宝珠山戦③:点滴穿石
「すんません」
自陣に戻った薔薇は、鑓水の隣に座って深く頭を垂れた。
「謝るな。負けた理由を分析することは大事だが、謝罪は仲間の士気を下げる。先鋒ならなおさらだ」
「はい。気持ちが焦りました」
「だが、普段のお前からしたら良く耐えた。成長している証だ」
「ありがとうございます」
「あとは、後続の仲間を信じろ。真っ先に試合が終わる先鋒は、応援も仕事のうちだ」
「うす」
鑓水に背中を叩かれて、薔薇は横並びになって座る、チームの待機列へと戻った。それを横目に見届けて、鑓水の視線はコート上へと移る。
(ああは言ったが、先取点を挙げられたのは事実だ。厳しい戦いになるか)
コートでは既に次鋒戦が始まっている。あこや南の次鋒・竜胆に応じるのは、宝珠山の次鋒・新田。一年生と二年生という、比較的若い世代同士の勝負となった。
――次鋒戦。
赤、宝珠山。新田。
白、あこや南。日下部。
次鋒戦の立ち上がりは、相変わらず竜胆の超攻撃的な剣道から始まった。息を吐かせぬ猛攻は、新田尚子自身も練習試合で目にしていたし、こうして決勝リーグで当たることが確定した後には、改めて研究と対策を練ったつもりだった。
そうは言っても、剣道歴一年半の彼女にできることは、それほど多くない。熟練の技があれば、応じ技でカウンターを狙ったり、または真っ向から剣速で勝負することもできるのだろうが、自分がその域に達していないことは、尚子自身がよく分かっていた。
新田尚子という人間は、典型的な南斎千菊の信者だった。いや、仏門に帰依する彼女たちにとって、『信者』という言葉を当てはめるのは不遜の至りだろう。だから、より現代的な分かりやすい言葉をつかえば『ファン』――いや『推し』と言うべきか。
出会いは宝珠山高校に入ってすぐのころ。新入生への洗礼とも言える、地獄の通学路――表参道の長大な石段でのことだった。山頂付近に校舎があり、麓に全寮の下宿所がある宝珠山高校の生徒は、毎日およそ千段の石段を登って登校しなければならない。とっくに慣れた二・三年生なら三〇分もあればゆうゆうとたどり着けるが、慣れていない一年生の中には、休憩を挟みながら一時間以上かけて登山しなければならない者もいる。尚子は、まさしく後者だった。
岸壁を蛇行するように設えられた階段を登りながら、彼女は宝珠山に入学したことをひどく後悔した。入学初日の登校でできた筋肉痛が未だに治らず、全身がギシギシのボドボド。学校の成り立ちを考えれば、これもまた教育の一環なのだろうけど、あまりにヒドイ――と、心の中で悪態を吐き続けた。心に留めたのは、決して周りの生徒たちに配慮したわけではなく、単に声をあげる余裕すらなかっただけのことだが。
ただ、宝珠山の石段は、そんな煩悩をつぶさに捉えて試練を与えてくる。悪態ひとつでほんの一瞬気を抜いた瞬間に、尚子は次の石段を踏み損ねてしまった。筋肉痛で思ったよりも足が上がっていなかったのに、全く気付いていなかったせいだ。
あ、死んだかも。
千段の石段の中腹。眼下は岩肌の崖。こっちは無防備。受け身を取ることすらできない身体。生き残る要素がない。
一瞬にして脳内で生を手放した彼女の代わりに、身体を抱き留めて助けてくれたのが、ほかならぬ南斎千菊だった。当時、二年生だった千菊は、毎日の登下校で鍛えられた強靭な足腰で、危なげなく尚子の身体を、半分お姫様だっこのような態勢で受け止める。
「大丈夫? 一年生は、無理しないで休みながら登った方が良いよ」
「あ……その、ありが……あれ、どうして一年生って?」
「タイの色が一年生だから」
「ああ、なるほど……」
会話をしているつもりで、尚子の脳内は、目の前で微笑むさわやかなイケメンの笑顔でいっぱいだった。言葉はほとんど、脊髄反射で出て来たうわごとだと思っていい。そのまま近くの休憩所まで手を引いて貰い、「それじゃあ、先に行くから」と颯爽と去っていく千菊の姿を、ただただぼーっと眺めていた。
無事に学校にたどり着いた尚子は、すぐに我が世に春を連れて来た王子様の正体を調べた。同級生に話題に出しただけで、すぐにその生徒が南斎千菊であり、剣道部に所属していることが分かった。尚子は、剣道部への入部を決めた。見学会や体験入部期間を経ることなく、それだけは固く心に誓っていた。
宝珠山高校剣道部は、県内では決してトップレベルとは言えない中堅どころの高校だった。もともと宝珠山高校の運動部は、レクリエーション部としての側面が強かったし、剣道も「勝つため」というよりは、武道を通して心を鍛えるのが目的である――というのが存在の建前だった。
だと言うのに、部の見学会には、ものすごい数の新入生が参加していた。決して広くない道場を埋め尽くすんじゃないかって勢いで集まった少女たちの大半は、尚子の王子様こと千菊がお目当てのミーハーな一見様ばかりだった。
