モヤッと
――それから三〇分後。
「時間だから、ここまでにしよう」
息ひとつ弾ませずに竹刀を収める黒江の前で、私は汗だくになりながら自分の手元を見つめた。これが、アイソレーション――
「――って、全然わかんなかった!」
「だろうね」
思わずこぼれた泣き言に、彼女は予想通りと言わんばかりに頷く。
「これ身につけなきゃ、雲居さんに勝てないんじゃないの?」
「頑張れば引き分けにはできるんじゃない? チーム戦として考えたら、それで十分に役割は果たせる」
「それはそうだけど……」
個人戦と違って、団体戦は勝つことが全てじゃない。どちらかと言えば負けないことの方が重要。負けさえしなければ、チームのもっと強い人がポイントを取って勝利へと導いてくれるから。
「でも、同じ一年生だし、どうせやるなら勝ちたいって言うか。まあ、そもそも決勝に行かなきゃ戦うことすらも無いんだけど」
しどろもどろとなった私を、黒江はまた鼻で笑う。
「鈴音は欲張りだもんね」
「だから言い方ぁ」
悪態を吐きながらも、私はもう一度だけ竹刀を構える。
「あとちょっとだけ。せめて、何か掴むまで」
「だめ。先生との約束だから」
道場の隅で、監督として残った鑓水先生が、ムスッとした顔で胡坐をかいて頬杖をついていた。その冷ややかな視線を浴びながら、私はどうにか言いくるめる方法はないかと考えを巡らせる。
「鈴音、今日の試合でも体力ギリギリだったでしょ。ちゃんと休まないと」
それを言われたら何も言い返せない。仕方なく、構えた竹刀を収めた。見計らったように、先生がすくりと立ち上がる。
「着眼点は面白い。だが一朝一夕ってわけにはいかねぇな。前にも言った気がするが、鈴音、お前は今年が最後ってわけじゃない。そう生き急ぐ必要は無い」
「……はい」
気のない返事をしてしまったけれど、私自身も納得はしている。現実問題、どんなコンディションでも明日戦わなければならないんだ。間に合わないなら、間に合わないなりに足掻くしかない。〝今の私〟で、同世代の県内トップと戦うしか。
汗をかいたので、更衣室でジャージに着替えて帰り支度をする。本当ならシャワーも浴びていきたいところだけど、言われた通り「ちゃんと休む」ために、さっさと家に帰ってお風呂に入ることにした。
他の部員たちは、とっくに帰路についている。鑓水先生も道場の鍵を閉めたら、そのまま後者の方へ姿を消した。
他の部も大会期間だからか、夕方なのに体育館はしんと鎮まり返っていた。部活の喧騒が無いと、途端に寂しい場所のように感じる。
ふと、廊下の向こうから話声が聞こえた。話すというには、声がひとつしか聞こえないので、ひとりごとのようにも見えるけど、語り口は会話のそれ。電話をしているんだろうなっていうのに気づくのに、そう時間はいらなかった。
遠巻きに視線を向けると、小さな影がひとつ、差し込む夕日に照らされていた。部長だった。
「……はい、全国。約束通り、果たしました」
スマホの向こうの相手に、部長はそう語りかける。とても嬉しそうに、柔らかく笑っていた。いつものこけしみたいな表情に比べたら、ずいぶんと年相応の少女っぽくて。夕日のせいかもしれないけれど、頬もほんのり上気していて、あんな表情もできるんだって思わず見とれてしまった。
その後もいくつか言葉を交わした彼女は、名残り惜しみながら通話を切った。私のことに気づいたのは、それからすぐのことだった。
「秋保さん、調整は終わったんですか?」
「あっ、ええ、はい」
私は我に返って、ぶんぶんと大げさに首を振って頷く。
「家族に電話ですか? そう言えば、部長も寮生でしたよね」
同じく寮生の竜胆ちゃんから話は聞いていた。部長の出身は市街から車で三時間ほどの山奥で、始発のバスを乗り継いでも始業に間に合わないから寮に入っているらしい。
私の問いに、部長は首を横に振る。
「両親には、SNSでメッセージだけ送りました。今、忙しい時間だと思うので、電話は後にします」
「そうなんですね。じゃあ、誰に――」
流れで口にしてから、ちょっと突っ込みすぎちゃったかなと口を噤む。あんなに嬉しそうに話す相手が誰なのか、正直気になるけど、それを説明したら「見てました」って白状するみたいで申し訳ない。
「えっと……昔、お世話になった先輩に」
そう答えて、彼女は先ほどと同じように、柔らかい笑みを浮かべた。なんだろう、温かい気持ちになって、ちょっとだけキュンとした。
「秋保さん。急の代打になって申し訳ないですけど、明日はお願いします」
「い、いえ、足を引っ張らないように頑張ります」
「足を引っ張るなんてとんでもない。秋保さんは、立派なあこや南の戦力です。ただ、大事な場面を一年生に託すことになってしまったことは、申し訳ないと思ってます。きっと、当事者である蓮さんも同じ気持ちです」
安孫子先輩の名前が出て、少しだけ胸が痛む。あの時、「任せた」と言って肩を叩いてくれた彼女の手は、かすかに震えてやいなかっただろうか。いつも以上に、力が入ってやいなかっただろうか。
突然の抜擢で気持ちが空回りしていた時分、今になってようやく冷静になってみると、彼女がどんな気持ちで私に後を託したのか押したって図れない。
