕えてくれている腹心だった。

 明明は朱里を見て安堵したように破顔した。その手には朱里の額を冷やすためか水盆がある。


「朱里様……! お元気になられたようで良かった! 天祐様、ありがとうございます!」


「明明、心配をおかけしてすみませんでした」


 義兄を玄関まで呼びに行ってくれたのは明明だったのだろう。それを察して朱里の胸があたたかくなる。

 明明は顔を歪めて近付いてくる。


「蘭玲様が朱里様と一緒に過ごしたいから邪魔するなと命令されて、昨夜は近づけなかったんです! 蘭玲様から何か意地悪なことされませんでしたか? 私、心配で……明け方になって様子を見に伺ったら、朱里様が苦しそうにしていらっしゃっるから、どうしようかと……」


 朱里は苦笑する。


「明明、心配してくださるのは嬉しいですが、蘭玲に意地悪なことをされるわけがないじゃないですか。それどころか妹は私の恩人と言っても良いくらいなんですよ」


「お、恩人……? え? 誰のことです? まさか蘭玲様がですか?」


 困惑している明明に向かって、朱里は首肯する。


「そう。蘭玲のおかげで……私、目が見えるようになったんです!」


 そうのほほんと告げた朱里を見て、明明が「えええええぇ!?」と邸に響き渡るような声を上げた。

 憂炎が顔をしかめて耳を押さえている。


「やかましいぞ、明明」


「も、申し訳ありません! 驚いてしまって……朱里様、本当なんですか!?」


 明明は仰天しつつ朱里の顔を凝視している。朱里は嬉しそうに、うなずいた。

 先程の声を聞き留めてか、廊下からゾロゾロと邸の使用人達が駆け込んでくる。


「朝から大声を出して何事です?」


 義母が入ってきて朱里を咎めるように睨みつけている。


「あっ、お義母様。おはようございます」


「先程の声は明明? いったいどうしたというの? まあ、陛下までいらっしゃって……! 何の用意もせずすみません。皆、早く客間と食事の用意を!」


「いや、構うな。すぐに出て行く」


 憂炎は軽くそう言ったが、義母が必死に引き留める。


「とんでもない。せっかくお越しいただいたのですから、すぐに主人を起こして──」


 場がわちゃわちゃして収集がつかなくなってきた頃、蘭玲が大泣きでもしているように顔を覆ってしゃくりあげながら室に入ってきた。


(あら? 蘭玲、いつもならまだ寝ている時間ですのに……)


 目を丸くしている朱里に、蘭玲はすがりついてくる。


「お義姉様〜!! 私がおそばを離れたばかりに、こんな冷たいお姿に……って、えっ?」


 しかし朱里の様子を目にした途端、蘭玲は頬を引きつらせた。


「ど、どうして!? 昨夜はあんなに苦しんでいたのに……」


 朱里はにっこりと微笑む。


「ええ、確かにこれまで経験したことがないような腹痛でしたけれど、すっかり良くなりました。蘭玲のお薬のおかげです。本当にありがとうございます! 私、目が見えるようになったんですよ!」


 蘭玲は呆然としている。

 それから父親もやってきて、朱里の目が見えるようになったと知って大喜びした。


「今夜はうたげだ! 準備しろ!」


 父親の掛け声で、使用人が厨房に向かい邸が慌ただしくなる。明明が朱里に着替えをうながすと、気を遣って皆は立ち去った。

 へやから人の姿がなくなると朱里は言う。


「明明、色の名前を教えてください。他にも……文字も覚えたいです」


 これまで目が見えなくて諦めてきたことを、全てやってみたかった。

 明明は瞳を潤ませて何度もうなずく。


「ええ、朱里様の目が見えるようになったなら、もう細かいことは何だって良いです。これほどの吉事はありません」

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