幻影
「せあっ! せあっ! せあっ! せああああっ!!」
船越の怒涛の太刀が鈴音を襲う。試合終盤になって、これだけの体力がどこに眠っていたのか。嬲るような勢いに、鈴音は一方的な防戦を強いられてしまっていた。
(力で対抗するには上段しかない……けど、構える暇もない!)
今は耐える時だと歯を食いしばるしかないが、悠長にする時間はさほどない。どこかで反撃の糸口を見つけないと、このまま食い散らかされてしまう。だからと言って焦ってもいけない。冷静と情熱の間で刃を研ぎ澄ますのが剣道だ。
「――やめっ!」
コート脇の計測員が、ホイッスルを吹き鳴らしながら黄色い旗をあげた。試合時間いっぱいの合図だった。審判に促されて、鈴音も船越も、コート中央の開始線に戻る。どちらも激しく息を弾ませていたが、闘志燃え滾る様子の船越に対して、鈴音は渋い表情ですっかり疲弊しきっていた。
試合時間いっぱいの場合、団体戦なら引き分け扱いとなるが、個人戦はそうはいかない。この後は、どちらかが一本を先取するまで、終わりのない延長戦へと切り替わる。あくまで〝一本〟のみを勝利点として考慮し、一本になっていない反則ポイントは勝敗に関係ない。少々ややこしいが、それがルールだ。
一反則を取られている船越は、相変わらず崖っぷちのままだが、このまま延長戦が続けばどちらが有利になるのかは推して知るべしだった。
「延長……はじめっ!」
大したインターバルもなく、すぐさま延長戦が始まる。船越は相変わらず、縦横無尽に鈴音を攻め立てた。単なる防戦なら、多少の休憩にもなるが、船越相手となると気を抜けば防御の隙間から牙をねじ込まれかねない。防御ひとつとっても気力と体力を消耗してしまうのが、鈴音にとって辛いところだった。
(考えろ、考えろ。高校生になって、新しいことをいろいろ覚えたじゃん。頭も柔らかくしたはずじゃん)
高校剣道をはじめて、まず自分のスタイルというものを捨てた。
スタイルに対するこだわりも捨てた。
それは、決して妥協したわけじゃない。凝り固まった考えを捨てることで、新しい道が拓けると思ったからだ。それを指し示した黒江の事を信じたからだ。
(カウンター剣道で仕留める……? でも、もう、最初の抜きメンみたいに上段を囮にはさせてくれない。かと言って、この状況で決め打ちするギャンブル剣道も危険すぎる)
運否天賦に自身の行く末を賭けることはできない。勝つために必要なのは、そこまでの筋道を立てることだ。カウンター剣道を決めるために、どうやって相手に欲しい技を繰り出させるか――
(覇気がなくなってきた……そろそろ限界か?)
鈴音が必死に思考する傍らで、船越は仕上げに掛かるべく間合いを切る。猛攻は、相手の気剣体を削る駆け引きになっても、仕留めの一本にはなかなか繋がらない。試合が決まる時は得てして、改めて構え直して気合を充足させ、ここぞという瞬間に互いの技が正面からぶつかり合った時だ。
間合いが切られたのをこれ幸いと、鈴音はようやく上段の構えに移行しようと竹刀を振り上げようとる――が、思いとどまって、真っすぐ中段のまま船越に相対した。船越の眉が、警戒するようにピクリと動く。
(ここにきて上段を捨てた……?)
