ほの暗い海の底
船越の重い太刀筋が鈴音を襲う。速度、威力、そして迫力共に、先ほどまでとは比べ物にならない。
(これだけの力があるなら初めから振えばって思うけど……やっぱり、一本取られるのがスイッチか)
それもひとつのルーティンなのかもしれないと鈴音は考える。もっとも、その気持ちを理解することはできなかった。非常識。まさしく理解を超える強さ。
太刀筋の力強さは、先輩である薔薇に似ていると思った。しかし、その鋭さ、正確さは段違いだ。重い一撃は、有効打とならなくても受け身に入った相手の体力を削る。しかし、船越の一撃は違う。
肉を削ぎ、骨を断ち、敵に致命傷を負わせるかのように。竹刀ではなく、真剣で命の取り合いをしているかのように。試合というよりも死合いだ。
(このままじゃ押し負ける! 力勝負なら上段の範疇だけど……)
一撃一撃に重きを置く上段では、小回りが利きやすく、かつ同等のパワーまで持つ船越の中段に技の回転数で劣る。まともに竹刀を構える暇もなく、追いつめられてしまう。
「――コテあり!」
二本目が始まってから一分も経たないうちのことだった。上段に振り切るか、中段でしのぐか、迷いあぐねて浮いた鈴音の手元を船越の竹刀が抉った。面金の向こうで、鈴音が顔をしかめる。
完全に手玉に取られた形だ。船越の変貌は頭に入れていたはずだが、一度見るのと、実際に相対するのとではわけが違う。そもそも、その〝一度〟の相手は、先ほど先輩たちが死闘を繰り広げた左沢産業のレギュラー選手だ。鈴音自身が彼女たちと同様に動けるわけでもなければ、埋めることのできない地力の差を思い知らされた気分だ。
それは、船越もまた同じだった。
(もう少し骨のあるヤツだと思ったが、買い被りすぎたか)
高ぶる闘志を御して、彼女は冷静な目で鈴音を値踏みする。相手を知り、力量を的確に計るは狩りの基本だ。船越鳴希という剣士の本質は狩人だった。二本目から豹変したと見せかけ、その実、己のルーティンに則り気合に満ち満ちてはいるのだが、致命傷たる鋭い太刀筋がぶれることは無い冷静さ。それはまさしく、己より強き獲物に命をかけて挑む、狩人のそれだった。
もっとも彼女が心に描く狩人は、ヒトの形をしたそれではなく――
(午前中、あこや南の試合は見た。この秋保とかいうガキんちょは出て無かったが、沢産を乗り越えるに値する実力は確かにあった)
船越にとって、出られもしない団体戦よりも、己の身ひとつで戦い抜く個人戦こそが大会の花形という認識だ。だからレギュラー面子を差し置いて個人戦に出ている鈴音を、いかがな剣士かと推し量ってはいたが、いかんせん判断材料が少ない。ひと晩の余裕があったわけで、船越も鈴音の情報を集めるだけ集めようとかつての知人を当たったりしたが、得られた情報は今大会中のもののみであり、それ以外のことは何ひとつわからなかった。
(越境組……だとしても、有力な一年坊主なら情報があろうもの。得体のしれない相手なら、それはそれで楽しめるかとも思ったが)
思い過ごしか――もっとも、だからと言って気を抜き、手を緩めることはしない。取るに足らない獲物なら、そのまま喰らってしまうだけ。狩人の冷酷な闘気は、やがて捕食者の獰猛な気へと変わる。
喰われる――半ば生物の本能として、鈴音もそのことを察していた。しかし、思いのほか心は気丈を保っていた。勢いにこそ飲まれていても、仕切り直しのために開始線に戻る足取りはまだ軽い。
(早坂先輩に場当たりしてもらったおかげかな? 流石に、実物とは全然違ったけど)
それでも黒江の言う通り、心構えくらいはできた。流行病を前にしてワクチンを打つようなものか。すぐに効果が現れなくとも、一度冷静に戻ってみれば効いてくる。
「――勝負!」
主審が放つ決戦の合図。鈴音は、再び上段で見えるべく、左足を一歩前へ踏み出す。
(苦しい時こそ、一歩前へ……!)
