十九話
吉勝が宥めた後で鈴子はやっと髢(かもじ)が外されているのに気づいた。
「ど、どうしましょう。髢が!」
鈴子が驚いて声をあげる。吉勝は床に落ちていた髢を拾って紐で再び、括りつけてやった。器用に髪紐を結ぶとにっと笑う。
「鈴子。大丈夫だ」
「よ、吉勝殿?」
「君の髪の事は誰にも言わない。その代わり、俺が毎日こちらに来る。君を呪いから守るから」
鈴子は本当にとでも言うように吉勝を見上げた。安心させるために頷いた。
内心は呪った男に怒り奮闘していたが。それでも鈴子を怖がらせてはいけない。
「鈴子。髪が伸びるまでは桜梅の宮様の元へも行かない方がいい。軟禁状態にさせてしまうけど。堪えてくれるね?」
「わかりました。この二条で大人しくしておきます」
鈴子が頷くと吉勝は頭を撫でてから立ち上がる。ではと言って部屋を出たのだった。
あれから、鈴子の元に吉勝は足繁く通って来るようになった。手土産を持参したりたわいもない話をしたりして夕暮れ刻になったら帰る。そんな穏やかな時間が流れていた。
鈴子は吉勝の気遣いや優しさに触れながらも胸がチクチクと痛んだ。何故、こんな自分に何も言わずに優しくしてくれるのだろうかと。
父の右大臣や兄も心配して様子を一日に一度は見に来てくれていた。周防も以前よりも過保護になった。
今日も吉勝は珍しい唐菓子を持って来てくれた。小麦の粉を水で捏ねて油で揚げたものや輪っかの状態で揚げたものなどがある。どれも香ばしくて美味しい。鈴子は周防とおしゃべりをしながらそれを食べていた。
「美味しいですね。吉勝様もなかなかのものをくださいました」
「本当ね。さくっとしていたりしっとりとしていたり。違いはあっても美味しいわ」
周防もそうですねと頷く。鈴子はこれで五個めの唐菓子だ。じっくりと味わいながらであったがそれでも食べ過ぎになっていた。
「…姫様。そろそろ、唐菓子はここまでにしておきましょう。夕餉が食べられなくなります」
「そうね。周防の言う通りだわ」
「ええ。では残ったものはいかがしましょう?」
「ううんと。じゃあ、他の女房達に分けてはどうかしら。皆も喜ぶと思うのだけど」
「そうですね。でしたら他の者達にも分けてきます。夕餉まではお待ちくださいね」
わかったと言うと周防は唐菓子を持って退出した。鈴子はくすりと笑って御簾の中に入ったのだった。
鈴子は吉勝と少しずつ親交を深めていった。だが、東宮に他家の姫が入内したと聞いて鈴子の心はざわついた。
何故だろうと首を傾げたくなる。わたくしは東宮様の事を本当は好きだったのだろうか。
もやもやとした気持ちでいてしまう。だが、吉勝に言うわけにもいかない。こういう時に母がいてくれればと思った。鈴子の実母はさる中納言家の姫だった。その実母は既にいない。
鈴子が十歳の頃に兄と自分を置いて息を引き取った。享年は三十を少し越したくらいだったか。
その母に相談できればどれほど助かっただろう。だが、贅沢は言っていられなかった。
ならばと周防に相談してみる事にする。周防が自室に控えている時に手招きをした。
「…ちょっと。話したい事があるのだけど」
「はあ。姫様、どうかなさいましたか?」
周防は不思議そうにしている。鈴子は恥を忍んで口を開いた。
「あのね。わたくし、東宮様に大納言家の姫が入内なさったと噂で聞いたの。その事を聞いてからもやもやとした気持ちになってしまって。なんと言うか、こう胸がざわついた感じになってしまうのよ。周防はどうしたらいいかわかる?」
「…東宮様の事を聞いてからもやもやとなってしまわれたと。そうですね、それは困りましたね。たぶんですけど」
「たぶんか。それは何なの?」
次を促すと周防は困ったような表情になった。
「たぶん、姫様は東宮様を好きだったのではないでしょうか。しかも初恋ではないですか。だから、他の方をお迎えになられて焼きもち、嫉妬心を抱いてしまわれたのだと思います。それがもやもやの正体ではないかと」
「…そう。けど、わたくしは吉勝様を選んだのに。浮気をしてしまったわ。なのに嫉妬心を持つだなんて。馬鹿としか言いようがないわね」
「そんなことはありませんよ。吉勝様より東宮様の方が出逢うのは早かったのでしょう。でしたら、好意を持たれてしまうのも仕方ない事です。今は姫様なりに整理をなされたらよろしいですね。時間をかければ、吉勝様の事を好きになれる日もいずれ来ますよ」
そうかしらと言いながら鈴子は首を傾げた。周防も大丈夫ですよと頷いた。
「姫様。吉勝様は信じてよい方だと思います。だからゆっくりと育んでいけばよいかと」
周防は穏やかに笑いながら鈴子を元気付けるために言った。
「そうね。ありがとう、周防」
「いえ。私は自分の思った事を言ったまでです。姫様がお悩みになっていたら相談に乗るのも女房の役目ですから」
周防はまたお悩みになっていたらご相談くださいと言う。鈴子は頼もしいわと思いながらじゃあ、よろしく頼むわねと笑った。その光景を桜花は見ながら吉勝の恋路は険しいなと独りごちた。それには誰も気づかなかったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます