宝珠山戦④:積み重ねたもの

 ――試合開始から一分ちょっと。


 竜胆は、渋い顔を浮かべて深く息を吐く。

(苦手だなぁ、こういう相手)

 この一分の打ち合い……いや、竜胆の一方的な「掛かり」を経て、彼女の野性的な直感が警鐘を鳴らす。剣を交えて語り合うなんてロマンチックな話ではないが、竜胆が目の前の剣士から感じていたのは「勝とうというつもりはないけど、勝たせても貰えない」という気配だった。

(たぶん、剣道経験はあたしと大差ない。なのに、最初から勝ちは捨ててる感じ)

 その実、竜胆は剣道を初めて約三年、尚子は約一年半と倍以上の開きがあるのだが、普段から十年選手達と剣を交えている竜胆にとっは微々たる差だ。そんな竜胆からすれば、似たような実力なのに勝つ気を感じられない尚子の考えが理解できなかったし、このうえないやりにくさを感じる。見ての通りと言うか、正面からの打ち合いを得意とする彼女にとって、守りに入るタイプの相手は対極の存在だ。

 一方で尚子の方は、竜胆のことを「自分の倍の年月も剣を振っている経験豊富な剣士」と捉えている。だからこその警戒と、団体戦として後続のエース達に〝繋ぐ〟ための剣道だ。

 高レベルな経験者だらけの恵まれた場所で切磋琢磨できた竜胆と、チームを組むのもやっとで経験に関係なく戦うしかなかった尚子との、環境の差による認識の違いだった。

 もっとも竜胆だって中学のころは、チームすら組めない僻地のチームで似たような経験をしているハズだが、こと運動に関しては天性のセンスを持つ彼女だ。経験の差は、むしろワクワクのバロメーターでしかない。相手は経験者だし怖いな――という初心者なら当たり前に抱く感情が、彼女の場合は著しく欠如していた。

 そこが彼女の強みでもあり、弱みにもなる。

(日下部竜胆……小田切愛苺と同門の規格外選手。とてもじゃないけど、私が太刀打ちできる相手じゃない)

 尚子は、ハングリー精神こそ欠けているものの、実に冷静に相手と自分との力量を認識している。だからこそ、相手より劣る自分が何をすべきかが、明確な指針として頭の中で定まっている。

(ちえみ先輩の『勝ち』を繋ぐ。私が負けさえしなければ、次は撫子さんの出番なのだから)

 後ろにエースが控えていることへの信頼と安心が、大会経験の少ない彼女を気丈に支えていた。仮にそのエースの相手が、本大会の個人戦で一位に輝いた県下最強の剣士だとしても、信用を欠く理由にはならない。

 対して、堅守に入った相手を打ち崩すために、思考を巡らせなければならないのが竜胆の方だ。彼女が試合中にごちゃごちゃ考えるのが苦手なのを差し引いても、いつもの剣道のままでは勝てないことくらいは理解している。

(気合でダメなら〝静〟と〝動〟! 緩急で揺さぶって勝ちをもぎ取る!)

(リズムが変わった……あのロケットスタートのヤツ!)

 〝静〟と〝動〟――竜胆があこや南の稽古の中で編み出した、新しい剣道のスタイルだ。スタミナ任せで攻め立てる普段の剣道のエネルギーを、溜めて溜めて決死の一撃として爆発させる。穂波の〝縮地カッコカリ〟とは似て非なるものだが、抜群のフィジカルだけで、物理的な速度で、相手の懐へと一気に飛び込む。こうなると普段の剣道と比べた際の緩急もひとつの駆け引き材料となる。

 かかり気味に攻め立てていたそれまでと違い、正眼の構えのまま、突然微動だにせずじっとにらみ合うと、対戦相手の心にも焦れったい気持ちが生じる。そこで甘い覚悟のまま飛び込んで来たところ、はたまた焦れったさを通り越して待ち過ぎたところを仕留めるのだ。

(ようは、ピストルの鳴らないヨーイドンでしょう。もしくは、お相撲の立ち合いに近いか)

 守りに重きを置く尚子に、焦れるという感情はない。問題は、竜胆が〝動〟く瞬間を見逃さないかどうかということだけだ。

 ドンッと、ソニックブームにも似た踏み込み音を響かせて、竜胆の鋭いメンがコート上を翔ける。尚子は、ほとんど仰け反るようになりながら、ギリギリのところで竹刀で防ぐ。

(うう……集中さえ切らさなきゃ、なんとか)

(もうちょっと疾く飛び込めれば押し込める!)

