皇帝陛下の毒見役 暴食の妃は後宮の毒グルメを堪能します
高八木レイナ
第一話 皇太子との出会い
その雅な音は戸が開かれた外まで響き、庭園にいた宮女達がうっとりとした表情で耳を澄ませている。
七本の弦を器用に指で弾くのは八歳ほどの少女だ。しかし、その目の焦点は合っておらず、視界はまったく見えていない。
曲が終わると、皇子以外の室内にいた人々が一斉に拍手を送った。
皇帝は破顔して言う。
「見事であった。
「お褒めに預かり恐縮です」
八歳にしては大人びた態度で、朱里は頭を垂れた。文泰然は朱里の父で、皇帝に仕える高位官吏だ。
その皇子宮でもっとも不機嫌そうな顔をしていたのは、十歳になった皇太子である
皇帝は気遣うように憂炎に声をかけた。
「憂炎、どうだ。朱里の七弦琴は。天女のように美しかっただろう」
「知りません。もう終わりですよね? それでは俺はこれで」
憂炎は年に似合わないしわがれた声で、ふらつきながら立ち上がる。そして不愛想に室を出て行こうとした。
「皇帝の前だというのに……」
顔をしかめてヒソヒソと漏らす宦官達を皇帝は手をあげて諫める。
「良い。おそらく虫の居どころが悪かったのだろう。朱里、気を悪くしないでくれ」
「いえ……お気になさらず。こちらこそお役に立てずに、申し訳ありません」
朱里はのんびりとした口調で言うと平伏した。
最近皇太子である憂炎の体調が悪いため、七弦琴の名手である朱里が慰めてほしい、と皇帝から頼まれて今日はやってきたのだ。しかし憂炎は気に入らなかったらしい。朱里は内心しゅんとする。
「勝手なことをッ! 俺がいつ奏者を呼んでくれと頼んだ!」
声が聞こえていたのか、憂炎は歩みを止めて壁を殴りつけた。その乱暴な振る舞いに室内にいた人々はビクリと肩を震わせる。
朱里はゆっくりと小首を傾げた。
(憂炎様が乱暴者だという噂は本当だったのですね)
かつては勤勉で素直だったと聞くが、一年前ほどから癇癪を起こすようになったと聞いている。顔も土気色で、長い風邪のせいか喉も枯れていた。まるで別人のように気分屋になっているそうだが、『そういう年頃だからかな』と朱里の父親などは首を傾げていた。
「憂炎、客人の前だぞ」
皇帝が顔を強張らせた、その瞬間──。
憂炎がその場に崩れ落ちた。
「憂炎!」
「憂炎様!?」
「早く侍医を呼べ!」
辺りは騒然となり、瞬く間に憂炎は人々に囲まれた。すぐに駆けつけた侍医が憂炎の様子を見ていた。
朱里は父親の手を借りて皇帝のそばに寄る。すぐに朱里に気付いた皇帝は申し訳なさそうに眉根をよせた。
「朱里、せっかく来てもらったのに悪いが今日はもうお開きにしてくれ」
「ええ。私は構いません。今はそのような状況ではありませんから……」
朱里はそう言いながら、周囲の人々の声に耳を澄ませる。そして父親に尋ねた。
「お父様、いま憂炎様はどのような状況ですか?」
「あ、ああ。今は侍医が薬を飲ませようとしているところだ。銀色の爪ほどの大きさの」
困惑気味の父親がそう答えて、朱里は身を強張らせた。
「銀色の……? それは……まさか」
朱里の顔色がみるみるうちに青ざめていき、心配した父親が「朱里?」と声をかける。
それにも構わず、朱里は憂炎がいる方角に向かって叫んだ。
「それは毒です! 飲ませないで!!」
周囲が凍り付いた。
「ど、毒? 朱里、それは本当か?」
当惑気味に問いかける父親に、朱里は力強くうなずく。
「失礼ながら、私の知る水銀中毒の症状に似ていましたので……癇癪を起こし、顔色も悪く、不眠症、震え、歩行障害、声がしわがれるなど……憂炎様の症状は当てはまっております。先ほどまでは疑惑だけでしたが、銀色の薬を飲ませていると聞いて確信しました」
「なっ、何なんだ、お前は! 侍医でもないくせに!」
そう泡を吹きそうなほどの勢いで叫んだのは、憂炎に銀色の薬を飲ませようとしていた侍医だ。
朱里はおっとりとした口調で言う。
「そのお薬を調べさせてください。おそらく憂炎様の不調はその薬が原因です」
「何を言う! これは仙薬だ。昔から時の権力者に愛飲されてきた由緒正しい薬なんだぞ! 素人の小娘が何を馬鹿なことを──!」
苛立ったように怒鳴りつけてくる侍医に向かって朱里は言う。
「仙薬といっても本当に仙人が作ったものではないでしょう」
神仙の存在は伝説で、民間に出回る仙薬は眉唾物だ。
皇帝が静かな声で聞く。
「朱里、それが毒だという根拠は?」
「……水銀は加熱すると黒い塊になりますが、燃やし続けるとまた銀の粒に戻ります。その姿は不死鳥のようで、ゆえに長らく権力者に愛用されてきました。摂取すれば己もそうなれると思うのでしょう。残念ながら誤りで、むしろそれが原因で亡くなってしまうことが多いのですが……」
朱里の言葉に、皇帝は目を剥いた。侍医は血の気の失せた顔で震えている。
「な、なぜお前はそんなことを知っているんだ!? ただの子供のくせに……」
朱里はコテンと首を傾げる。
