第二話 蠱毒

 かくて時は過ぎ、十年後──。

 瓊花国けいかこくの帝都の大通りに、朱里の住む邸はあった。

 通りでも一際大きな文家は、中庭を挟んで四方に建物がある。朱里が過ごすへやは西棟にあった。

 いつもなら静かなこの場所だったが、この晩は違った。

 異母妹の蘭玲ランレイが、卓に湯気の立つ肉野菜炒めをドンッと置いた。


「さあ、お義姉様のために毒を……じゃなくて、とても美味しい夕食を持ってきてあげたわよ。わざわざ愚鈍なお義姉様のために私が作ってあげたんだから、一口も残さず食べなさいよね」


 そう偉そうに言ったが、朱里は嬉しそうに微笑む。


「まぁ、ありがとう。蘭玲は優しいですね。いつもは侍女が運んでくれるのに、今日はわざわざ蘭玲が持ってきてくれたんですか?」


 蘭玲は胸を張った。


「もちろん。目が見えなくてお可哀想なお義姉様のためだもの。そのくらいのことはするわ。この食事には特別なものが入っているのよ」


「特別なものですか? いったい何でしょう? この間みたいに、うっかりニラと水仙を間違えてはいけませんよ。水仙には毒があるのですからね」


 水仙は毎年食べて亡くなる人がいるくらい強い毒だ。


(本当に蘭玲はおっちょこちょいなのですよね。義姉の私がしっかり危険なことは教えてあげなくては)


 のほほんと言う朱里に、蘭玲は歯ぎしりする。

 もちろん蘭玲は義姉を殺すために、わざと朱里に水仙を盛ったのだ。だが毒に詳しい朱里に匂いで見破られてしまった。


「そ、そんな間違いをまた犯す訳がないでしょう! ニラと水仙は見た目がそっくりだから失敗してしまっただけよ。今度は大丈夫だから。ほら、お義姉様が好きそうな良い匂いでしょう?」


 蘭玲はぎこちなくそう言って誤魔化した。

 朱里はまったく気にする様子もなく、その肉野菜炒めに鼻を近付ける。


「へえ……嗅いだことのない香りですね。ちょっと刺激的で……とても美味しそうです」


 朱里はわずかに首を傾げる。香辛料に詳しい朱里でも知らない匂いだった。


「辛いものや苦いものが大好きなゲテモノ嗜好しこうのお義姉様にぴったりのご飯でしょう。後で種明かししてあげるわ。さあ、食べてみて。残しちゃ嫌よ?」


 そう言って蘭玲は朱里の手にさじを握らせる。

 朱里は目が見えなくとも邸のどこに何があるのかは把握していた。だから蘭玲に介助してもらわなくても匙くらい持てるのだが、いつもと違う妹の様子に朱里は戸惑う。


「残すわけありませんよ。蘭玲が私のために作ってくれたものなのですから」


「とやかく言ってないで早く食べて!」


「あっ、ごめんなさい……」


(何か怒らせてしまったのでしょうか……)


 朱里は少ししょんぼりする。時々二歳年下の義妹がどうして怒っているのか分からない時がある。


「ありがとう、蘭玲。いただきます」


 そう言って朱里は肉野菜炒めが載った匙を口元に運ぶ。


(……美味しくて辛みもありますね。ピリリとして舌が麻痺してくるような……頭もぼうっとしてきます。ああ、でも何だか癖になりそうなお味……あれ? これ、とても美味しいです!!)


 元々激辛料理や苦い料理が好きな朱里はその肉野菜炒めをゆっくりと堪能していた。

 しかし途中から痺れを切らした蘭玲に怒られてしまう。


「全部食べて。もっと早く!」


 そう言って蘭玲がせっつくので、朱里は慌てて匙を口に運び続けた。


「食べました、蘭玲。そんなに慌てなくてもちゃんといただきますよ」


「あ~あ、馬鹿なお義姉様。食べちゃったのね……」


 全て食べ終えた朱里を見て、蘭玲はおかしくて堪えきれないと言った様子で笑っている。


「あははははっ! 食べちゃったんだぁ? ざまぁみろ」


「蘭玲?」


 そう口にした途端、激しい目眩が襲いかかって朱里はその場に崩れ落ちた。先ほどとは比べ物にならない気持ち悪さ。胃が不快感を訴え、吐き気をもよおす。頭が揺れているような感覚が強くなっていく。