 竜胆は再び正眼で構え直し、ググッと足元に力を溜め込む。〝静〟で焦れったいのは竜胆の方も同じだ。得意な連撃を捨てて、ぐっと堪えるのは、彼女の心にも相当な負担を強いている。爆発的な飛込は、彼女のフラストレーションの爆発でもあるのだ。堪えれば堪えるほど〝動〟が疾くなる。

(まだ来ない……まだ……まだ……)

 そんな内情を知らない尚子は、ひたすらに待つしかない。堪えることは得意だ。宝珠山のお家芸である五分瞑想も、三〇分の通学登山道も、忍耐力を高めるための教育なのだから。

 静寂のさ中に、竜胆の〝動〟が爆発する。先ほどの一手よりも力を溜め込み、先ほどより疾い飛び込み。歴戦の剣士ならば如何様にも捌けるだろうが、剣道歴一年半の尚子ならばただただ圧倒されるばかり――とは限らない。彼女がなにより多く目にしてきた剣道は、他でもない、防御に特化した撫子の剣道だ。ほとんど身体に沁みついた動きで、無意識に間合いを引き下げて、竜胆の竹刀を払う。

(うそ、これに合わせる!?)

(私だって一年間、〝撫子メソッド〟を、文字通り泣きながらこなして来たんだ。全国に足る稽古を、私なりに――)

 努力は裏切らないなんて、耳障りの良い言葉で自分をごまかすつもりはない。しかし、努力は確実に蓄積されている。何も実力ばかりではなく、自信という戦ううえで最も大切な心の蓄積だ。

 事実として、練習試合の時にも薔薇相手に引き分けを演じている。地味で苦しい稽古の確かな成果なのだ。

「やめっ! 引き分け!」

 試合終了の笛と共に、主審の旗が高らかに上がる。同時に、尚子はため込んだ緊張を、熱い吐息と一緒に盛大に吐き出した。

(剣士としては……たぶんゼロ点。でも、これが私のできる、精一杯のチームへの貢献だもの)

 竹刀を収めるのと同時に、対戦相手の竜胆が悔しそうに顔をしかめるのが見えた。尚子は、心の中で申し訳なさそうに手を合わせた。

(ごめん。次は……次は、真っ向から勝負して、倒してみたい。私だって、今やひとりの剣士なんだから)

 自分への反省、実力が伴わないことに対する後悔、対戦相手への少なからずの罪悪感。それらすべてを吹き飛ばしてくれるのは、コートを出た後に出迎えてくれるチームメイトの面々だ。

「よく戦いました。後は、私に任せてください」

「よろしくね、エース」

 すれ違いざまに、撫子とそれだけ言葉を交わす。あこや南のように拳を重ね合ったりすることは無いが、彼女の言葉ひとつで、全てが報われたような気持になれる。尚子が陣に目を向けると、大将戦に向けて面付け途中の千菊が、紐を引く手を止めてトントンと自分の胸元を叩いてみせる。自分へ向けられた推しの個レスに胸をキュンキュンさせながら、剣道部に入って良かったと、改めて満足した。

「くぅ~、崩しきれなかった!」

 多方、あこや南の陣で悔しげな竜胆は、地団駄――までは踏まないものの、ぶんぶんと両の拳を上下に振る。

「ウチは、攻めっ気の強いヤツが多いからな。日下部にとっては次の課題だな」

「はい!」

 悔しさはバネにすればいい。伸びしろしか無いこともまた、経験が浅い者の特権だ。

(一敗一分け……厳しいな。頼むぞ、八乙女)

 顔には出さないものの、鑓水の心中は苦しいままだ。顧問としては、これまでの稽古と、それをこなした部員たちを信じるほかない。対岸の陣で狐みたいな笑みを浮かべる宝珠山の顧問を見やって、できる限り「問題ない」と不敵な笑みを浮かべる。

 それは、他の部員たちも同じことだ。県下最強を手に入れた穂波への絶対の信頼と、それに比類する存在である撫子への恐怖。とにかく勝って欲しい――一同の願いを知ってか知らずか、穂波は落ち着いた様子で小さな背をすくりと伸ばす。

(八乙女穂波。練習試合の時とはまるで別人ですね……ですが、それは私とて同じこと)

 対岸の撫子は、全身白備えの防具を畏怖で染め上げて、眼前の〝県下最強〟をものともせずに立ちはだかる。その心にあるのは、決して挑戦心ではない。自らの方が優れていると証明するための、ひとつの頂上決戦としての衝突だ。

 主審に促されて、両者見会ってコートに足を踏み入れる。固唾を飲んで見守るように、会場がしんと静まり返った。


 ――中堅戦。


 赤、宝珠山。清水。

 白、あこや南。八乙女。

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