宝珠山戦⑩:小心者の悪癖
巨山のようにどっしりした構えの千菊に対し、日葵は上段お得意の遠間を意識して間合いをせめぎ合う。そうは言っても、押しても引いても千菊は涼しい顔をして、じっと日葵の目を見つめ続けるだけだ。眉ひとつ動かすことなく、身体が反射的にピクリと動くこともない。まるで自分が動くべきタイミングを初めから知っているかのようで、日葵はすっかり気後れしてしまう。
もともと日葵は、間合いの攻防がそれほど得意ではない。小心者で臆病者である彼女は、相手のちょっとした動きに過敏に反応して、すぐに構えを解いて縮こまってしまう。よく言えば鉄壁の守りだが、悪く言えば攻め時を失っていた。
高校にあがり、剣道部に入部した彼女に上段を勧めたのは、言わずもがな顧問の鑓水だ。もちろん高校規格外の身長を活かす意味もあったが、それ以上に彼女の過敏な守りを捨てさせることが一番の理由だった。
決して上段に間合いのせめぎ合いが無いわけではない。得意な距離がハッキリしている分、むしろ重要なくらいだ。しかし、メンチを切るような切っ先のぶつかり合いがない分、自分のタイミングで自分の打ち込みに集中ができる。相手の都合などお構いなしに、上から被せるように技を叩きこむのだ。上段は、引っ込み思案で技の出が悪い日葵の弱点を上書きするための苦肉の策でもあった。
もっとも過敏なところに対しては良いようには働いているが、結局、元の性格ばかりはどうすることもできなかった。
(け、気圧されちゃダメだ)
日葵は、心の中でぶんぶんと頭を振って無理矢理気持ちを落ち着ける。
(そ、そうだ、設定……こういう状況なら、どんな〝私〟なら乗り切れる? 団体戦の同点で、私の結果でチームの勝敗が決まって――)
左沢産業戦のように物語の一員としての設定を考えようとして、自分の置かれた状況に戦慄した。さっと顔から血の気が引いて、ふらふら力なく後ずさる。
千菊は日葵の異変をつぶさに察知し、一気に間合いへと踏み込んだ。待ちの剣道に特化した分、攻め時は敏感に逃さない。日葵の過敏さとは対極の才能だった。
日葵は慌てて千菊の打突を受け止める。間合いにえぐり込むような一撃だったが、守りにさえ徹すれば受け止めきれないほどでもない。
(イメージ通りに重い! 気を抜く暇なんて無いんだけど……)
しかし、今だ頭の中に、この状況に適したキャラクター象が浮かばなかった。
(北澤日葵、昨日より動きが悪いな)
鍔迫り合いの距離で、すっかり焦りの滲んだ日葵の表情を伺いながら、千菊は相手の力量を推し量る。昨日のあこや南高校VS左沢産業高校の大番狂わせの結果に関しては、同時刻に同じく決勝リーグ進出をかけた試合に臨んでいた宝珠山高校の生徒たちは、後から寝耳に水の形で聞かされた。ただ、一部の生徒――少なくとも千菊と撫子は、どこか期待もしていた。五分五分の確率……いや、八割方、あこや南が勝ち上がって来るのではないかと。そう感じさせるだけの勢いと、夏大会に向けた将来性を、春の練習試合で感じ取っていたのだ。
中でも、同じ大将と言うこともあり、日葵の試合に関しては昨晩中に何度も録画映像を見てイメージトレーニングを重ねた。千菊の目からは、左沢産業の大将、外山に向かう日葵は、練習試合の時とは全く別人に思えた。技のキレも速度も、間合いすらも、これまでと一線を隔している。
ある意味で〝覚醒〟と呼んでも良い一戦に焦点を当てて準備をしてきた千菊にとって、目の前の日葵はずいぶんと拍子抜けに近い。それこそ、あっと言う間に二本を先取して勝利した、あの練習試合の時のよう。
(いや、あの日よりも迷いを感じる。ことここに至って、何を戸惑う必要がある?)
