第二話

 桜梅の宮がお目見えしたのはそれから、半刻(はんとき)経った後だった。この時には裳唐衣装束であったのでかなり、疲れぎみになっていた。

 御簾越しではあるが仄かな香の薫りがして懐かしい心地にさせる。桜梅の宮は緩やかに御座(おまし)に落ち着いた。

「…二条の姫君。お久しぶりですね。先ほど、伊勢の君達を退出させたの。二人きりで話をしたかったから」

 ほほと高らかに笑う桜梅の宮の周りにはきらきらとした光と丸っこい形の精霊(すだま)が見えた。他にも透けた人もいるが悪いものではない。人の霊は宮の守護霊であり、お亡くなりになった父君らしい。以前、宮から教えてもらった。

「…それにしても、姫とお会いするのは二年ぶりですね。私が後四十年若ければ、姫とお友達になれたのに。年寄りになるというのは嫌なものですわね」

「そんな、ご謙遜を。宮様は今でもお若いですわ。わたくしのお母様よりもお元気ですもの」

 そう元気づけるように言うと宮はころころと笑う。部屋の中の気が一気に明るくなり、周りの精霊がくるりと踊る。父君らしい男性の守護霊も嬉しそうに笑っていた。

『…姫、斎王であった宮と私に仕えていた陰陽師に祝詞などを習うといいでしょう。宮は稀に見る巫術の使い手。頼りになりましょうぞ』

 父君がそう告げると宮が手に持っていた扇をぱちんと乱暴に閉じた。それだけで父君の姿がゆらゆらと揺れはじめる。

「…父上。今は鈴子姫とお話をしているのです。頼みごとは後にしてくださいませ」

 桜梅の宮がきつく言うと父君は小さくかしこまって、失礼しましたと告げて消えてしまった。鈴子は宮がわずかだが霊力を使って父君の霊を追い払った事に気がついた。

「…宮様。父君様は何も悪さはなさっていません。むしろ、わたくしを励ましてくださったのに。追い払うのはさすがに失礼ではありませんか?」

「姫に私の許可なしで話そうという方が失礼です。女人ならまだしも。父君はあくまで殿方です。うら若き姫君に軽々と話しかけるのは誉められた事ではありません」

 ぴしゃりと撥ね付けられて鈴子は苦笑いした。宮は昔から気が強く、なかなか跳ねっ返りでわがままな所がある。意外と面倒見がよく、優しい一面もあるのだが。

 鈴子はそれがわかっているだけに注意はできなかった。しかも、二代もの御世の間、賀茂の社にてお仕えしていた大斎院と呼ばれた方だ。

 そんな高貴な宮と鈴子とではれっきとした身分差があり、軽々しい物言いができないのもある。しかも、これから、教えを乞う術の師なのだから尚更だ。

「…それよりも姫。今日から、私の邸でしばらくは過ごされるのでしょう?」

「あ、はい」

「でしたら、姫のお部屋を準備させましたから。そちらでまずはおくつろぎくださいな。巫術や陰陽術はそれからでもよろしいでしょう?」

「…わかりました。でしたら、退がらせていただきます」

 鈴子がそう返事をすると桜梅宮はまた、いらしてくださいなと笑いながら言った。




 宮の御前を辞してから、用意された部屋へと向かう。簀子縁には伊勢の君が控えており、鈴子が出てきたのを見てとると静かに立ち上がる。

「…もう、お話は終わったようですね。姫様、ご案内いたします」

 そして、滑るように歩き出した。鈴子はそれに付いていく。しばらく、渡殿を通ったり曲がり角を行ったりしてやっと、部屋にたどり着いた。「こちらでございます」

 今は春なので桜が満開と咲く前栽がある。鈴子はそれに見とれながらも伊勢の君が用意した御座に落ち着いた。

「…では、姫様。もう、お昼ですから。膳をお持ちします」

 そう言って伊勢の君は退出したのであった。




 お膳を持ってきてもらい、昼食にありつく。

 湯漬けのご飯と大根(おおね)のにらぎ、蛸のなます、山菜の汁物が用意されており、それらを黙々と口に運ぶ。銀製の箸で食べているが朝食はとっていなかったので身に沁みるような心地だ。

