二年も待ったぞ

 コート上の日葵は、大きな息を吐く。気持ちを切り替えるための深呼吸ではなく、単なるため息だった。もっとも、切り替えなければならないという気持ちは、もちろんある。ここまでリードしてくれたチームのためにも、二本目だけは絶対に取られるわけにはいかない。

 一方の外山は、思ったほど大したことない日葵相手に肩透かしを食らったような気分ながらも、気持ちはただ一心に勝利だけに向いていた。

(一本先取で勝利できれば十分と思っていたのに、これなら二本先取を狙った方が確実だな)

 ここで外山が二本目を挙げられれば、チーム勝数は二対二で同数。一方で取得本数は『あこや南:四本』『左沢産業:五本』となり、代表戦に望むまでもなく勝利が確定する。

 何事も謙虚に――そう思って、まずは代表戦と意気込んでいた一方で、外山は強者としてのプライドも持ち合わせている。かつての自分の見立てを否定するようで認めたくはなかったが、これまで打ち合った限り、彼女にとって日葵は明確に〝格下〟の存在だった。

 そんな相手に、しかもまだ県大会という場で謙虚にあり続ける意味などない。

「二本目!」

 外山は、それまでの慎重な剣道をやめ、いきなり前へと食って掛かる。日葵の士気を攪乱するように自ら間合いの内側へ足を踏み出し、不用意な打ち込みや防御姿勢を誘う。

 しかし、二本目を取られていけないのを分かっているのは日葵も同じこと。挑発やフェイントには引っかからない。いや、引っかかれない。下手に動けば打ち取られるのが分かっているから、ただひたすら防御に意識を裂くしかない。

(この一本だけで済まさなきゃ……ここを守りきれば、あとはきっと穂波が)

 代表戦になれば、程よく体力の回復した穂波が出る。沢産は外山が連戦になるであろうことを考えれば、ここで自分が時間いっぱいまで引っ張って体力を削るのは、ひとつの策だと考えた。とても後ろ向きで他人任せの策ではあるが、穂波の実力を信じていると言う一点は、曇りなく真っすぐなものだ。

 日葵が、間合いを切るように大きく下がる。外山はすかさず詰め寄るが、異変に気付いて途中で思わず足を止めた。日葵が竹刀を下ろした。

 上段を辞めて正眼へと戻したのだ。

(試合を捨てた……いや、隙の少ない中段で守り切るつもりか)

 日葵の表情に戦意は感じられない。勝つという心意気も。

(……残念だ)

 その言葉は、日葵へ投げかけるものか。それとも自分自身に問いかけるものか。あるいはその両方か。どちらにしろ、日葵が勝負を諦めたのは明白だった。

 外山が仕掛ける。中段相手ならば、下手な駆け引きは必要ない。相手の守りの上からねじ伏せるのみ。副将の田中が得意とする剣道も、それ自体が悪いわけではない。それ〝だけ〟だから、周りからやっかまれているだけだ。彼女の剣道が場面である場合も、こうしてある。

 どんな状況でも自分が有利になる動き方を考え、そのための稽古を積み、実践する。それが左沢産業の剣道なのだ。

「やめ!」

 外山の猛攻を受けて、日葵はなすすべなく場外へと押し出されてしまった。これで、もう一反則でも敗退。嫌がおうにもプレッシャーが高まる。

(もう下手なことができない……)

 精神的にすっかり弱ってしまったせいか、開始線に戻るさ中でつい、日葵は自陣の仲間たちのことを振り返ってしまった。レギュラーもサポーターもみな、必死の形相で祈るように手を合わせて自分の試合を見つめている。

(そんなに私に期待しないで……私だって必死にやってるつもりで、それでもこうなんだから……)

 こんなことならやはり、みんなにどれだけ批判されようと、鈴音にスタメンの座を譲るべきだった。個人戦の彼女の試合は、当然日葵も見ていた。一年生ながら堂々として、素晴らしい試合だった。俗っぽい言い方をしてしまえば『歴戦の風格がある』と、そう日葵に思わせるような立ち姿だった。仮に彼女があこや南の大将だったとして、異議を唱える者がいただろうか。自分なんかよりも、よっぽど安心して任せられるんじゃないだろうか。

(それでも……先生は、なんで私を大将に)

 わからない。何ひとつ成果を出していないのに。

 ふと、陣の中にいる穂波の姿に目が止まった。彼女だけは他のチームメイトとは違って、祈るような真似はせずに真っすぐ姿勢を正して、真剣に試合の行く末を見守っている。半分は、あるかもしれない代表戦に向けて、気持ちを整えているだけかもしれない。けれどもそれ以上に、絶対の信頼をその表情から感じ取る。

