二十話
鈴子が髪を切ってしまってから、早くも三月が経った。
周防や他の女房達が精を出して手入れをしてくれたおかげだろうか。鈴子の髪は背中の真ん中辺りから腰に近い長さまで伸びた。
「姫様。後半年もすれば、腰まで伸びそうですね」
「そうね。一年もすれば、足にまで届くかも」
「ええ。やはり、右大臣様や桜梅の宮様が取り寄せてくださった養毛のお薬が効きました。黄楊(つげ)の櫛と使うと良いと聞きましたわ」
へえと言うと周防は例の養毛の薬を手に垂らして鈴子の髪に塗り込んだ。
それはつんとした匂いがくせ物であったが。黒いどろりとしたそれを頭頂部から毛先まで丁寧に擦り込む。全体に行き渡らせると櫛でよく梳きこむ。
すると何もしていない状態よりも髪が艶々になる。これを贈られたのは三月前の事だ。桜梅の宮が父の右大臣と相談してさる知り合いにこの薬を分けてくれるように頼んでくれたらしい。知り合いは二つ返事で了承してくれたとか。
これは髪の毛の伸びる速度を通常よりも上げるために使うと聞いた。
男性というよりも女性向けの養毛の薬といえるが。
「周防。お化粧も終わったし。昨日みたいに書物を読んでていいかしら」
「ええ。姫様もこんなに閉じこもっていてはご気分も塞ぎがちでしょうし。絵巻物と一緒にお読み致しましょう」
「わかった。じゃあ、伊勢物語を読みたいわ」
「伊勢物語ですね。では絵巻物や物語の書物をお持ちします」
「お願いね」
周防は頷くと鈴子の部屋を出ていく。鈴子も鏡の前から立ち上がり庇の間に向かったのだった。
その後、周防と声の良い女房の小宰相が加わり伊勢物語を読み上げさせて鈴子は絵巻物を楽しんだ。小宰相は美しい声で朗々と物語の文章を読み上げた。
歌がたくさん書かれていて主人公の男の感情が細やかに描かれている。
「それでは絵巻物はこれで終わりにしましょう」
「ええ。それにしても伊勢物語もなかなかに胸に迫る内容ね」
「そうですね。姫様、お好きですものね」
鈴子はそうねと頷いた。小宰相も袖で口元を隠しながら笑う。
「姫様。では絵巻物は他にもございます。ご覧になりますか?」
「じゃあ、宇津保物語が読みたいわね。持ってきてちょうだい」
「わかりました」
周防が立ち上がり宇津保物語の絵巻物などを取りに行く。
周防の姿が見えなくなると小宰相が心配そうに鈴子を見た。
「どうしたの。小宰相」
「…姫様。わたし、吉勝様と結婚なさると聞きました。けど、御髪(みぐし)を切ってしまわれて。ほんに大丈夫なのですか?」
「小宰相。心配してくれるのは嬉しいけど。髪を切ったのは必要に迫られたからであって。出家するためじゃないのよ。そこの所は誤解しないでほしいのだけど」
「そうだったのですか。御髪をお切りになったのはそういう訳だったのですね。ですけど、姫様。婚期を逃してしまいましてよ。わたしはそれが心配なのです」
「ううんと。確かにそれはそうだけど」
小宰相は鈴子の言葉に何を思ったのか突っ伏して泣き始めてしまう。
「こ、小宰相?!」
「…うう。おいたわしや。姫様が御髪を切ってまで想っていた方ですのに。責任も取ってくださらないなんて。冷たい殿方です!」
小宰相はそう言ってさらに泣きじゃくる。鈴子はどうしたらと焦ってしまった。
こういう時、周防がいてくれたらいいのだが。生憎、彼女は部屋にいない。
「小宰相。落ち着いて。お化粧が大変なことになってしまうわ」
「お化粧くらい構いませんわ。ただ、姫様がおいたわしくて…」
ああどうすればと鈴子は混乱してしまう。その時、騒ぎを聞きつけたのか周防が急いで戻ってきた。
「あらあら。姫様、大きな声が聞こえるから参りましたけど。いかがなさいましたか?」
鈴子はちょうどいい時にとほっとして周防に簡単に状況を説明した。
小宰相が自分の髪の事で聞いてきたので訳を言うと泣き出してしまったと言った。すると、周防は呆れたと言わんばかりに小宰相を見た。
「小宰相さん。あなたね、仮にも姫様は仕える主よ。しかも背の君の吉勝様を悪し様に言うだなんて。失礼にも程がありますよ」
「…だけど。姫様がお可哀想だと他の女房達も口を揃えて言っています。わたしは皆を代表して申し上げただけで」
「そこが失礼だというのよ。姫様は婚期を逃した訳ではないわ。東宮様の入内話も出ておられたわけだし。吉勝様は姫様の御髪が伸びるのを辛抱強く待たれているの。冷たい方だなんてとんでもないわ」
小宰相はぴしゃりと言われて黙り込んだ。そのものずばりであるため、言い返せないらしい。鈴子もこの二人がどうなる事やらと見守っていた。
「いいかしら。小宰相さん、今後は姫様の御前で余計な事は言わないほうがいいわね。その方が身のためよ」
「わかったわ。以後は気をつけます。申し訳ありませんでした、姫様」
小宰相は頷くと鈴子に深々と頭を下げた。周防もふうと息をつく。
鈴子は吉勝がいつになったら結婚しようと言ってくれるのかと不安になる。周防も小宰相もそんな主人の表情に心配そうにするのだった。
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