はじめはきゃいきゃいと色めき立っていた新入生たちだが、一度稽古が始まると次第に口数が減っていった。仮にもお嬢様学校の生徒である彼女たちにとって、ほとんど初めて生で目にするであろう剣道は、少々暴力的で、刺激が強すぎた。どんどん口数が少なくなり、見学時間の終わりごろには、ほとんど引き気味に「そういう感じかー」と変に納得した様子だった。
案の定、本入部の時期になると、尚子含めてたった四人の生徒しか残っていなかった。うちひとりはマネージャー希望だったので、実質の入部は三人。尚子も、本当はマネージャーを希望したかったが、対抗馬の子が身体が弱く、激しい運動はできないということだったので、仕方なく自分は選手の道を選んだ。三年生が引退したあと、残された一・二年生だけで五人のチームを組むためには、新入部員の選手が三人必要だったのだ。
こうして誓い通りに剣道部へ入り、推しと再会した尚子だったが――彼女は再び、自らの選択を後悔した。清水撫子の存在である。彼女は入部するなり、部長と顧問へこう進言した。
「全国大会へ出場するためのチーム作りと、それに見合う稽古の改善を行います。今のチームでは、県大会の決勝リーグにも残ることができません」
尚子も、撫子のことは入学前から良く知っている有名人だったが、この時ばかりは本当に肝が冷えた。案の定、いきなり一年にそんな生意気なことを言われて、先輩たちの風当たりは強かった。集団生活の場だ。いじめ――なんて直接的な状況に陥ることはなかったが、あっという間に撫子は部の嫌われ者になってしまった。
一方で、顧問は撫子の宣言を聞いて、愉快そうに笑っていた。もっとも、彼女はいつも狐みたいな顔で笑って本心が全く見えないので、内心どう思っているのか尚子は推し量ることができなかった。
結局、撫子の提案した改善案は通ることなく、その年の夏大会は予選リーグ敗退という結果で終わった。
「そんなに全国に行きたいなら、あなたがそのメニューをやり遂げて、個人戦で勝って見せてよ」
三年生が引退するまで、撫子はそう言われて、自分で考案したメニューをひとり黙々とこなしていた。日和見主義な尚子にとっては、なんでそんな馬鹿なことをしたんだろうって、本気で思っていた。あんな言い方したら、先輩に反発されるのなんて当たり前で。反発されるのなら、せめて自分たちの代になってから、好きにやったらいいのに。
見かねてつい、本人にそっくりそのまま言ってやった時もある。しかし、撫子の返事はこうだった。
「私の代になってから、たった一年本気になったところで、卒業までには間に合いません。今から始めなければ。高みを目指すとは、そういうことです」
真っすぐで切実な彼女の瞳を見て、尚子は少しだけ撫子のことを見直した。それまでは鼻につく傍若無人なエリート様だと思っていたけど、目標のためにまっすぐに歩んでいける強さを持った人間なのだと、その芯を認めるようになった。
そんな撫子の想いを、先輩の立場で後押ししたのが千菊だった。部長の座を引き継いだ千菊は、最初の部内ミーティングで部員たちに問いかけた。
「私は、この部で、このメンバーで、全国大会へ行くという夢を見たい。そのためには、撫子の考案した稽古が必要だ。やりたい人だけがやるんじゃない。みんなでやるんだ。みんなの夢にするんだ」
そう言って彼女は、新品の手ぬぐいを一枚取り出して床に広げる。
点滴穿石――白地にそう書かれた手ぬぐいの空いたスペースに、彼女は筆ペンで自分の名前を書いた。お手本のように美しく、几帳面な筆運びだった。
「賛同してくれる人は、ここに名前を書いてくれ。ただひとりでも欠けたなら、この話は無かったことにする」
おそらくは不退転の覚悟で語る千菊に応じて、真っ先に筆を取ったのは、当然のごとく撫子。
次いで、笹原ちえみが「なんで副部長より先に書いてるんだ」と撫子に文句を言いながら。
撫子にせっつかれるようにして、もうひとりの一年生である児玉朝。
そして流れを受け入れるように、尚子もまた自らの名前を手ぬぐいに書いた。
最後に、マネージャーの子が小さく名前を添えて、まさに誓いの血判状である手ぬぐいは完成した。千菊は満足そうな笑顔を浮かべて、チームメンバーの顔を見比べた。
「ありがとう。今日から私たちは、一蓮托生だ。誰ひとり欠けることなく、来年の今日、全国大会のアリーナを踏もう」
「はい!」
正直なところ、初めて半年の初心者である尚子は、不安で胸がいっぱいだった。それでも、千菊や撫子と同じ夢を見て頑張るのは、なんだか楽しくて、充実した時間を過ごせるような気がした。一度は入学したことを後悔したこの学校での生活を、最後まで後悔しっぱなしにはしたくない。尚子の本心だった。
高校一年の夏。毎日一時間かかっていた通学路の石段が、休みなしの三〇分で登れるようになってきた頃の出来事だった。
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