薄紅に染まりて

入江 涼子

第一話

 時は平安王朝の中期は終わりに差し掛かっていた。

 京の都の二条の一画にとある訳ありの姫君が暮らしていた。これは薄紅の姫君と呼ばれた女の話である。




 薄紅の姫君こと右大臣家の大君である鈴子すずこは御簾越しに父と話をしていた。隣には兄の昌義(まさよし)が控えている。

「…鈴子や。そなたも今年で十八。そろそろ、結婚相手を決めねばな」

「お父様。わたくしは結婚をしたいとは考えてはいますけど。でも、宮中に入内が決まっているのでしょう?」

 清らかな澄んだ声で鈴子は答える。なよやかな感じもするその声は高すぎず、耳に心地よい。眉月のごとくな眉宇と今の世には大きすぎる二重のぱっちりとした瞳が派手やかな印象を持たせる。

 だが、薄い茶の瞳の色とすっきりとした鼻筋や唇から儚げな対照的な雰囲気を醸し出す。白く透き通った肌とすっきりとした輪郭、高くすらりとした背丈からも姫御子にひけを取らない淑やかさと高雅さ、気高さを感じさせる。「かくや、源氏物語の明石の君ならむ」と謳われるほどだ。

 が、鈴子はこれほど美しいにも関わらず、十八歳になるまで恋のいろはも知らないままだった。

 父の右大臣はふうとため息をついた。

「…そうさのう。鈴子は妖しが見えるからな。宮中など魑魅魍魎の巣窟ぞ。この邸には高僧や陰陽師の結界が強く張り巡らされているから安心だがな」

 右大臣が言えば、兄の昌義も頷いた。

「確かに。姫は昔から、式神や霊の類いが見えた。しまいには神仏のお声まで聞こえましたからな。私も驚きました」

 兄の昌義の言葉に右大臣もそうさなと相づちを打った。

 そうなのだ、鈴子には見鬼の才があった。また、彼女は高位の貴族にしては珍しく、神仏のお声も聞く事ができた。皇女に生まれていれば、斎宮や斎院といった方々と同列に扱われていたかもしれない。

 鈴子の強い霊力と清らげな雰囲気から未だに通う恋人はいなかった。右大臣や兄たちが一切の男たちを近づけさせなかったのもあるが。

「…わたくし、今上様に入内はできないでしょうね。だとすると、斎宮様は無理だとしても斎院様に女房として仕えた方がいいかしら」

 鈴子がぽつりと言い放った一言に右大臣と昌義は手に持っていた扇を取り落としそうなほど、慌てた。

「…鈴子。女房出仕だけはやめておくれ。世間に顔向けできなくなる。それに、世間知らずのそなたに近づく不逞の輩もおるかもしれぬからな」

「はあ、そうでしょうか?」

 首を傾げる鈴子に右大臣はそうだともと何度も頷く。

「……やめておきなさい。そうだな、主上には既にそなたの伯母上、幾子(いくこ)様がおられるし。東宮様ではどうだろうか」

 右大臣の勧めに鈴子はそれならばと頷いた。

「…そうですね。東宮様であれば、わたくしより二つほどお年上なだけだし。母君は幾子伯母様ではないですから。結婚するのであれば、妥当なお方になりますわね」

 鈴子はのんびりと言いながらも心の内ではまだ見ぬ東宮様のお顔を想像してみる。

 ちなみに、現東宮は今上帝の第一皇子で母君は伯母の幾子ではなく、一番早くに入内なさった左大臣家の姫君である。名を承子(つぐこ)といい、居所は常寧殿であった。白梅がお好きな事から白梅の中宮と呼ばれている。

 この白梅の中宮は今東宮の他、第二皇子の二宮、第一皇女の女一宮、第二皇女の女二宮の四人の皇子や皇女を今上帝ともうけていた。

 また、伯母の幾子も負けてはおらず、第三皇子の三宮、第四皇子の四宮に第五皇子の五宮と三人の皇子に第三皇女の女三宮と第四皇女の女四宮の五人の皇子や皇女を生んでいた。今上帝は二人の妃との間に九人もの皇子女をもうけており、かなりの子沢山といえた。他の女御や更衣などにも子を生ませているらしく合計すると二十人をくだらないという。今上帝に入内している女御だけでも幾子を含めて六人はいる。

