宝珠山戦⑥:シナプスを超えて

「先生……穂波の動き、もしかして読まれてます?」

 撫子の鉄壁ぷっりを前に、流石の蓮も不安げに顔を引きつらせる。彼女にとって――いや、あこや南高校剣道部にとって、穂波の勝利はある意味で前提条件のようなものだ。スカウトもしていない地方の進学校であるいじょう、全員が全員、全国レベルの実力を持った剣士というわけではない。

 だからこそ、その中のオーパーツである穂波の勝利は、チームの勝利には必須条件だ。比例して、彼女にかける期待と不安が大きくなっている自覚はあるが、中堅校が勝ちあがるには、危ない橋を渡らざるを得ない。

 鑓水は、半ば睨むようにコート上を見やって、静かに首を横に振る。

「おそらく、もっと単純なカラクリだ。穂波が一流の選手ゆえといったところか」

「単純?」

「相手に認知され辛い鋭い打突を放つにはどうすれば良いか……答えは簡単だ」

「えっと、できる限り無駄を省いて、最短距離を最短時間で打ち込む」

「そうだ。構えた姿勢のまま、できるだけ身体を動かさずに、踏み込みと、腕の差し込みと、手首のスナップだけを効かせて技を放つ。振りかぶって打つ基本のメンに対して、試合では定番に使われる刺しメンが、その理論の集大成にあたる」

「試合で振りかぶるなんて、上段か応じ技くらいですからね」

「つまり、一流の選手ほど切っ先以外は動かない。特に、隙を少なくし、次の動作に即座に移れるようにするため――手元はブレることが無い」

「あ……」

 鑓水の言葉と、目の前で繰り広げられている撫子の「撫であげるような防御」が、蓮の頭の中でカチッと噛み合う。

「清水撫子は、穂波の手元――竹刀の根元を抑えることで技を防いでる? 磨き上げた穂波の剣道なら、どんな技を放っても手元は最小限の動きでブレないから、あっちも最小限の動きで防御ができてしまう……?」

「八乙女が攻めのスペシャリストであり、対する清水が守りのスペシャリストであるが故にだな」

 基本を極めた無駄のない剣道だからこそ守られてしまう。何とも皮肉な話だと蓮は思った。いや、一般的な実力者相手なら、無駄が無ければないほど認知されにくいわけだから、基本を極める意味は大いにある。

 しかし、撫子だけは違った。彼女の守りが〝非常識〟過ぎた。基本を極めていない、または自己流の体捌きを扱う相手には、全身を使った「大きな円」による守りを。

 一方で、穂波のように基本を極めた無駄のない剣士に対しては、手元を狙った「小さな円」による守りを。

「悔しいけど、隙がないなぁ……どうする穂波」

 蓮の心中にあるのは、絶対的なエースに対する信頼と、そのエースですらどうしようもないのではないかと言う不安の両方だ。もしも撫子と戦っているのが自分ならば、打ち崩す術はないという降参の気持ちもある。

 それでも穂波なら――撫子と同様に〝非常識〟な彼女なら、凡夫な自分にはなし得ない方法で、あの鉄壁の守りを打ち砕いてくれるのではないだろうかと。これもまたひとつの信頼の形だろう。そんな天上の剣士たちの戦いを、かぶりつきの最前列で眺めることができるのも。


 当の穂波は、自分の攻撃がなぜことごとく防がれてしまうのか、多少の推測すら立てられていなかった。ただでさえ、面のせいで視界が狭いのだ。こういうのは、外から見ている人間と違って、当人には何が起こっているのかすら分からない場合すらある。

 そうなると、とりわけ脳k――真っすぐな穂波がはじき出す答えはひとつ。


 もっと疾く。

 もっと鋭く。

 防がれるより先に打て。


 穂波の身体が、弓矢のような柔軟なしなりで、ビュンと力強く飛び出す。普通の剣士なら、〝縮地カッコカリ〟なんて使う必要もなく、疾さと鋭さだけで成すすべなく一本を挙げられてしまうであろう一撃。

 それでも撫子は難なく防ぐ。

 打つ。防ぐ。打つ。防ぐ。何度繰り返しても堂々巡り。

(そうしていれば、いつかはこちらが対応できなくなる瞬間が訪れると思っているのですか? 残念ながら、それだけはあり得ません)

 穂波が無駄のない打ち込みに身骨を注いだように、撫子も軸ブレのない守りに身骨を注いでいる。穂波が打ち損じることをしないなら、撫子もまた防ぎ損じることは無い。

(……っ!?)

 しかし、突然撫子は、〝小さな円〟を捨てて、〝大きな円〟を用いて強引に穂波の一撃を防いだ。咄嗟のことだった。直感的に、そうしなければ防げないと思った。

 事実、ほとんどメンの有効部位すれすれまで届いた穂波の打突を、仰け反るような不格好な恰好で受け止めることになってしまっていた。

(今、のは……!)