もちろん千菊には、日葵が今、役に入るための準備にあくせくしているだなんて、カケラも伝わることは無い。しかし、それをのんびりと待っているほど彼女も大人ではない。
日葵が大勢を整える前に押し切る。その一心で、千菊は果敢に攻め入った。猛攻にさらされた日葵は、完全に後手に回りながらも、どうにか守りだけは固める。勝てるビジョンはまだ見えなくても、負けてはならないことだけは彼女の体中の細胞にしっかりと染みわたっている。
一向に技が決まる気配がなく、千菊は一度間合いを開けて呼吸を整えた。
(崩せないか……私の剣道は、相手に守りに入られるとどうにも弱いな)
千菊の剣道は、相手の隙を見逃さない、仕事人のような剣道だ。一方で、相手も同様に〝待ち〟に入る剣道をされると、途端に攻め手に乏しくなる。
ある意味で我慢比べ。延々と続くジャンケンの〝あいこ〟の中で、どちらが先に手を変えるか。手を変えたところで、ちょうど相手も手を変えるかもしれない恐怖との戦い。いや、ここ一番に至って恐怖なんてものは千菊の中に存在しないが、いつかは「手を変えなければならない」ことは重々承知している。
何よりも、同門の撫子が〝守りの剣道〟に於いて最強の使い手と言っても過言ではない。
(去年の夏から一年間、私もまた撫子メソッドに則って実力をつけてきた。だが、私は部長でもある。部長の役目とは、部をひとつにまとめ、チームとしての実力を底上げすることにもある)
千菊は、すっと高く伸びた鼻から大きく息を吸い、吸い込んだ空気が頭の中に溜まった熱をかき消すのを感じてから、口から吐き出す。
彼女の機微を感じ取ることができたのは、試合を見守る観客たちの中で唯一、コートの対岸に座る蓮だけだった。蓮もまた、感じ取ることができたのは、千菊が纏う僅かな空気の変化による違和感だけ。それが意味することを知るのには、瞬きひとつ分の時間しか必要としなかった。
「……え?」
蓮の口からこぼれたのは、間違いなく戸惑いの一声だ。ただし「信じられない」という意味ではなく、目の前の光景を全く予想していなかったというだけだ。彼女だけでなく、南斎千菊という剣士のこれまでを知る観客はみな、どよめきに似た吐息を溢す。
臨機応変にして正確無比。宝珠山高校の剣道を一身に体現する存在である彼女の竹刀が、正中に対して真っすぐと、頭上高々に掲げられたのだ。
「千菊が上段……?」
言葉にして、蓮はようやく目の前の光景を飲み込む。左上諸手の上段をとる日葵に対して、千菊が提示した答えは同じく上段。ただし、右足を前、左足を後ろとした、正眼の構えからそのまま竹刀を振り上げた形だった。
戸惑う蓮の傍で、穂波も眉をひそめて首をかしげる。
「あまり見ない型の上段ですね……ご高齢の先達の方に稽古をつけて頂く時、たまに見かけますが」
「確かに、現代の界隈じゃ得意の片手メンとリーチを活かせる、北澤のような左足前の上段が主流だ。それに比べると、右足前の上段は片手メンも活かせず、見たまんま〝中段を振り上げた〟以外の利点はさほどない」
鑓水が、同じような表情で腕を組んで、言葉の最後に小さく舌打ちを重ねる。
「振り上げている分、中段よりも技の出が早い。ただそれだけを突き詰めた型だ」
戸惑っているのは、コート上の日葵も同様だ。彼女にとっては初めて目にするタイプの上段を前に、完全に腰が引けた様子で余分に間合いを取る。
(南斎さん、上段なんて今日まで一度も使ってこなかったはず……三年の夏大会に向けて、新しく稽古を積んで来たってこと?)
距離をとった日葵の代わりに、日葵がジリジリと距離を詰める。日葵の上段にとってはとっくに間合いの内だったが、千菊の上段にとってはまだ遠い。一見、日葵の方が有利に見えるが、相手が何を狙い、何をしてくるのか全く想像がつかない以上、小心者の彼女が動くことはできなかった。
千菊は、無言の威嚇で一歩、また一歩と間合いを詰める。上段の構えを取ってなお、彼女の剣道は大きくは変わらなかった。自身はどっしりと泰然自若に構え、相手がプレッシャーに耐えかねる瞬間を見逃さず、仕留める。
先ほどまでは中段だったせいか、それでも日葵は、同じように守りに徹して堪えることができた。しかし不幸なことに、今にも切りかかってきそうなプレッシャーを放つ上段の千菊を相手にして、彼女の悪癖が顔を覗かせてしまう。
自分だけが上段なら、日葵は余計な事を考えずに、攻撃に徹することができる。
しかし、相手も上段なら、条件はイーブン。
臆病な彼女の身体は、有りもしない敵の攻撃を予期して、震えるように縮こまっていまう。
瞬間、千菊の竹刀がしなった。しなる、と言う言葉がそのまま当てはまるような、一瞬の早業だった。
振り上げられた状態から、手首のスナップでビュンと放たれた一撃が、日葵の小手を打ち、再び頭上へと戻って来る。相手の僅かな動きを見逃さない、見事な「出鼻技」だった。
――振り上げている分、中段よりも技の出が早い。ただそれだけを突き詰めた型だ。
あこや南の面々の脳裏に、直前の鑓水の言葉が反芻する。
「コテあり!」
一斉に上がる赤い旗の中心で、千菊は相手に礼を尽くすかのように、中段の位置まで竹刀を下げてピッと止めた。
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