宝珠山戦⑨:宝珠山の剣道
(今、完全に捉えたハズだったのに……)
一本を返されたことよりも何よりも、朝は自分の身に起きた不可解な現象に、すっかり混乱してしまっていた。鍔迫り合い中に、相手の重心移動を感じ取るのには、絶対の自信があった。ただそれだけに注力して稽古を積んで来たのだから、決して譲れない。
「朝が、鍔競り合いで読み違えた……?」
コート上の選手の不安は、宝珠山の陣にも伝播する。撫子が眉をひそめて、ぽつりと言葉を溢す。
「秋保鈴音は、何か特別なことをしたか?」
「いえ、何も……感じられませんでしたが」
千菊の問いに、撫子も確証を持って答えることができない。彼女が何を信じるかと言えば、朝が鍛え抜いた技術をばこそだ。鍔迫り合いの中でなら、絶対に読み違えることは無い。だけど読み違えたというのなら、それは鈴音が何かを仕掛けたということ。だけど解らない。何も、おかしな点は感じられない。
だからこそ戸惑うのだ。得も言われぬ嫌な気配を背中に感じながら。
「朝のあの技は、私には真似ができない。理屈は分かっても、体現できるのは確実に彼女の才能だ」
「私にも無理です。だからこそ――」
なぜなのだ。
(人間は踏み出す時、必ず一度後ろ足に体重をかける。朝は、それを敏感に読み取って、寸分違わぬタイミングで相手を押し込むことができる。一種の合気。だから防ぎようもない……はずなのに)
撫子が感じる嫌な気配は、練習試合で鈴音に決勝点を挙げられた時のそれと似ていた。秋保鈴音。彼女が持つ何らかの〝非常識〟の気配。
「勝負!」
拭いきれない不安を投げうって、三本目が始まる。流石の朝も警戒をして、一本目二本目のように不要に懐へ飛び込むようなことはしなかった。一方の鈴音も、及び腰で間合いを開けるようなことはしない。むしろ強気に、ぐいぐいと間合いの内側へと攻め込んでいく。
(く……ダメです。間合いの勝負に入っちゃ)
弱気な自分に鞭を打つように、朝が間合いに飛び込む。鍔迫り合いにさえ持ち込めばチャンスはあると。自身のアイデンティティを守るためにも、必要なことだった。
しかし三度目。
三度目だ。
甘い打ち込みを三度許すような稽古を、鈴音は毎日黒江から積まされてはいない。
「メンあり! 勝負あり!」
完全に狙いすました鈴音のメン払いメンが、朝の頭に叩き込まれる。完璧に読み切って捕らえた一本。そして奇しくも、かつて撫子から先制点を奪ったのと、同じ技だった。
わっと、沸き立つあこや南メンバーの声援を背中に受けながら、鈴音は手のひらから全身に伝わる確かな手ごたえに打ち震えていた。
(カウンター剣道を覚えれば他の技が活きて、他の技が活きればカウンター剣道が活きる。この大会で学んだこと、ちゃんと身についてる)
勝利よりも、その事が何よりも鈴音の胸を熱くさせた。見知らぬ剣道相手にも焦らずに当たることができた。確実に自信に繋がっていた。
「すみません」
コートを降りて、朝は次の試合に備える千菊へ頭を下げる。千菊は、目の前に突き付けられた彼女の頭頂部をポンと叩いて、悠々とすれ違った。
「ナイスファイト。後は任せろ」
「はい」
ある意味で期待通りの言葉に、朝はほっとして自陣に戻る……がしかし、そこに異様に渋い表情で睨む撫子の姿を見つけて、顔を引きつらせながら足がすくむ。
「何をしているのです。試合が終わったら、早く座りなさい」
「あ、なんだ、私に怒ってるわけではない?」
「怒ってどうにかなることなら、いくらでも声を荒げますが」
「あっ、遠慮しておきますぅー」
触らぬ神になんとやら。朝は丁重にお断りすると、そそくさと腰を下ろして面を外す。撫子はじっとコートを見つめたまま、手ぬぐいで汗を拭く朝に問いかけた。
「先ほどの鍔迫り合い、読み違えたのですか?」
「え? ああ、いえ……読み違えたというか、読んだはずなのに違ってたというか」
「はあ?」
「動いたと思ったのに、動いてなかったといいますか」
「動いてない……?」
