宝珠山戦⑤:鉄壁の円
試合が開始すると同時に、観客席にどよめきが起きる。出た――誰かが、息を飲みながら、畏れと共に口にした。
(下段――)
穂波の見つめる先で、撫子の竹刀の切っ先が、床目掛けて降ろされる。試合開始直後、検分の中段を経ずに構えられた撫子の下段は、相手を〝非常識な存在〟と認めている証だ。昨今の剣道シーンではまず見ない、真剣での斬り合いを想定した低い構えは、彼女自身の非常識性の象徴でもあった。
「清水撫子がこの大会で下段を使用したのは三回だ。個人戦ベストフォーでの鶴ヶ岡南高校・小田切愛苺戦と、準決勝の左沢産業高校・外山紬麦戦。そして、たった今」
「それは、光栄なことだと思って良いんでしょうね」
鑓水の言葉に、蓮がにへらと笑う。彼女は運営局に準備して貰ったパイプ椅子に腰かけ、くじいた足を庇うようにさする。
「そのうち、開始直後から使ったのは、これが初めてだ」
「穂波とは練習試合でも当たってますし、その時だって下段を使ったじゃないですか。実力を測る必要が無かったからでは?」
「それだけ入念に倒しに来ているということだ」
切っ先の触れ合わない構え同士による間合いの攻防は、とりわけ静かだ。かすかなすり足の音。衣擦れ。永遠とも思える空虚の時間を裂いたのは、観衆の期待通りというか、穂波だった。出し惜しみはしない。初手から全力の〝縮地カッコカリ〟――相手の呼吸を盗む彼女の非常識性で、撫子のメンを狙う。常人なら打たれたことも気づかず、遅れてやってきた打突の感触と、満場一致で上がる審判の旗で、自分の身に何が起きたのかを理解するだろう。
もとは穂波自身も気づかぬまま、周りの部員に勝手に技名までつけられた謎の必殺技だった。しかし、合宿の三日間に渡る黒江との三〇本勝負と、その後に行われた総当たり部内リーグを経て、ある程度意図的に放てるようになったのが大会直前のこと。
大会中は、当然のように猛威を振るって向かうところ敵なしの無双っぷりを発揮し、彼女を個人戦優勝という〝県下最強〟の座へと導いた。
だと言うのに、撫子はさも当たり前のようにそれを防いだ。
傍から見れば、穂波が真っすぐ打ったメンを、撫子が難なく防いだようにしか見えないだろう。しかし〝縮地カッコカリ〟を知る者、そして無論ながら当人たちは、驚きで目を見開くことになる。
(ふせ……がれた?)
穂波にとって、〝縮地カッコカリ〟を防がれるのは、これが初めてではない。直近でも個人戦ベストフォーの鈴音相手に、独特なリズムの乱れ(黒江曰くアイソレーション)で完封に近い防性を発揮された。もとより穂波は、得体の知れない必殺技に頼る剣道をしていないが、手ごたえのある一撃を防がれるのは気持ちがいいものではない。
(もう一回……一度戦っているのもあるし、タイミングはよく分かる。あとは、もっと鋭く、もっと疾く……!)
悠然と構える撫子に、穂波は再び〝縮地カッコカリ〟を放つ。呼吸を盗んでいるという一点を除けば、長年の稽古に裏打ちされた、極限まで無駄のない一撃というだけのことだ。
しかしまた、手首の返しひとつで容易にいなされる。切っ先で優しく撫であげるように受け流して。撫子の表情にも、一切、焦りの色はない。
(やっぱり防がれた……)
穂波は、一旦間合いを切って、逸る気持ちを落ち着ける。焦りこそ無いが、得体の知れない策に絡めとられているような気持ち悪さが、身体と心に絡みつく。
(縮地などと大層な名をつけているようですが……ようは認識の虚を突くだけの技です。瞬間移動でもなければ、空間転移でもない。そこに実体があるのなら、防げないわけがない)
撫子の掲げる理屈は正しい。しかし、それを成せるかどうかはまた別の話だ。認知できないからこそ防げない――それこそが、〝縮地カッコカリ〟の神髄である。
(私とて、決して看破しているわけではありません。全ては、ほんの些細なコツ――)
再び、穂波が果敢に攻め立てる。今度は〝縮地カッコカリ〟ではなく、ごく普通の、しかし一級品の連撃だ。持ち技が効かないと知るや否や、すぐさま手数で打ち崩す方へシフトするのは、踏んだ場数の成せる業だ。打ち崩すさ中に、再び〝縮地カッコカリ〟を放つ機会も訪れる。むしろ、その威力を何倍にも膨れ上がらせることもあるだろう。
だが、撫子の鉄壁の守りは、そのことごとくを防ぎ続けた。どのような姿勢であっても、一分の隙も無い。
(巴の型……やっぱり防戦のうえで、あれは別格だ)
鈴音は、歯がゆい思いでコート上の攻防を見つめる。その歯がゆさは、ロクなアドバイスもできないことと、今、あそこに立っているのが自分ではないことの、二つの意味を持っていた。
巴の型――下段を軸に、なぎなたの円の動きを取り入れた、撫子の鉄壁の型。軸足を中心に、全身で円を描くような足捌きを加えることで、バリヤーフィールドにも例えらえるような円形の守りを形成する。