 理由は、目の前にそのまま広がっている。

 穂波が放ったのは片手メンだ。片手で打つことによって威力を失う分、一瞬でも早く相手の懐に竹刀を届ける、個人戦で鈴音を仕留めたフィニッシュブローだ。

(ふ……ふふ、そうですか。無駄のない剣道を捨てましたか。まあ、実際、そうしなければ勝てないでしょう)

 撫子は、不格好な守りを強いられたことよりも、相手が自分の思い通りの試合展開に乗って来たことに、このうえない喜びと高ぶりを感じていた。八乙女穂波に、彼女の剣道を捨てさせたというだけで、ポット一杯のお茶を飲み干せそうだ。

(片手でも届かなかった……もっと、まだ、疾さが足りない)

 穂波の心中にも、もはや様子を見るという気持ちはない。既に一本リードされているのだ。トライ&エラーを繰り返し、無理矢理にでも相手の鉄壁を打ち破る。漫画みたいに、試合中に成長するなんてことは、現実じゃあり得ない。だったら、今あるものすべてをぶつけて挑むのみだ。出し切らずに終わることこそが、何よりも後悔すべきことだと。

(存分に足掻きなさい。しかし、無駄を捨てると言うことは、隙も増やすということですよ)

 円の動きで穂波の技を凌ぎ、撫子は返しの刃で偃月の打ち込みを放つ。得意の逆ドウばかりではない。メンも、コテも、表のドウも。一見無駄に見える、鞭を振うがごとき大振りの一刀は、足先から切っ先まで無駄なく伝えられた遠心力のエネルギーにより、疾さも威力も、何倍にも跳ね上げる。

 穂波は、そのひとつひとつを荒々しく受け止めた。雑な守りと言うよりは、穂波レベルの剣士でもってしても、全力で守ってどうにか受け止めることができる一撃なのだということだ。

(部長があんなに必死に戦ってるの、初めて見た)

 コート袖で、続く副将戦に向けて身体をほぐしながら、鈴音は胸の内に燻る熱を吐息と共に吐き出した。本当のことを言えば「初めて」ではない。合宿中、黒江と戦い続けていた穂波の姿は、目の前のそれとよく似ていた。自分と同じレベルの剣士との戦いに心を震わせ、綱渡りのようなギリギリの戦いに身を投じる姿。果たして、自分と戦った時に、あのような彼女を引き出すことができただろうか。

 それは撫子に対しても同じだ。向上心の塊である彼女に、自分を好敵手のひとりだと思い至らせることができるのだろうか。


 ――次は大会で相まみえましょう。


 練習試合の後、鈴音は撫子にそう声をかけられた。嬉しかった。彼女たちと同じ舞台に、自分もあがっているのだと認められたような気がした。もちろん、今日に至るまで、それに見合うだけの努力と研鑽を積み重ねて来たつもりだった。

 それでも今の彼女たちにはきっと届かない。個人戦ベストフォーでの最後の一撃が、穂波に届かなかったように。

(強くならなきゃ。もっと)

 全国の壁と呼ぶべきものが存在しているのなら、今まさに目の前で繰り広げられている光景こそがそうなのだと、疑いようがなかった。

 穂波は相変わらず、自分の持てる最大限で撫子に当たり続ける。かといって、無策に単調なわけではない。リズムを変え、時に奇をてらって〝縮地カッコカリ〟を挟んでみるが、やはり鉄壁の防御に跳ね返される。

(まだ、足りない……もっと疾く)

 意識はいくらでも、今の疾さを越えるつもりでいる。しかし、やはり限界はある。突然、打突が疾くなることも無ければ、いきなり自分の殻を破るようなこともない。

(ことごとく防がれるのは、やっぱり無駄があるからだ。どれだけ無駄を省いたメンでも、手首のスナップのぶんロスがある)

 どれだけ極めても抗いようのないタイムロス。振らなければ当てられない。どれだけ足掻いても詰められない、時間の壁。

(振る必要さえなければ……)

 その意識に至ったのは、きっと必然だ。疾ささえ担保できれば、相手の守りを上回れると。守りは結局、反射反応でしかないのだから、反応の限界を超えるほかないのだと。

 ある意味で、人体の限界を超える挑戦だった。シナプスの反応速度を超える――すなわち光速を越える。普通に考えたら荒唐無稽だ。しかし、それ以外に方法が無いと思った。

(振らずに打つ。それ以外に方法が無い)

(……気配が変わった)

 僅かな呼吸の違いを察知できない撫子ではない。それは、ひとつのリズムと言っても良いのかもしれない。穂波のリズムが変わった。かつて、同じような経験をしたことがある。中学時代の須和黒江のことではない。もっと最近。ちょうど一ヶ月ほど前、得体の知れない一年生である秋保鈴音と戦ったとき――

(……は)

 警戒はした。だから、決して油断をしていたわけではない。なら、その時に撫子が見た景色とは何だったのか。


 一言で言えば、光である。


 およそ十年積み重ねられた穂波の研鑽は、無意識にひとつの答えへとたどり着いた。〝縮地カッコカリ〟を体現する強靭な足腰で、ただ真っすぐに相手の懐へ飛び込む。竹刀など振る必要は無い。真っすぐに飛び込めば、自ずと相手の最大の急所――喉元に竹刀が突き刺さるのだ。

 県下最速の足捌きで、考えうる最短距離から放たれる、唯一無二の〝振らない打突〟――ツキ。

 撫子も、審判も、会場の誰もかれも、何が起こったのか分からず、また圧倒されて動けなかった。シナプスの限界域で放たれた光速のひと太刀に、反応できる人間など居ない。

「……ツ、ツキありっ!」

 遅れて、三本の旗が一斉に上がった。会場の時間が動き出したのは、その時だ。わっと短い歓声のあがるコートの中で、撫子だけは今だ目を見開いて、呆然とその場に立ち尽くしていた。

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