一歩前へ

 昼休憩でしんと静まり返っていたアリーナへ徐々に人が戻って来る。午前中に比べて、賑わいはおおよそ五〇パーセント減といったところだろうか。これから先は、個人戦も団体戦も、下部の振いにかけられた後のツワモノたちの世界――と表現すると、そこに残っている自分自身がなんだか恥ずかしい気持ちになるけれど、事実は変わらない。

 むしろ事実だからこそ、私は中学のころとは違う確かな成長を信じ、受け入れることができる。


 私なんかが――そんな思いは、昨日の時点で捨て去っている。


 この県予選にかけた沢山の想いを押しのけ、踏みにじって、私はここに立っている。だから、胸を張って戦うんだ。彼女たちの想いが確かにあったことを証明できるのは、私自身の勝利に他ならない。

 一度お手洗いに向かってからアリーナに戻って来ると、コートの傍にあこや南の面々が揃っていた。

「あれ、みんな揃ってこっちに居て良いんですか?」

「そりゃ、我らのエースと期待のホープが生き残ってるんだもん。部をあげて応援しなきゃ」

 竜胆ちゃんが拳を握りしめて力説すると、傍らの部長が小さく頷く。

「対岸ブロックには二年生たちが偵察に行ってくれました。彼女たちの分も、良い試合をしましょう」

「はい、それはもちろんです」

 部長は、私の試合の後に同じコートで戦う。縁起を担ぐわけではないけど、ここでみっともない試合をしてしまってはチームの士気に関わる。個人戦はもちろん個人の戦いではあるが、チームのムードは選手にも伝播する。広い意味では団体戦と言えなくもない。

 それを考えたら、部長の試合が先の方が良かったなぁ……試合表に文句を言っても仕方がないのだけど。なんだか、強気の自分と弱気の自分が交互にやってきて、気持ちが安定しない。


 ――すぱーん!


 不意に、肌を打つような小気味のいい音が響いた。午後の部の開始前で、比較的静まり返っていたところだったので一層大きな音に聞こえ、私を含む、コート周辺に居た人たちの視線が一斉に向く。

「――っしゃあ!」

 コートの対岸で宝珠山の主将さんに似た、がっちりとしたいかにもスポーツマンって体格をした選手がひとり、顔を覆っていた両手を離して気合の握りこぶしを作る。いや、覆っていたというよりは、気合を入れるために両頬を張ったのだろう。その証拠に、ここからでも分かるくらいに頬が真っ赤に染まっていた。

「船越さんだ」

 思わずぽつりと溢す。先の試合で見た姿そのまま。そう言えば、試合の後も雄叫びをあげてたな。竜胆ちゃんも彼女を見ながら、考え込むように唸った。

「う~ん。見るからに戦闘マニアって感じだねぇ」

 戦闘マニアって……言わんとしてることは分かるけど。

 これから戦うって意識があるせいか、昨日見たよりも一回りほど身体が大きく見える。身長自体は私の方が高いだろうけど、なんていうかこう、筋肉量の差って感じだ。思わず、ぶるりと身体が震えた。

「怖いか」

 鑓水先生が私に問う。

「怖い……わけではないと思うんですが」

 かといって、武者震いと言うわけでもない。やっぱり、やる気半分、不安も半分。

「気持ちで負けそうになったら、一歩前に出ろ」

「はい?」

「踏み出せば、もう引くことはできない。迷ったら前に出ろ」

「……はい!」




* * *




 ――これより、山形県高等学校総合体育大会剣道競技、男女個人戦ベストエイトより決勝戦を執り行います。


 アリーナに響くアナウンスに釣られ、支度を整えた鈴音はコートの前に立つ。審判に入場を促されると、大きく息を吐き捨ててから、一歩前へと踏み出した。

「お願いします」

 踏み出せば引くことはできない。確かに、もう逃げることはできない。反則で負けるのは恥ずべき事だと、彼女は小学校のころに通っていた道場で教えられた。中でも場外での反則は特に。逃げるわけにはいかない。目の前に、これから自分を食らおうとする捕食者が迫ろうとしていても。

「はじめっ!」

 健闘を願う観客の拍手が鳴り響く中で、戦いの火ぶたは切られた。立ち上がり、鈴音は手筈通り上段で船越を迎え打つ。どういう意図かは分からないが、相手が序盤に弱いと言うのなら、一本を貰っておくついでにエンジンをかけておきたかった。社会において『調子に乗る』ことは悪いことの代名詞のようだが、ことスポーツに於いては決して忌避すべきものではない。俗にいう流れの良し悪しは、時に試合の大勢を決めることもある。

 鈴音は、自分自身をどちらかと言えばエンジンがかかるのが遅い方だと自覚している。試合終盤に疲れて来てからの方が集中力が増すような気がする。もっとも科学的に検証したわけではないので、あくまで「気がする」範疇なのだが。

(エンジンをかけるには仕掛けるのが一番……だったら、上段でいってしかるべし!)