 部屋には誰もおらず、人の気配がない。鈴子は汁物を飲みながら、さてと息を吐いた。

 彼女の周りにはきらきらと光る桜の精が踊っていた。花びらと一緒にくるりと回りながら、鈴子に声をかけてくる。

『…姫。私たちの声が聞こえる?』

 鈴子は周りに誰もいない事を確かめてから頷いた。声も出して答える。

「ええ。聞こえるわ」

『よかった。姫は宮と仲良し。お話を前からしたいと思ってた』

「…わたくしと?」

 首を傾げると精霊はふふと嬉しそうに笑った。顔は見えないが声から、そんな雰囲気が感じ取れる。

『…姫。私は名を持たぬが。宮からは桜花(おうか)と呼ばれている。あなたもそう呼んでほしい』

「わかりました。改めて、よろしく。桜花」

 桜花はまた、嬉しそうに笑った。鈴子もつられて笑う。

 和やかな中で桜の花びらが風により、舞い上がる。それに鈴子は綺麗だと思う。しばし、楽しんだのであった。




 翌日、桜梅の宮の御前に上がった。巫術の初歩的な知識を教えていただくためである。

「では、姫。まずはこの灯明をご覧になって。しばらく、じっとそれを見つめてください」

 宮のお部屋は蔀戸や扉が閉めきってあり、暗闇になっている。鈴子の前には一つの灯明が置いてあり、それを宮は扇で指し示した。

 鈴子は言われた通りに灯明をじっと見つめて息を深く吸った。吐きながら、一心に集中した。

 しばらく、無言の中で巫術の鍛練は続いた。




 鍛練が終わると桜梅の宮は紹介したい人がいると言ってきた。宮は来なさいと声をかけた。

 静かに御簾の前に座る人影がある。「…宮様。お呼びだとの事で参りました。何か御用がおありでしょうか?」

 低い静かな声が御簾の向こうから聞こえてきた。鈴子は想像していたよりも若い声に驚いた。陰陽師というから、もっとお年寄りなのかと思っていたからだ。

「…いえ、ちょっとね。そなたに紹介したい方がいて。ここだけの話だけど、私の邸に右大臣家の大君が来られているの。鈴子姫とおっしゃって。私の遠縁の姫でね、見鬼の才を持っておられるから。こちらで力の制御の仕方なり陰陽術などをお教えするためにお預かりする事になったのよ。今、私の隣におられるのが鈴子姫だわ」

 そう言いながら鈴子に視線をやる。それを察した鈴子は頭を下げた。

「お初にお目もじいたします。右大臣の娘で鈴子と申します」

「…ご丁寧にどうも。わたしは宮にお仕えしております、陰陽師の安倍吉勝(あべのよしかつ)と申します」

 向こうも頭を下げたらしかった。鈴子は御簾越しでの対面に物足りなさを感じる。これでは、吉勝の顔が見えない。

「…吉勝殿。今日からそなたは鈴子姫の陰陽術の師です。心してお教えするように」

「…わかりました。姫に陰陽術をご教示すればよいのですね」

「そうです。姫は昔から、霊や木霊、式神などが見えて困っておられたの。身分の高い姫君であられるからご両親も扱いにくいとこぼしておられたわ」

 ため息をつきながら、宮は吉勝にそう説明をした。左様ですかと吉勝は神妙に頷いた。

「…あの、宮様。わたくし、殿方に陰陽術を習うのですか?」

 鈴子が小声で宮に尋ねると頷かれた。

「そうですよ。殿方といっても吉勝は私の乳母の孫にあたるの。乳母は女房名を紀伊(きい)といってね。紀伊は陰陽道の大家で有名な安倍家のとある人と夫婦の間柄で。その紀伊が生んだ息子の子が吉勝殿なの。今年で二十二になるのだけど。陰陽師としての実力は師匠である父君の折り紙つきよ」