不安が渦巻く私に、今度は先輩としての威厳を湛えて部長が笑う。
「秋保さんの直前、中堅で私が勝ちます。そしたら秋保さんは、勝ったらすごくプラス、引き分けでもプラス、もし負けても差し引きゼロです。マイナスになることは決してありません。だから、安心して戦ってください」
「部長……」
「頼りにしてください。何と言っても、個人戦優勝の……その、つまり、県内で一番強い私が居るんですから」
言ってる途中から恥ずかしくなってきたのか、最後の方は口をもごもごさせながら、虚勢で胸を張ってるようにも見えた。だけど、彼女が言っていることは紛れもない事実だ。県内で一番強い人がチームメイトにいる。これ以上ないくらいに心強い。
「みんなで全国へ行きましょう」
「はい、みんなで」
そう言って、どちらからともなく拳をコツンと重ね合う。明日の決勝リーグに向けて期待と不安が半々だったけれど、今は少しだけ楽しみなほうに気持ちが寄っていた。
「今夜は鉄板焼きでーす!」
家に帰ると、満面の笑みの母親と、食卓のホットプレートと、沢山のお肉が出迎えてくれた。
「一年生で個人戦三位! すごいじゃない! 全国は残念だったけど、将来性あるってことよね! 今日は食べて!」
まくしたてる母親に、私は引き気味に笑みを浮かべる。
「あ、ありがと……確かに全国は無理だったけど、東北大会は行けるし。てか私、明日も試合出るし」
「明日って団体戦だけなんじゃないの?」
「スタメンの先輩が怪我しちゃって、補欠の私が繰り上がりで」
「あら!」
母親は、豆鉄砲を食らったみたいに目を丸くして、それから風呂掃除をしているらしい父親のところへ飛んで行った。
「お父さん、鈴音、明日も試合出るんですって!」
「おお、明日なら休みだから応援行けるな」
「お弁当作んなきゃ!」
「来なくて大丈夫だから! あと午前中で終わるからお弁当もいらない!」
勝手に盛り上がる両親たちに釘を刺して、私は自分の部屋に飛び込んだ。高校生にもなって、娘が試合に出るかどうかで一喜一憂するなんて、全くもって恥ずかしい。いや、私自身も一喜一憂してるけれど。
それから沸かしてくれた一番風呂に入って、ストレッチをして、じっくりと今日の疲れを取った。もちろん鉄板焼きはたっぷり食べた。
お腹が膨れて、自室のベッドでダラダラしていると、スマホにメッセージ通知が入る。黒江からだった。即開封してみると、何の説明もなしに動画のURLだけがぽんとトークルームに貼られていた。なんだこれ。
多少は怪訝に思いながらもURLを踏んでみる。すると、綺麗な黒い着物に身を包んだ女の子が、藤色の番傘を手に、華麗な舞を披露している動画が再生された。改めて、なんだこれ。ただ、動画に映っている子にどこか見覚えがあった。綺麗にまとめられていても、なおふわふわだと分かる柔らかそうな髪の毛。どこかぼーっとしたあどけない表情。どこで見たんだっけ。
日本舞踊なんて全く分からないけど、彼女の踊りは、妙に引き込まれるものがあった。キレよりは、流れるような身のこなし。髪の毛のようにふわふわと、体重も、重力すらも感じさせない立ち姿。見ていて心地が良い。心が湧くとか、滾るとかじゃなくって、癒される。
すっかり目を奪われてしまったので、遅れて動画のタイトルに目が行った。
――日本舞踊 御霞流宗家 雲居つきみ。
「え、これって」
思わず声が漏れた。雲居つきみって、あの雲居つきみ?
明日、優勝決定戦まで行けば当たる?
てか、剣道じゃなくて日舞って……どういうこと?
私の混乱を見透かしたようなタイミングで、黒江から着信が入った。すぐに通話ボタンを押して出る。
「動画見た?」
「見たけど、どういうこと?」
「雲居つきみが何者か知ってもらうのに、一番手っ取り早い動画を渡した」
確かに手っ取り早かったけど、代わりに情報は錯綜するばかりなんだけど。
「どう思った?」
「どうって……なんかふわふわして、心地よくて、見てて飽きない動画だったけど」
「それが、雲居つきみの剣道」
私の曖昧な答えに、黒江はそのものズバリと肯定する。
「彼女の剣道は、見ている人を魅了する。もちろん対戦相手も。目を奪われたら抜け出せない、心地の良い真綿の牢獄」
「……急に詩人になってどした?」
「他に表現する適当な語句が思い浮かばなかったから」
とっさの嫌味を、さらりと躱されてしまった。
「試合の動画とかないの?」
「ある。それも後で送る。でも、日舞の動画を見た方が、鈴音にとっては参考になるかも」
「どこが?」
「足元、よく見ておいて。袴姿の試合の動画だと、あまりよく見えないから」
首をかしげるばかりだったけど、そこまで言うなら明日の宿題だと思って見ておこう。ただ、夕方のアイソレーションの事といい、黒江がひとりの選手に執着を見せるのって初めてかも。どこかモヤッとする気持ちは、今だ私の中に、ライバルとしての自負があるってことなんだろうか。
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