第三話

 今日から、吉勝による陰陽術の鍛練が始まる。鈴子は緊張しながらも几帳越しで吉勝に挨拶をした。

「…安倍殿。今日からよろしくお願いします」

 丁寧に手をついて挨拶をする。吉勝も一礼してこちらこそと言った。

「姫。本来であれば、御簾越しに挨拶をしなければならないものを。こんな几帳越しで申し訳ない。宮にも後で申し上げておきます」

 吉勝は申し訳なさそうな口調で言ってきた。鈴子はお気になさらずと返事をする。

「いえ、わたくしの方が教えていただく立場ですから。御簾越しなどと我が儘は言いません」

「…そうですか。でしたら、陰陽道の講義を早速ではありますが、始めましょうか?」

「ええ。お願いします」

 わかりましたと言って吉勝は頷いた。

 まず、陰陽道の成り立ちから説明が始まる。

「…では、最初は陰陽道がどこで生まれたのかをお教えしましょう。元々、陰陽道はこの日の本の国のものではありません。大陸にある異国、今は唐と呼ばれていますが。そちらで生まれた道教なのです。それが生み出されて幾年か経った頃に遣唐使の主だった方の内、吉備真稷(きびのまきび)様が学ばれて持ち帰られた。そして、この日の本の国にもたらされました」

「…なるほど。術の基礎から入るのかと思いましたけど。陰陽道の成り立ちや歴史から教えていただけるのでしたら、わたくしも入りやすいですわ」

「…そう言っていただけると教え甲斐があります。さて、続きですが。陰陽道はこの世のあらゆるものを陰と陽の二つに分けてそれらから、できているという考えの基に成り立っています。例えば、人で言いますと陰が女人で陽が男という具合です。他には光が陽、闇が陰といったようにこの二つの均衡が壊されない事が重要だとも説いていますね」

 ふむと頷きながら、鈴子は吉勝の話に聞き入った。

 吉勝は一通りの説明を終えると鈴子に白い紙で出来た何かを几帳の隙間から差し入れてきた。受けとるとそれは小刀で作った人形(ひとかた)であった。

「…お社での儀式や祈祷を行う時などに使うものです。穢れを払う為にこういった人形を作ります」

「とても、上手に作っていますね。これで穢れを払うのですか。そういえば、宮様が斎王であられた時に使った事があるとおっしゃっていたような気がします」それはそうでしょうと吉勝は言った。

「宮様も賀茂祭の禊(みそぎ)の時などにお使いになった事があるはずです。肩の辺りに触れたりするくらいですが」

「…そう。じゃあ、人形で他にもできる事はありますか?」

「…穢れを払う以外で、ですか。そうですね。姫になら見えるかもしれませんが」

 吉勝は人形を返すようにと言った。几帳の帳の隙間から鈴子は手渡した。

 そして、吉勝は何やら、不思議な調子の経文みたいな言葉をいい始めた。確か、祝詞というのだろうか。それを唱えると吉勝は、ぱんと両手を叩いた。

「…今、我が命ずる。ここに来ませよ、句那津彦神」

 最後に吉勝が神の名を唱えるとふわりと人形が舞った。それは床に紙の足で着地した。

『ふむ。これの中に入るのは久方ぶりだのう。さて、何か用かな?』

 何と、鈴子に顔を向けて話しかけてきた。それに驚きながらも鈴子はどう答えるべきか、考えを巡らせた。だが、吉勝は彼女の方を向いて言った。

「…姫。答えなくていいですよ。句那津彦神、御用があるのはわたしです。少し、式神を動かしてみたいと思いまして。わたしの式神でもよかったのですが。邸に置いてきてしまいまして」

『…それでわしを呼んだのか。式神を一体だけでも連れてくればよかろうに』

「…なかなか、おっしゃいますね。いや、姫の事を話したら会わせろとうるさくて。喧嘩になったので罰として置いてきてしまいました」

 吉勝がため息をつきながら言うと句那津彦神は呆れ混じりにやれやれと首を横に振った。『それでわしをわざわざ呼んだのか。わかった、全てを聞くわけにはいかぬが。一つか二つくらいは言うことを聞いてやろう』

「でしたら、この邸の桜の精を呼びましょう。桜花、こちらに来ておくれ」

 吉勝が外に声をかけた。すると、さわさわと庭にある桜の木が揺れたらしい。花びらが風に舞い上がり、竜巻のようになる。それが収まると薄紅色の瞳に黒髪の美女が姿を現した。

「…呼んだ?吉勝」鈴子が昨日聞いたままの高く澄んだ声は確かに桜花のものだった。

「…桜花、わたしの呼びかけに応えてくれたのだな。姫、申し訳ないが几帳越しだとあれなので。わたしの前に出てきてくださいませんか?」

 吉勝が躊躇いなく鈴子に端近に出てくるように促してきた。仕方なく、扇で顔を隠しながら几帳の影から出た。

 目の前に色の白い青年が端座していた。切れ長の瞳にすっと通った鼻筋。すっきりとした顎の線はいかにも殿方のものである。鈴子は漆を流し込んだような漆黒の瞳を食い入るように見つめていた。