(うう……ダメだ。腕も乳酸で限界)
単純に、身体が限界を迎えようとしていた。竹刀を振り上げたままキープする上段は、どうしても腕に負担がかかる。ただパワーが必要なだけなら、それでも良かったが、繊細で力強い船越の技に対抗するには、同じく繊細さの方が重要だと鈴音は判断した。だから、上段ではなくせめてもの正眼。仕掛けではなく、カウンターで試合を決めるという意志の表れだった。
しかし、この思い切りが船越をいくらか躊躇させるのに役立った。すぐさま一刀に伏してやるつもりだった船越は、鈴音の出方を伺うように慎重に間合いを詰めていく。
(不気味なヤツだな……だが、待ってるのも性に合わねぇ)
船越は挑発するように鈴音の切っ先をはじくと、すかさず懐へ飛び込みメンを打ち込む。鈴音は、よろけながらどうにか竹刀で防いで、再び正眼で対峙する。その姿を見て、船越は小さく舌打ちをした。
(単に力尽きただけかよ。つまんねぇ終わり方だったな)
舌打ちは、鈴音への不満というよりも、下手に警戒してしまった自分への戒めだった。もはや様子見は不要だとして、船越は改めて全身に気合をため込む。
直後のことだった。鈴音がふらりと間合いに飛び込んだ。あまりに不用心過ぎる行動で、逆に虚を突かれてしまった船越は、防御の姿勢を取りながら大げさに身を引く――が、すぐに首をかしげることになる。鈴音が先ほどの位置から動いていない。単純に、船越が大げさに間合いを開けただけという、不可思議な光景が目の前にあった。
(は……? 今、踏み込んだ、よな?)
訳が分からなかった。相手が動いていないと思っていたら、いつの間にか打たれていた――穂波の縮地カッコカリのような――ことなら、船越にも経験がある。それは熟練の技に、自分がついていけない未熟さによるものだ。
しかしその逆、〝動いたと思ったのに動いていない〟とはどういうことか。
戸惑いながらも竹刀を構え直す。中段同士は触れ合う竹刀で間合いを計れるからこそ、踏み込まれたという事実は確かなはずだが……。
(なんか、相手が躊躇してくれた?)
その実、鈴音自身も何が起こったのか理解できずにいた。彼女の目からすれば、船越が大げさな警戒と共に後ろに下がった事実だけ。確かに、少し間合いに踏み込みはしたけれど、打ち込む気配なんて全く放っていなかったはずだ。
試しにまた少し踏み込んでみる。今度は相手に大げさな動きはなく、冷静に間合いを切って、そろりと一足一刀の距離まで下がられた。
(気のせいか……だが、不気味なのは変わらねぇ。早いとこシメるべきだ)
二度目が無ければ、船越の戸惑いも一瞬のものだ。自分が手をこまねいている間に、相手に休憩の時間を与えてしまうと考えてれば、不安要素を押しつぶす勢いで攻め立てる方が性に合っている。
船越の意識が、前に向き直った。わざとらしく足を慣らして踏み込み、鈴音を威嚇する。鈴音は、不用意に挑発に乗らないよう、姿勢を崩さずにぐっと堪えた。相手のペースで動いたら狩られる。動くのなら自分のペースで。そう心に刻んで、じっと耐えた。
(そのつもりなら打ち崩すしかねぇな)
船越が動く。鈴音の竹刀を切っ先で払ってからの、強引なメン。もちろん鈴音に防がれるが、そんなことは織り込み済みだ。飛び込んだ勢いのまま、真正面から体当たる。構えるのも精一杯な鈴音の身体は、踏ん張ることもできずに弾き飛ばされた。
よろよろと後ずさったところに、すかさず追い打ちのメン。これもまた、ギリギリ竹刀で受け止める。また体当たりされては、流石に身体が持たないと判断した鈴音は、力任せに相手の竹刀をはじき返して、回り込むように距離を取る。たったこれだけの動作で息があがった。肺が押しつぶされたように、息が苦しかった。
(打たなきゃ……自分から打ち込まなきゃ勝てない……)
そうは言っても、頭の中は酸欠で真っ白にぼやけている。何も考えられない。それでも、正眼に構え直した身体は、馬鹿の一つ覚えみたいに一歩前に踏み込む。何も考えていないが、身体は戦うことを覚えている。
鈴音の踏み込みにかち合うように、船越が間合いに飛び込んだ。直前までのじれったい間合いの攻防の裏をかく速攻だった。鈴音は、反射的に手首を翻して前に出た。相手のメンに合わせて自分のコテを差し込む、出コテの動きだった。しかしこの技は、相手が動き始めてから動いたのでは遅い。
船越もそれを分かっていて、真っ向からメンを叩き込む。出遅れた技なら、上から被せるようにねじ伏せられる。その自信があった。
直後――船越はぐらりと足元をすくわれるような感覚に襲われる。何かがおかしい。もちろん、アリーナの床がゆがむなんて言うことはあり得ない。剣道に足かけの技もない。そもそも、実際に足元がふらついたわけではなく、言うなればそう――違和感だ。そうだと思っていたものが、実は違った時のような違和感。気持ち悪さ。つまるところの不気味さ。
(遠い……!?)