 蘭玲が何か言っているけれど、上手く聞き取れない。


(ど、どうしたんでしょうか。私の体は……)


 朱里は病弱で、熱もよく出していた。ささいな変化で体調を崩すこともざらだ。しかし、これはいつもの症状とは違うように思える。

 そして間もなく朱里は意識を失った。




 激しい腹部の痛みに耐えかねて、朱里は目を覚ました。ぎゅうと引き絞られる痛みに腹部を押さえる。


(どれくらい経ったのでしょうか……)


 目を開けても盲目の視界には何も見えないが、昼か夜かの明暗は判別できる。おそらく今は夜なのだろう。

 あまりに苦しくて脂汗が身体中に浮き出ている。呼吸が苦しく、ぜいぜいと肩で息をしていた。

 寝台に横たわっていた朱里は近くに明かりを感じる。おそらく行燈あんどんだろう。ゆらゆらと蝋燭の明かりが揺れている。


(お兄様は……?)


 優秀な医者である義兄はいつも朱里が体調を崩した時は飛んできてくれる。だが今日は姿はそばにないようだ。侍女の姿もなかった。その代わり枕元に誰かの気配を感じる。


(……これは蘭玲?)


 朱里は五感が優れており、見知った相手ならば誰の気配なのか分かった。


「蘭玲……そこにいるのですか?」


 先ほどから蘭玲が何か言っているようだったが、耳鳴りがして音がよく聞き取れない。耳をすますが、激しい腹痛で朱里は意識を保つので精一杯だった。


「……どうして私がお義姉様にこんなことをしたのか分かるかしら?」


 姉を毒殺しようとしていた蘭玲は、巷で流行っている推理小説の犯人のように懇切丁寧に自分の動機を懇々と語る。もっとも朱里には聞こえていないのだが。


「お父様もお母様もお義兄様も、愚図なお義姉様ばかり気にかけて鬱陶しいの。早く死んで。お義姉様さえいなくなれば万事上手くいくわ。そうしたら憂炎様だって、きっと私を見てくださる……」


 蘭玲は急に朱里の耳元まで近づいてきて、ニタリと笑う。


「だからね、大好きなお義姉様のために夕餉にお薬を混ぜたの。これでお義姉様はこれまでのように生きていけないわ。私が看病すると皆に伝えてあるから誰もこない。あははっ! 苦しいでしょう? でも大丈夫。もうすぐ全ての苦しみから解放されるからね」


(ああ、ようやく聞こえました……どうやら蘭玲は病弱な私のためにお薬を用意してくれて食事に混ぜたということでしょうか? それならそうと言ってくれたら良かったのに……)


 それが妹の言っていた『特別なもの』だったのか、と朱里は納得した。


(けれど、この体調の悪さはいったいどういうことでしょう? もしかして好転反応というものでしょうか……?)


 朱里は薬には好転反応が起こることがあると知っていた。

 つまり薬の飲み始めなどに悪い症状が一時的に出てしまうが、それからはどんどん体調が改善していくのだ。


(……蘭玲が私のために薬を用意してくれたのですから、この程度の痛みに負けてはいけませんね)


 体も起こせないほど胃が痛かったが、朱里は妹の気持ちを無下にしないと心に誓い、その直後に再び意識を失った。




 朱里は夢の中で暗闇に浮かんでいた。いつもなら目に見えない自身の体がハッキリと見える。


「これは私の手……でしょうか? 初めて見ますが……」


 困惑しながら己の体を見おろす。実際に目で見たのは初めてだが、何度も触れたこともあるのでそれが己の体であることが分かった。触れると感覚もある。色だけは想像と違っていたので不思議な感じがしたが。