 先ほどの公達とは趣は違うが吉勝もかなりの美男子だ。御簾や几帳越しではぼんやりと見えるだけで顔かたちまではしっかりとわからなかった。

 そんな、この場にはふさわしくない事を考えてしまう。だが、吉勝は気にした素振りも見せず、鈴子に笑いかける。

「…ああ、姫。几帳越しだと面倒だと言って申し訳ない。ただ、桜花と会うのにはどうかと思いましてね」

 にこやかに言い放った。鈴子は桜花の方を見て驚きと緊張のあまり、目をぱちくりとさせていた。扇で顔半分はしっかり隠していたが。

「…あ、そこにいるのは姫なの?」

 桜花が鈴子に気がついたらしく階の近くまで駆け寄ってきた。

「桜花なの?」

「…うん!わあ、いつもは樹木の姿でしか見てなかったから。姫を遠目にしか眺められなかったけど。今は間近で会えたわ」

 いかにも嬉しそうにしている。吉勝は中に入るようにと言ってきた。

「桜花。姫と話をしたいんだったら、こちらへ来てくれ。それと都に妖しや物の怪の気配はしないか?」

 吉勝が矢継ぎ早に尋ねると階を上がりながら桜花はそうねと考える素振りをした。

「…都の洛北の北山に濃い物の怪の気配を感じるわ。竜脈からこちらにまで伝わってきたのよ。吉勝、こちらにまでは影響はないと思うけど。気を付けた方がいいわね」

 いい終える頃に階を上がり終えた。そのまま、すたすたと簀子縁を通って中に入ってくる。

「…改めて初めまして。姫、わたしはこの邸の桜の精で桜花と言います。吉勝の半分、式神ね」

「あの、桜花殿。桜の精なのは知っていたけど。半分、式神というのは。一体、どういう事なの?」

 鈴子が訳が分からずに問うと桜花はふふと笑った。

「ああ、わたしはね。吉勝に使役はされているけど。ここからは自由に動けないの。普段は宮にお仕えして何か吉勝にあった時などは式神として働いているわ」

 ふうんと言いながら鈴子は頷いた。桜花はよろしくねと笑いかけてくる。それにまた、頷いて返すと片手を握ってきた。ほんのりと温かい桜花の手からは桜の香りがして鈴子は懐かしくなったのであった。




 桜花との挨拶が終わると吉勝は句那津彦神に頼んで小さく真四角に切った紙片を部屋や庭に花びらのように吹き飛ばしたり、燐光を放つ蝶を出現させたりして鈴子を楽しませてくれた。桜花も簡単な幻術を使ってたくさんの花びらが舞う様を見せてくれる。それに感嘆したりしながら時は過ぎていった。すっかり、夕刻になり日はとっぷりと暮れていった。

「…ああ、もうこんな時間か。では、姫。わたしはこれにて失礼します」

 吉勝は立ち上がると鈴子に礼をして部屋を出ていった。桜花も同じように姿を消してしまう。部屋の中には句那津彦神と鈴子の二名だけが残された。

『姫。では、わしも失礼する。この邸は桜梅宮の力と吉勝の力を組み合わせた結界が張られているからな。安全じゃぞ』

「ありがとう。句那津彦様も帰られるのですね」

『うむ。いつまでも、こんな紙の中にはいられぬ。早く出たくて仕方なくてな』

「ならば、出られませよ。しばしのお別れになりますけど」

『そうさせてもらおうかの。ではな、姫』

 その言葉を最後に句那津彦神も姿を消した。灯火が部屋を照らす中、鈴子は床にひらりと舞い落ちた人形を拾い上げる。こんな時間は長くは続かない。それを思うとしくりと胸が痛むのであった。



 翌日も桜梅の宮に鍛練をさせてもらう。この日は簡単な占いを教えてもらった。巫術の基本中の基本らしい。

「…姫。今日は顔色が悪いですね。何かありましたか?」

 鍛練を終えた後、宮から心配げに尋ねられる。鈴子は内心、どきりとしながらも無理に笑った。

「いえ。そんな事はありませんわ。ただ、昨夜は眠れなくて」

「…そうなの?」

「ええ。宮様、ご心配には及びません。でも、その。昨日、吉勝殿に顔を晒すような真似をしてしまって。眠れなかったのはそのせいかもしれません」

「……何ですって。吉勝殿に顔を晒した?」

 鈴子はしまったと口元に手をやった。桜梅宮の声が地を這うように低くなったからである。

「…姫。吉勝殿の前でご自身の顔を直接見せたというのは本当なの?」

「……はい。あの、吉勝殿に几帳から出てきてほしいと言われたものですから。ついといいますか」

 しどろもどろになりながらも答えると宮は眉を吊り上げた。

「まあ、何とはしたない事を。いくら、術の師であっても相手は成人した殿方なのですよ。だというのに、そんな軽々しい真似をなさるだなんて。信じられないわ!」

 仮にも右大臣家の姫君なのにと宮は眉間を揉みながら言った。鈴子は萎縮しながらもごめんなさいと小さな声で謝る。

「良いですか、姫。あなたは入内が近い身でいらっしゃるのですよ。それを承知の上でお預かりしたのは何あろう、この私です。そんなあなたに何かあっては父君や母君に顔向けができません。ましてや、未婚の姫君に直接顔を見せてほしいと申すなど。吉勝殿の言動は誉められたものではありません」

「…確かにその通りです。宮様にはご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありません」

「…迷惑などと思ってはいませんよ。ただね、姫。今回は吉勝殿が相手だからよかったものの。他の殿方だと今日のようにはいきません。姫の貞操に大きく関わりますからね。今度からは気を付けてください」

 宮が本当に心配そうに鈴子の両手を握る。しっかりと握り返すと宮はほうとため息をついた。

「…私から、吉勝殿には厳重に注意をしておきます。後、あなたが東宮様への入内話が出ている事も伝えておきましょう」

「…お手数をおかけします、宮様」

 いいのよと言いながら宮は朗らかに微笑んだ。

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