当然、鈴音のアイソレーションの事なんて知らない彼女たちには、答えに至るきっかけすらない。撫子たちにとって鈴音は、この秋以降も戦わなければならない相手だ。だからこそ、飲み込めそうで飲み込み切れない不安が、胸の中を渦巻いていく。
(さて……行くか)
コート端中央に立った千秋が、気合を入れるように大きくひとつ息をつく。敵陣に向き合うと、否が応でも目につくのが、松葉杖を抱えてパイプ椅子に座る蓮の姿だ。一本が入るたびに、杖を頭上でくるくる回す姿は、剣道よりは野球かサッカーの観戦者のように見えるが、純粋に仲間たちの試合を楽しんでいる様子だけはよく伝わってくる。
そんな蓮は千秋など見向きもせずに、杖の持ち手の部分で日葵のお尻をドンと小突いた。
「ひゃっ!?」
「相変わらずのへっぴり腰~! シャキッとしなよ!」
お尻を抑えながら振り向いた日葵に、蓮がニッと笑顔を向ける。同様に、日葵を見送る部員たちの視線も一心に受ける。
「先輩、お願いします!」
「昨日のすごいのください!」
「日葵サン!」
現在の戦績は、一勝一敗二分け。本数も同数。完全な引き分けだ。決勝への切符は、この大将戦にかかっている。もちろん日葵の胃は、先ほどからキリキリと悲鳴をあげている。しかし今は、お尻の痛みの方がそれに勝って、思わずきゅっと引き締める。
「い、行ってきます!」
「いってこーい!」
連の気合の入った声援を背に受けて、日葵は改めて対岸の千秋と対峙する。練習試合の時は、手も足も出なくて一瞬でやられた相手。あの時と違うところがあるとすれば、多少は覚悟が決まったこと。怪我を負った連の分まで自分が闘うのだということ。
(鈴音ちゃんがイーブンに戻してくれたんだ……応えよう)
思えば、決勝リーグなんて大舞台も久しぶりのことだった。それを忘れてしまうくらい、小心者にとっては、いつもの光景だということ。メンタルの弱さも、時にはプラスに働くことがある。
一歩コートに踏み出すと、境界線を隔てる、見えないベールをくぐったような独特の気配を感じる。日葵にとって、試合場とはまさしく舞台だ。今、自分に求められている役どころを、彼女は頭の中で必死に思い描いていた。
――大将戦。
赤、宝珠山。南斉。
白、あこや南。北澤。
「はじめっ!」
静まり返っていた会場に拍手がなり、すぐに止む。進退が掛かった大将戦の空気は、決勝戦のそれと同じだ。誰もが選手の一挙手一投足を見逃さないよう。そして、部外者が立てる余計な物音で選手の気を散らさないよう。示し合わせたように、一斉に息を殺しながら、じっと視線だけをコートに捧ぐのだ。
静かなコートの上に「ヤッ!」と短い威嚇のような気合が、双方から一回ずつ飛ぶ。片や、左上諸手の上段に構えた日葵。片や、美しい正眼の千秋。構えの美しさで言えば、これまで代名詞となるのは撫子だったが、彼女が下段を手足のように使いこなせるようになった今、一番を明け渡したと言ってもいいほど素晴らしい佇まいだった。
(綺麗だ……だからこそ隙が無い)
正眼は、刀を武器に使う以上、最も理にかなった構えだ。まっすぐに竹刀を構えている限り、相手の技が自分に届くことはない。確かに強い選手はみなこぞって攻撃力に特化した上段を使うが、その万能さからあえて正眼を貫き、極める剣士も少なくない。
日葵は、存分に警戒をしながら一足の間合いだけ維持するように、前へ後ろへ移動を繰り返す。上段を使う以上、間合いの攻防中に竹刀と竹刀が触れ合うことは稀だ。すなわち、払って相手の構えを崩すことはできない。
すると必然的に、相手の出鼻か、打った後の不用意に体が開いたところを狙うことになるが――一日千段の石段を二年半、毎日上り続けた千秋の立ち振る舞いは、足の裏から根が張っているかのようにどっしりとしてブレがない。
無論、焦れるという事も知らない。じっと身じろぎせずに機を狙い、〝決まる〟と見定めた瞬間に一撃必殺、確実に仕留める。まるで仕事人のような剣道。それもまた、宝珠山の長い黙祷や山での生活が成せる技だ。
つまり、南斉千秋の剣道は、宝珠山高校そのものである。
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