(……ほう)
鈴音の姿勢に、船越は頭の中で定めかけた評価を直ちに彼方へ放り捨てる。
(目が死んでいない。手負いの獣ほど厄介で……楽しいものはない)
思わず口角がつり上がった。先ほどのように息んでそう見えるわけではない。愉しさからこみ上げた、純粋な笑顔だった。彼女の表情にさらされてなお、鈴音の闘志はくじけない。恐怖は恐怖のまま胸の内にある。
しかし、恐ろしくてもなお立ち向かう覚悟を人は勇気と呼ぶ。
(ベストエイトなんだ……一本取り返されるくらい当たり前)
鈴音は、船越のペースに飲まれないよう自ら懐へと切り込んだ。打たれる前に打つ。こういう試合になったら待つ方が不利だ。互いの攻めっ気をぶつけ合い、先に弱みを見せた方が飲み込まれる。二本目の鈴音がそうだったように。船越もそれを分かっているので、ノビのある上段の一撃を紙一重でいなしつつ、返す刃で主導権を鈴音に渡さない。
必然的に、試合は壮絶な打ち合いへと発展する。
「ふたりとも一歩も引かねぇって感じ……いいなぁ」
竜胆は、勝負の行方を固唾を飲んで見守る。言葉の通り、胸元で握りしめられた両の拳には、今あそこで戦っているのが自分ではないという悔しさが滲んでいた。力の限りの打ち合いは、彼女が好んで望む熱い試合展開なのだ。
鑓水が、腕を組んでため息交じりに唸る。
「言いつけを守って体裁は整えたが、こっから先は根競べだな……」
その点で言えば、身体が出来上がっていない鈴音の方が、体力的な面でいささか不利ではある。それをひっくり返すためには、ひとつでいい、ワイルドカードが必要だ……と。
「試合前の僅かな時間で仕上げられることはそう多くありません。鈴音は、今ある手札で戦うしかない」
内なる懸念を汲み取るように、黒江が静かに言い添えた。鑓水は、同意するように彼女を一瞥する。
「今の鈴音には、少々荷が重いでしょう」
「船越相手だ、無理もない」
「はい。でも――」
黒江は、鑓水に視線を合わせず、じっとコート上の鈴音を見つめる。
「――カードは一枚ずつ切らなければならないわけではありませんから」
コート上では、なおも熾烈な打ち合いが続く。何度かそれぞれに副審の旗が挙がりかけたが、どれも相打ちばかりで、満場一致の一本とはならなかった。
(へっ……根性あるじゃねぇか)
消耗していく体力とは裏腹に、船越は身体の奥底から力が湧き出てくるのを感じていた。そうだ。これが上澄みの戦い。この場に身を投じるために、実習続きで少ない自由時間のほぼすべてを稽古に当ててきた。
もとより全国の舞台へ駆け上がる気概はあるが、稽古量も設備も、全国だけを見据えている強豪校に比べて粗末なものだ。だからひと試合ひと試合を決死の想いで死力を尽くす。船越は狩人である。その一方で、自らが狩られる側であることも受け入れている。筋トレと同じだ。自らを逆境に置くことで、剣のセンスと心の超回復を己に課し、腕を磨いてきたのである。
(それが弱肉強食。あたしもまた手負いの獣)
獣は獣でも、船越が心に飼うのは、美しき海の捕食者――鮫だ。鮫は、人間が思っている以上に臆病な生き物と言われる。ダイバーが傍に寄って触っても、襲い掛かることはしない。
しかし、ひとたび傷を与えれば――己を手負いにした相手は、強靭な肉体を用いて追い詰め、容赦のない牙で襲い掛かる。それが、己よりも大きな体躯を持とうと関係ない。生態系の上澄みであり、海中の強者であるプライドと貫禄を発揮するのだ。
(疲れるだけ頭が冴える。息苦しくなるだけ身体が軽くなる。ほの暗い海の底が、あたしの狩場だ)
「やめっ!」
主審が打ち合いを中断させる。両選手ともに、肩で息をすることを抑えられないほどに疲弊している。彼女たちが開始線に戻ったのを確認して、彼は船越へ向かって指を突き立てた。
「反則一回!」
礼儀として、船越は謝罪の一礼をする。しかし、首の後ろの辺りでチカチカと熱が弾けるような心地がしていた。
(もう一歩深いところだ……光の届かない、深海の闇の中だ)
ぶるりと、悪寒が鈴音の背中をなぞった。肌に感じたのは、もはや闘気ではなく殺気だった。恐ろしい。しかし、踏み出した以上は後には引けない。勇気を振り絞るなら、今、ここだ。
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