「私は目が見えないので、外遊びなどもできません。ゆえにお父様が邸に古今東西のたくさんの書物を集めてくださって、それを義兄や侍女に読んでもらうことが私の楽しみだったのです。私が先ほどお話した水銀の話も、遠い異国の医学書に書かれていたものです。この国では流通していない希少な書なので、侍医の方もご存じなかったのでしょう」
朱里の言葉に、皇帝は感心したように息を吐く。
「なるほど、そういうことか。私も時折、その銀の薬を服用していたが……私の不調の原因もそれだったのだな。……そこの侍医を捕えよ!」
皇帝の命令によって侍医は拘束されて、連れて行かれた。
(あらまぁ……)
朱里はのんびりとその様子を耳で聞いていたが、周囲がざわついていることに気付く。
皇帝が朱里に向かって言う。
「それにしても驚いたぞ。国内にこんなに知識にあふれた才女がいたとはな」
「恐れ多いお言葉でございます」
「私はてっきり、憂炎の不調は室や上書房にこもりがちなせいだろうと思っていた。気分屋の軟弱者だと思っていたくらいだ。自分の思い間違いが恥ずかしい」
上書房とは皇帝や皇子が政務を行う場所のことだ。
「そんなにご自身をお責めにならないでください」
朱里がそういうと、皇帝は何かを堪えるように眉根を寄せる。
「朱里、どうか憂炎を看病してやってくれ」
そう皇帝に乞われて、朱里は快く首肯して父親に導いてもらう。
床に横になった憂炎の額を撫でて、朱里は微笑んだ。
「大丈夫。まだ間に合います。すぐ良くなりますよ。怪しいものは摂取するのを止めて、全ての食事を誰かに毒見させてください。皮膚毒にもご用心を。……安静に養生していれば、いずれ体調は見違えるように回復し、症状も収まるでしょう。私もおそばに付いています」
「お前……」
憂炎は額に脂汗を浮かべながら苦しげにそうこぼし、間もなく意識を失った。
その後、半年ほどかけて憂炎は普通に歩けるまでに回復していった。最初の一か月は後遺症に悩み、なかなか寝付けず膝も痛かったが、朱里がよく眠れるお茶を持ってくると憂炎の痛みも和らいだ。
そして一年ほど経った頃にはすっかり健康になり、皇子宮の庭で体を鍛える別人のような憂炎の姿があった。
「憂炎の体調が良くなって、本当に良かったです」
のほほんと朱里は言いながら、東屋の長椅子に腰掛けて七弦琴を掻き鳴らす。
憂炎は微笑んだ後、苛立ったように剣を振るう。
「まったくだ! あの時は毎晩寝る前に飲めと、侍医から毒を渡されていたんだ。思い出すだけで腹立たしい。まさか俺が毒を飲まされていたなんてな……!」
朱里は気持ちが落ち着く曲を奏でる。それに気付いたのか憂炎は険しかった
「あの侍医は処刑したが、結局、独断での犯行だと言い張って誰に命じられてしたことか口を割らなかった。忌々しい」
誰かが己の命を狙っていると知れば落ち着かない気持ちになるのも当然だろう。しかし憂炎は逆境に負けまいと、人一倍努力して政務を学び、体も鍛えている。
(この国では皇子で成人まで生きていられる方は少なかったですからね……)
だからこそ長寿の願いを込めて皇帝や皇子は水銀を飲んでいたのだろう。それが逆効果だったのだが。
元々庶民で水銀を摂取していない者であっても、子供は死にやすい。十人生まれても五人は亡くなる。それが一般的な社会で、皇子の早逝も珍しいものではないと受け止められてきたのだろう。侍医が異常なしと言えば、それまでなのだ。
朱里は励ますように言う。
「大丈夫。これからは私がついていますからね」
朱里はそう言って、ふわりと花のように笑う。
それを見た憂炎は顔を赤らめて「うっ……」と呻いた。誤魔化すように早口で言った。
「お前、年の割に老成しすぎだろう」
朱里は「はて……」と首を傾げる。
「そんなに年寄りじみていますかね? やはり目が見えないもので、同世代の友人達と交流することが少なかったのです。危ないからと外遊びもろくにさせてもらえませんでしたし……知識ばかりの頭でっかちになってしまいました」
「そ、そうか……でも俺はそんなお前が……」
モゴモゴと赤い顔で憂炎が小声で何か言いかけたが、待っても続きがない。朱里は首を傾げてから、七弦琴を持って立ち上がる。
「長居してしまいました。鍛錬の邪魔になってしまいますので、私はこれで失礼いたしますね」
そう言って立ち去ろうとした朱里を憂炎は押し留める。
「ま、待ってくれ……っ! その……」
憂炎は紅潮した顔で、咳ばらいをする。
「また来てくれ。俺も忙しいが時間を見つけて会いに行く。……俺にはまだ力はないが、いつか必ず皇帝になる。だから、その時は……」
その時、突風が吹いて憂炎の声が掻き消える。
朱里は長い黒髪を手で押さえながら尋ねた。
「わっ! すごい風でしたね。あっ、すみません。先ほどの言葉がよく聞こえませんでした」
「いや……」
頭を振って憂炎は苦笑する。
「必ず、いつか伝えるから。今は良い」
そして十年後、二人は稀代の皇帝とその毒見役として名を馳せることになるのだが、この時はまだ知らない。
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