(でも、なんか、前のと違う……もっとコンパクトって言うか、無駄がない)
目の前の撫子は、練習試合の時のような大げさな足捌き――円が生む遠心力に頼っていない。全身を覆うバリヤーフィールドと言うよりは、正面に丸い盾のような壁を生み出しているかのような、ピンポイントの守りだ。
その技術的な違いを言語化できずに、鈴音は一層、歯がゆさで唸りをあげる。
(弾かれる……どこに打っても)
もちろん、面と向かって対峙している穂波は、全く同じことを鈴音以上に強く感じていた。「どこに打ってもきっと防がれる」という考えが頭の中を過ったのは、竹刀を握りたての初心者のころに、高段位者の先生と対峙した時以来だ。
向けられた切っ先から穂波の迷いを感じ取ったのか、撫子は心の奥底で人知れずほくそ笑む。
(ふふ……落胆する必要はありません。私が鉄壁を誇れるのは、あなたが一流の剣士であるからこそ。むしろ誇るべきでしょう。日夜研鑽を積み、これほどまでに無駄を削ぎ落した、その剣閃を)
「やばいやばい、全部防がれちゃう!」
面を外し終えた竜胆が、汗の滲む顔で焦りを覗かせる。
「次鋒の子もすっごい堅かったけど、やっぱ清水さんは次元が違うって!」
「ううん、清水さんの怖いとこは、あの守りじゃない……」
鈴音の胸中に渦巻いているのは、紛れもない怖気だ。撫子が、何のために堅い守りを誇っているのか。対戦相手の猛攻を涼しい顔を受け流して、あの蛇のような瞳で何を見ているのか。何を、見逃さないのか。
その正体は、コートを切り裂く半円の閃きと共に露になる。
「ドウあり!」
審判陣の満場一致で赤い旗が高々と掲げられる。撫子の美しくも残忍な逆胴が炸裂したのだ。
一瞬のことだった。穂波の一撃を竹刀でいなした直後、僅かに身体を開いたかと思えば、脚先から切っ先までを弓のようにしならせ、空いた胴を無慈悲に打ち抜く。コンパクトな円で守ったかと思えば、練習試合の時にも見せた全身を使う『大きな円』による遠心力で必殺の一撃を放つ。
県下最強の剣士が容易に一本を取られたことより、誰もがその美しさに目を奪われていた。純白の道着と防具は、まさしくその神々しさで、彼女の神性を高めているかのようだった。
ひと呼吸遅れて万雷の拍手。会場の熱気が、あこや南の選手陣を飲み込もうとしている。
(清水さん……練習試合の時とは別人だ)
撫子が試合前に穂波に感じていたのと全く同じことを、鈴音はコートの外から感じる。対峙する穂波もまた、冷静な様子で開始線に戻りながら、これまでの撫子の一挙手一投足を、頭の中で矢継ぎ早に反芻する。
(これは与えても良い一本。切り替える時間を貰ったと思おう。問題は、ことごとく技を防がれる、あの防御力の方です)
撫子は、まるで穂波がどこに打って来るのか分かっているかのように、最小限の動きで、最小限の防御を行ってくる。そんなことができるのは、たいてい戦う両者の間に、大きな実力の開きがある時くらいだ。冷静な分析と、僅かな自尊心とで、穂波は、それだけは無いと断言できる。
だとしたら読まれている?
無くはないが、その線も薄い。なぜなら穂波は、極限まで技の〝起こり〟が分かりづらい剣士だからだ。無駄がない。打突点まで最短距離を、ブレない体幹で、身体が浮き上がることすらなく叩き込んでいく。それもまた〝縮地カッコカリ〟のファクターであり、穂波が十年以上の剣道生活で磨き続けて来たこと。
(なら、読まれているのでなく、どの技でもある程度、普遍的に防ぐ方法があると言うこと)
行きついた答えは、言葉にしてみると何とも馬鹿げていて、それでいて本当だとしたら如何ともしがたい。絶望するにはまだ早いが、カラクリを解かない限り活路もない。
これが清水撫子。
中学時代、須和黒江から与えられた敗北で覚醒した〝道〟の申し子。
(八乙女穂波……あなたがあなたの剣道にしがみつく限り、私に剣は届かない。しかし、あなたが自分の剣道を捨てるとしたら、それは縮地を封印することにもなる)
開始線で竹刀を構え直しながら、抑えきれない確信と悦びが、彼女の口元をゆがめた。
(どちらを選んでも、清水撫子が強者たる証明となるのです)
個人戦準決勝で敗北した時、撫子の心中には相応の悔しさがあった。しかし、それと同じくらいに、八乙女穂波が優勝してくれたことへの感謝もあった。個人戦で優勝したばかりかつ、本大会無敗を誇る剣士を、団体戦決勝リーグで撫子が下す。これ以上にセンセーショナルで、清水撫子の名を轟かせるシチュエーションはありはしない。
撫子が黒江に奪われた自尊心を取り戻すには、彼女が君臨する剣道界で最強の座を手に入れるほかない。その礎として、まずは〝県下最強〟を討つ。全国の首を取るのは、その後だ――と。
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