 幾子が弘徽殿女御と呼ばれていて他には麗景殿女御、宣耀殿女御、登花殿女御、梅壷女御、承香殿女御の六人であった。藤壷には大后宮がお住まいで桐壷は空き家となっている。さて、話を戻すと鈴子の出身の右大臣家には北の方との間に長男の昌義に次男の高芳(たかよし)に大君こと長女の鈴子に中君、次女の高子(たかきこ)、三女、三君の逸子(いつこ)と五人の子供がいる。右大臣はことのほか、大君の鈴子を可愛がっていた。

 将来は帝か東宮の妃にと大切に守り育ててきた。が、何故か鈴子にだけ強い霊力が顕れる。外見も性格も優れていて頭の賢さも申し分ないのに。父の右大臣はまことに惜しいと思う。この霊力さえなければ、普通の姫なのに。

「…昌義。鈴子をいっそ、あの変わり者なかのお方に預けてみようかの」

「父上。それではあまりにも鈴子が可哀想ではありませんか」

「…致し方ない。かのお方、大斎宮こと桜梅の宮(おうばいのみや)様にお願いして鈴子が自身で力を制御できるようにご教授願おう。その方が鈴子のためだ」

「…父上。わかりました、桜梅の宮様には私からお文でお知らせしておきましょう」

「すまぬな。そうしておくれ」

 右大臣がねぎらうと昌義は頷いて立ち上がった。

 彼が部屋を出ていくと右大臣はぱちりと桧扇を鳴らして女房に合図をした。人払いだと察した彼女たちは静かに素早く部屋を退出していく。

 二人きりになると右大臣は咳払いをする。やっと、一人浮かれていた鈴子は辺りの静かさに気づいた。

 父が自身を見つめていることにも思い至り、居住まいを正した。

「…唐突ですまぬが。ときに、鈴子。桜梅の宮様を覚えているか?」

「はあ、覚えています。かの大斎宮でわたくしのお祖母様の妹君でしたね。その大叔母の桜梅の宮様がどうかなさいましたか?」

 鈴子が尋ねると右大臣は気まずそうに視線をそらした。

「…うむ。そのだな、鈴子。そなた、桜梅の宮様のおられる一条の大炊宮に行かぬかな。あちらの宮様であれば、そなたの事情をよくわかっておられる。霊力を制御する術も熟知していられるから、預け先としては上々だ」

「…お父様?」

「というわけでだ。兄の昌義が宮に連絡を取ってくれるはずだから、そなたもそのつもりでいなさい。まあ、何。斎院様に仕えるまでいかぬがこれも良い経験だ。宮様のおっしゃることをよく聞くのだぞ」

「お父様。わたくし、東宮様に入内するはずなのでは。何で、いきなり桜梅の宮様に預けられるのですか?」

「…今のそなたを見ていたら、宮中にやるのは危なすぎてな。それに東宮様は陰気の強い方らしい。同じく陰気の強いそなたとでは相性が悪かろうしな。ならば、霊力もあり、制御する術に優れておられる桜梅の宮様の元で修行してから新たな縁談を探した方がよいとも考えていた。陽の気の強い方にも出会えるだろうて」

 いきなり、陰陽道のことを話し出した父に鈴子は面食らう。だが、密かに自分のために不慣れな陰陽道のことを調べたり、力を封じるために数ある寺社に詣でて祈祷をさせたりと涙ぐましい努力を積み重ねてきた右大臣だ。鈴子は今までの父の頑張る姿を思い出して言葉に詰まる。

「…わかりました、お父様。桜梅の宮様の元に参ります。わたくし、力をきちんと制御できるようになったらこちらに素敵な婿殿をお連れします」

「…すまぬ、鈴子。勝手な父を許しておくれ」

「…気にしないでください。わたくしの為を考えてのことでしょう。だったら、喜んでお引き受けいたします」

 にっこりと笑う娘に父の右大臣はやりきれぬ表情でまた、ため息をついた。鈴子の霊力を厄介者扱いしてきたのにまだ、こうやって言うことを従順に聞こうとするとは。

 複雑な気持ちながらも頷いたのであった。




 あれから、数日が経ち、鈴子は仕度を終えて両親や兄弟たちと別れを惜しんだ。一番に彼女との別れを悲しんだのは妹の高子と逸子だった。同じ女兄弟だからか、普段から仲良くはしていたが。