おかしいのは間合いだ。思いっきり踏み込んだのに、鈴音の面に竹刀が届かない。おかしい。船越も、何年も剣道を続けてきた身だ。自分の一足一刀の間合いを見誤るなんてことはあり得ない。
だとしたら、何かを仕掛けたのは鈴音のほう。船越の目には遅れて飛び込んで来たように見えた彼女の姿は、まだ遠く。視界の向こうで技を放たず、ぐっと下半身に力をため込んでいる様子があるだけだった。まただ。動いていると思ったら、動いていない。脳みそに発生したバグみたいに、船越の竹刀は〝いるはずのない〟鈴音の幻影を切り裂く。
対する鈴音の視界には、船越の切っ先が面金を掠めるのが見えた。彼女が行ったのは、思わず踏み込もうとしたのを、力いっぱい耐えただけ。他には何もしていない。船越が見た幻影も、鈴音自身は知りもしない。
相手の竹刀が振り抜かれたおかげで、上半身ががら空きになる。その刹那を見逃さず、鈴音はため込んだエネルギーを思いっきり開放した。
ズバン――と、けたたましい音を立てて竹刀が船越のメンに吸い込まれる。文句のつけようがなく、審判たちの旗が上がった。
「――メンあり!」
「よし来たぁ!」
息を飲んで見守っていた竜胆たちが、弾かれたように諸手をあげて叫ぶ。あげた手はやがて拍手に変わって、コートを包み込んだ。
拍手の中で、船越は一度だけ大きなため息をついて項垂れると、潔く開始線へと戻る。一方の鈴音は、天井を見上げながら、肩で激しい呼吸を繰り返していた。
「戻って」
「あ……はい、すみません」
主審に促されて、鈴音はようやく我に返って開始線へ戻る。
「勝負あり!」
試合終了を告げるその言葉が、鈴音の耳にはどこか遠く聞こえていた。もちろん勝った実感はある。確かに、相手のメンを打ち抜いた感触が手のひらに。しかし、それを喜ぶ以上に苦しい戦いだった。まだ、頭の中に靄がかかったような感覚。そして、身体全体が鉛のように重かった。
コート脇の陣に戻った瞬間、出迎えたチームメイトに挨拶する間もなく、鈴音はすとんと床に座り込む。そのまま、試合直後にそうしていたように、天井のライトを見つめて大きな深呼吸を繰り返した。
「戸田、藤沢。ビニールでもなんでもいい。袋を持って来てやれ。須和は面を外してやれ」
「は、はいっ!」
「はい」
鑓水の指示で、姫梅とつづみが控室に走った。その傍らで、黒江が結ばれた鈴音の面紐を解き、優しく面を外す。
「いいよ。小手も外すから、力抜いて」
黒江は、そのまま両のコテを外してあげると、面と共に鈴音の傍に置。多少身軽になって、鈴音はうずくまるように項垂れた。
「きっっっっっっっっつかったぁ!」
チームメイトが心配そうに様子を見守る中で、鈴音の第一声はそれだった。どぎまぎしていた面々は、互いに顔を見合わせてホッとした様子で苦笑する。
「お疲れ様」
隣に座った黒江が、相変わらず抑揚のない声で労いの言葉をかける。鈴音はうずくまったまま顔だけ彼女の方に向けて、精一杯強がったような笑顔を浮かべた。
「あと二勝……だからね」
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