 闇の中でもはっきりと見えるのは、体が内側から発光しているからだ。


「私はいったい……? これは夢でしょうか? どう考えても夢ですよね? さすがに皆さんが空を飛んでいるという話は聞いたことがありませんし……」


 先程まで寝台に横になっていたはずだ。この状態は非現実すぎる。


「あら……?」


 自分の下半身に黒い蛇のようなもやが何匹も巻き付いていることに気付いた。


「何でしょう、これ?」


 ウニョウニョと体を登ってこようとしていたので、朱里は気持ち悪くなって手で払ってしまう。

 すると一瞬のうち靄は消えてしまい、苦しかった腹部の痛みが急に引いた。


「あら……?」


『俺の蟲毒こどくが効かないだと……!? 貴様、何者だ!』


 そう怒鳴られて、朱里はどこから声がしたのだろうと周囲を見回す。

 突如、暗闇から一人の黒服の道士が現れた。顔を布で覆い隠しているので容姿は分からなかったが、聞き覚えのある男の声だった。


「あなたは……?」


『お前、何をしたんだ!? 俺の蠱毒を打ち消したな!』


 蠱毒とは強い虫達を壺の中で食い合わせ、最後に生き残った虫を使って作り上げる史上最悪の毒であり呪いのことだ。道士達が使うと言われている。

 朱里は首を傾げる。


「蠱毒? 何のことです?」


『さっき俺の虫を払っただろう! 普通の人間にそんなことできるはずがない!』


 こちらに指を差されたが、朱里は困惑した。


「えっと……先程の蛇のようなもののことでしょうか?」


 昔、義兄に蛇の剥製を触らせてもらったことがあるので蛇と称したが、目が見えない朱里には何と形容して良いか分からない。しかし道士は否定しなかったので、あながち外れでもないのだろう。


「手で払ったら消えてしまいました。良くなかったのでしょうか。すみません……」


 朱里が眉を下げて謝ると、道士は愕然とした声で呟く。


『手で払っただけで……? 嘘に決まってる! 俺は老師から後継者と目されているんだぞ! 俺が丹精込めた蠱毒を消し去ってしまうなんて、そんなことができる奴はこれまで師以外に会ったことがない!』


「え、えっと……そんなことおっしゃられましても何のことだか……」


 朱里は困惑した。名のある道士だろうと疑いを持たれても、朱里は道教を信仰していないし、もちろん修行だってしたことはないのだ。

 男は激高して怒鳴り散らす。


『とぼけるな! それに本来ならば蠱毒を口にしたらすぐに死んでしまうはずだ! さてはお前、名のある道士だな!?』


(え……蠱毒を口にした? 私が?)


 そんなことを言われても朱里は食べた記憶などなかった。

 こめかみに触れながら思い出す。


「寝る前に口にしたのは蘭玲が作ってくれた肉野菜炒めくらいですが……」


『そう! それに入れられていたんだ! それで即死するはずだったのに何故……!?』


「そ、そんなこと言われましても……というか、あれに毒が入っていたのですか?」


 訳が分からない状況に、朱里は困り果てる。


(何だか変な夢ですねぇ……)


 道士は黙り込んだが、すぐにハッとしたように顔を向ける。


『お、お、お前……その光はなんだ!?』


「え?」


 道士に指摘されて見ると、前よりも体が内側から光っていた。眩しいくらいだ。


『その光……まさか神仙の血を引いているのか?』


「え?」


 きょとんとしている朱里に、男はものすごい勢いでまくしたてる。


『老師から聞いたことがある。普段は人間と変わりないが、何かをきっかけに祖先である神仙の血が目覚めてしまう者がいると……その神々しい癒やしの力がその証だ!』


「えっ、えっ?」


(訳が分かりません。何です、この展開は……?)


『俺の作った特別な蠱毒が、お前の秘めた力を目覚めさせるきっかけになったのか……なんてことだ! おのれ!! こうなれば!!』


 激高した道士が殴りかかってこようとしたので朱里は慌てた。


「ちょっ! ちょっと落ち着いてください〜ッ!!」


 朱里がそう叫んだ瞬間、辺りに光が満ちた。

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