 それでも、目を真っ赤にして泣きながら抱きついてきた高子は鈴子より三歳下の十五歳の大人びた少女だが、今はそうは見えない。

 瞼は泣きはらしたせいか腫れており、頬もうっすらと赤くなっていて自分の部屋でも泣いていたのだと思い知らされる。鈴子は高子を可哀想に思い、肩や背中に腕を回して抱き締めた。

 柔らかで華奢な体とひんやりとした艶やかな髪の感触に鈴子は頼りなさを感じる。そして、同時に懐かしい薫衣香がして涙腺が余計に緩んだ。鈴子もつられて泣いていた。横の逸子も泣いているらしく鈴子の手を小さな手でひっしと握っている。

 三人でわあわあと泣いていたら、心配した女房たちに引き離された。

「…大君様、もう宮様の大炊宮に行く刻限になりました。急ぎませぬと失礼にあたります」

「…うう。そなたたち、やっぱり行けないとお文を出してちょうだい。そうしたら、この子たちと離れなくてすむし」

「いけません、姫様。そんなことをしたら、宮様に失礼になります」

 けどといいよどむ鈴子に注意した女房こと周防は余計に眉を逆立てた。

「…よいですか、姫様。妹君たちとお離れするのは寂しい事だとはお察しします。けど、右大臣様がお決めになり、宮様が承諾なさったのです。事はそう簡単には覆りませんわ」

 厳しい調子で言われて鈴子はうつむいた。そんな彼女の背中を押したのは妹たちだった。

「…わかった、姉様。私、宮様の元から戻ってくるまで待ってる事にします。それまではどなたとも結婚はしませんから」

 そう言ったのは中君こと高子だった。逸子も負けじと言う。

「…うん。わたしもお姉様を待ってる。そうしたら、また前みたいに一緒にいられるわ。だから、しばらくはお別れね」

 舌足らずな言葉使いではあるものの逸子はにこりと笑った。その表情はなかなかにかわゆらしい。

「…高子、逸子!ありがとう、姉様も頑張るわ!」

「うん、頑張って。お姉様」

 逸子が言うと高子もにこりと笑いながら頷いた。

 鈴子が十八、高子は十五、逸子が十歳の春の事であった。




 あれから、鈴子は見送ってくれた妹たちに感謝しながら牛車に乗り込んだ。そして、中に一緒に乗った女房たちと共に一条大炊の宮に向かう。

「…姫様。周防や中将、安房(あわ)もいますから。ご安心ください」

「わかった、ありがとう」

「ええ。桜梅の宮様は厳しい方ですけど。頑張れば認めてくださいます」

 周防はにこりと笑いながら先ほどの妹たちと同じように励ましてくれる。それに心強い思いをしながらも鈴子は頷いた。

 牛車はゆっくりと進んだ。そして、二条邸から一条大炊宮にたどり着くのは昼を少し過ぎた頃であった。

 ぎいと車輪が鳴り、牛車が停まる。「…一条大炊宮に着きました」

 従者の声がかかった。鈴子の代わりに周防がわかりましたと答える。

 門が開かれて牛車が宮の中に入った。階(きざはし)の辺りに横付けされて鈴子は付いてきた女房たちに手伝われながら、牛車から降りた。

 周りには従者と女房くらいしかいない。出迎えには宮の一の女房の伊勢の君と年かさの者たち、六人ほどが簀子縁にて待ち構えていた。

「…今から早速、宮様の御前にお連れいたします。姫様、ご無礼をお許しくださいませ」

「いえ、刻限通りに来なかったこちらが悪いのですから。謝らなくてかまいません」

「…お優しい言葉、痛み入ります。では、中へどうぞ」

 伊勢の君に案内されて鈴子は宮のおられる廂の間に通された。周防たちは別室で待つことになり、ここには鈴子一人しかいない。

 宮をお呼びしてきますといいおいて、伊勢の君と他の女房たちは奥に入っている。鈴子は扇で顔を隠しながら待ち続けたのであった。

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