 開幕から鈴音は、自ら前へ前へ打ち込み果敢に攻めていく。中段に構えた船越は、鈴音の打突を竹刀でいなすように躱しながらも、間合いだけは一定の距離を保ち続ける。まるで観察されているようだと鈴音は思った。ただし、あこや北のつばきのような分析される感覚ではない。自分がどれほど上等な獲物か、品定めをされているかのような、気味の悪い感覚だ。

 そのいい例のように、船越は適度に攻め込んできた。上段の最大の隙である「打った後」に合わせて、返しの一手を挟んでくる。そのタイミングが絶妙に的確で、鈴音は打ち込んでは防御に集中、また打ち込んでは防御に集中と、攻めているはずなのに攻め込まれているような感覚に陥る。

(押してるはずなのにペースが掴めない。終盤じゃなくたって、普通に強いじゃん……!)

 おそらく、その原因の大半は体格によるものだった。身長は鈴音が僅かに勝るものの、体感は船越のほうが勝る。果敢に攻めてぶつかった鈴音のほうが、跳ね返されるようにして消耗する。

 鈴音は、小学校のころの稽古で先生相手に掛かり稽古をしたときのことを思い返していた。こういう稽古で、先生が打たれ役になる場合、それはおおむね〝しごき〟の一環だ。小学生の体格じゃ、大人にいくらぶつかったって、相手はびくともしない。代わりにはじき返されて、体勢を立て直すために余計な体力を消耗して、いずれふらふらになって、またはじき返されて、転んでしまったりして、涙が溢れたりして、それでも制限時間いっぱいまでは終わらなくって。

 まさに今が、その時の感覚に近い。流石に転んで泣くことはないけれど、下手に攻めるだけ消耗するだけだと悟った鈴音は、ひと呼吸を置いて丁寧な間合いの攻防へと意識を切り替えた。

 打ち崩すことは、おそらく不可能だ。だったら、相手の不用意な打突を引き出して隙を生み出すしかない。上段から思いっきり飛び込みたい気持ちをぐっと堪えて、一足一刀の間合いから出たり入ったりして、相手が焦れるのを待つ。

 鈴音の予想通り、船越は自分のペースで待つのは得意だが、相手のペースで待たされるのは苦手なタイプだった。次第にふらふらイライラと切っ先が揺れ始め、鈴音がこれ見よがしに踏み込んだ瞬間、弾かれたように飛び出す。

 上段の弱点である、左コテを狙った一刀だった。当然、誘った側の鈴音は読んでいる。振り上げた竹刀でメンが守られている上段相手なら、狙い目は通常、コテかドウしかない。だが、応じ技でもない素のドウを試合で放つ人はそうそういない。

 となれば十中八九はコテ。

(黒江が言ったことの応用だよね。カウンター剣道は、自分が応じたい技をいかにして相手から引き出すかが肝心だって)

 だとしたら上段の構えを取ること自体が、カウンター剣道の駆け引きの一環となる。

「メンあり!」

 鈴音のコテ抜きメンが炸裂した。バックステップで相手のコテを空振らせてから、勢いをつけて飛び込んでのメン。上段から放てば、威力も迫力も折り紙付きだ。相手のコテを抜いた瞬間に、決まる確信が鈴音の中にもあった。

(よしっ……完璧!)

 心の中でガッツポーズをしながら開始線に戻る。切り替えが早かったおかげか、それほど消耗もなく、身体は程よく温まった状態たった。いくら相手が後半戦に強かろうと、このペースなら――

「二本目!」

 二本目が始まった瞬間、鈴音の背中にぞくりと悪寒が走った。マイナス何度の気温でキンキンに冷え切った手を、防寒具でホカホカの背中に差し込まれたような寒気。この瞬間、船越の姿に何か劇的な変化があったわけではない。

 たったひとつだけ、彼女はにぃと口角を吊り上げ、並びの良い歯を見せて笑った。たったそれだけで、鈴音は思わず委縮してしまうほどの恐怖を感じたのだ。

 それが笑みではなく、奥歯をぐっと力いっぱい噛みしめたことによる表情筋の歪みだと気づいたのは、直後に腹の底から絞り出したような、獰猛な唸り声が耳に届いたからだった。

「うぅぅぅぅぅぅぅぅるあぁぁぁぁぁ!!!」

 あえて文字を当てるならそうなるが、響いたのは母音も子音も曖昧な、文字通りの雄叫びだった。放たれた気合ひとつで、鈴音はコートの床がビリビリと震えるような錯覚に陥る。

 いいや、本当に錯覚か?

 否、震えているのが自分自身だと気づくためには、船越の闘気にあまりに飲み込まれ過ぎていた。

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