「はあ。そんな凄い方だったら、わたくしの師匠になられるのはご迷惑ではないのかしら。お仕事だってお忙しいでしょうし」

 鈴子が大丈夫かしらと呟いていたら、聞こえていたのかくすくすと笑う声が御簾の向こうからした。

「…いや、失礼。姫、大丈夫ですよ。わたしの事はお構い無く。仕事の事までお考えいただき、ありがとうございます。でも、ご心配には及びません。わたしは陰陽師といっても二足のわらじはまだ履いてませんから」

「…あの、ごめんなさい。わたくし、無理をしておられるのではないかと思って。けど、安倍殿。二足のわらじとは何ですか?」

「…ああ、姫はご存知ではありませんでしたか。二足のわらじというのは二つの職務を兼業する事を意味します。まあ、わたしは陰陽師の任務しかしていませんから。祈祷などを依頼された時以外は陰陽寮に出仕したりこちらに来させていただいたりするくらいです」

「まあ、そうなのですか」

 鈴子が興味深げに相づちを打つと吉勝は苦笑した。

「ああ、初対面の方に喋りすぎましたね。姫、ご挨拶はここまでにして。陰陽道の教示は明日からでもよいでしょう。姫もお疲れでしょうから」

 吉勝は朗らかに言うと失礼致しますと頭を下げて退出した。それを見送りながら、鈴子はどうなる事やらとまた、ため息をついた。




 鈴子は自室に帰ると几帳の影で寝転がった。姫としてはだらしがないけど人払いをしているので誰も咎める人はいなかった。吉勝はなかなかの気さくな人のようだ。明るい性格らしい事は宮との会話でわかる。

 それでも、陰陽術を習うのには緊張してしまいそうだ。

(どうしたらいいのかしら。わたくし、このまま結婚できるのかな。心配だわ)

 そんな事を考えていたら、桜の花びらが鈴子の頬を撫でた。優しい感触に気持ちが和む。『姫。どうしたの?』

 心配そうな桜花の声が聞こえた。鈴子は寝転がったままで答える。

「うん。陰陽師の方を宮様から紹介されて。術の心得などを教えてもらう事になったの」

『そう。けど、吉勝は信用できる。私から見ても力が強い』

「そうなの。桜花は吉勝殿の事を知っているのね」

 鈴子が問うと桜花は頷いたらしかった。

『知っている。昔、わたしが弱りかけた時があった。その時に真っ先に気づいて助けるように言ってくれたのが吉勝だった』そうと相づちを打てば、懐かしそうに桜花は枝を揺らめかせた。

「あなたにとって、吉勝殿は恩人だったのね。だから、信用できると言っきたの」

『そう。吉勝は素直な子。悪い子ではない』

 桜花は断言した。精霊は嘘をつかない。鈴子は彼女の言葉を信じる事にした。




 そして、翌日になる。今日からは吉勝に陰陽道の心得を教えてもらう。鈴子は緊張しながらも身支度をした。扇を持って、宮の居室に向かう。先導の女房に付いてゆるゆると簀子縁を歩いていた。すると、視線を感じる。

 誰だろうかと視線の元を辿れば、渡殿の向こう側に一人の公達がいた。烏帽子を被り、薄い水色の狩衣に薄萌黄の指貫を着ている。遠目でもすらりと背の高い人だとわかった。

 目鼻立ちも整っていてなかなかの端正で艶やかな美公達であった。食い入るように見つめていたら、先導の女房が不思議そうにこちらを見てきた。

「…姫様?」

 鈴子は慌てて公達から視線を外した。女房に何でもないと誤魔化した。女房がさらに不思議そうにしながらも歩き出した。鈴子もそれに倣い、歩き始めた。

 公達も興味を無くしたかのように視線を外した。そして、彼は踵を返してこの場を立ち去った。

 鈴子の鼻腔にほのかな梅花の薫りが届いたが。再び振り向いてもかの公達の姿はなかった。不審に思う鈴子であった。

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