「三年になったら、穂波が中堅で日葵が大将。私は副将あたりかなぁ」

 一年の県予選の直後、学校での締めのミーティングを終えて帰る途中に、蓮がそんなことを言った。

「あとは、楓香が力をつけて先鋒か次鋒になってくれると嬉しいけど」

「ま、待って。穂波ちゃんが一番強いんだし、大将は穂波ちゃんじゃないの?」

 既定路線のように語る蓮に、日葵は慌てて口を挟んだ。蓮は「えー?」と不満げに首をかしげると、決を求めるように傍らの穂波に視線を落とす。

「私も、日葵さんが大将の方が安心します。どっちかと言えば中堅の方が好きですし」

「ほら、本人もこう言ってる」

 穂波の言質をとって、蓮がこれ見よがしに笑みを浮かべる。

「えぇ……じゃあ私が副将やるから、大将は蓮ちゃんが」

「私こそ大将って感じじゃないじゃん。それに、ふたりより劣ってることは自覚してるつもりですしー?」

「あと二年もあるんだから、その間にもっと強くなれるよ」

「二年もあるからこそだよ。私も、私なりにこの部でやるべきことを磨いていきたい。三年の夏に全国に行くためにね」

 三年の夏――あの頃は遠い未来の話だと思っていた。まだまだ高校生活だって始まったばかりだったし、日葵なりに夢や希望も持っていた。それが、あっという間に今や三年の夏だ。

 この三年間、自分は何をしてきたんだろう。穂波は今や、全国級の剣士と渡り合えるように成長した。蓮も、彼女が言った言葉そのままに、チームのために自分ができることを精一杯成し遂げている。楓香だって同じだ。

 それに引き換え、彼女たちの友人Aである自分はいったい――

(結局、先生の課題も最後まで身につかなかったし……)

 人見知りな性格を補うために、イケイケの自分を演じる作戦。多少板についてきたころから友人やファンは増えたものの、結局、剣道には結びつかなかった。

 いいや、そもそも結び付けようと努力しただろうか?

(ここ一番で勇気を出さなきゃいけない時のルーティーン的な意味はあった。でも、これまで剣道をやっていて〝ここ一番〟なんて機会がなかったから)

 まさしく今がそうじゃないか。自問するまでもなく、分かり切ったことだ。

「反則一回!」

 審判の裁定を横耳に、日葵は開始線で竹刀を構え直す。

(ええと……ど、どんな感じだと良いかな。『倒しちゃうぞ☆』ううん、これは何か違う。じゃあ『忘れられない時間にしてあげるよ☆』これも変……えっと、えっと……)

 必死に、自分の中でのイケイケなキャラを思い描く。今この瞬間、自分に力を与えてくれるのは〝どんな私〟?

(私は、物語の主人公じゃない。主人公の友人A。彼女の夢を支えて、後押しする役どころ。だったら――)


 ――日葵さんが大将の方が安心します。


 あの日の穂波の言葉を思い出す。


 ――頼むよ、大将。


 つい先ほど、蓮から託された想いを胸に刻む。

 クライマックスは、主人公が決めるのだ。友人の役目は、そこまでのお膳立て。そこまで彼女を連れて行くこと。

(ピッタリの台詞がパッとは思いつかないけど……ありきたりでも良いのなら)


 ――ここは任せて先に行け!


(……とか、かな)

 瞬間、何かが自分の中に〝入る〟のを日葵は確かに感じていた。

「はじめっ!」

 仕切り直しの合図が響く。それまで正眼に構えていた日葵が、再び上段に構え直す。外山はそれを、彼女の自暴自棄と思ったが、身に纏う闘気を感じ取ってすぐに考えを改める。

(姿勢が変わった……?)

 事実を確かめる間もなく日葵のメンが飛ぶ。咄嗟に竹刀で受け止めた外山は、突然増した技の威力と切れの良さに戸惑う。

(何があった? 数秒前とは別人……!)

 先ほどまでの意趣返しのように、外山を矢継ぎ早に攻め立てる日葵。通常ならば連撃に向かない片手メンから、手首の返しだけで鋭い追撃を放つ姿に、不用意な防戦を押し付けられてしまう。

 このままだとペースに飲まれると判断して、外山は無理矢理間合いを切って距離を置く。額から、じっとりとした汗が伝った。

(理由は分からないけど気持ちが吹っ切れたか。こちらとしても願ったり叶ったり)

 温い試合で決勝リーグへの進出を決めるなんて、いち剣士として望みはしない。外山とて、強くなるために左沢産業高校へとやって来たのだ。そして強くなった自分は、同じくらいの強者との試合に勝つことでこそ証明される。

(それにしても何だ、この人……剣の軌道が読めなさすぎる)

 それは、全力の日葵と戦ったことがある人間にしかわからない感覚。彼女の強靭な手首から放たれる剣閃は、鞭のようにしなやかに、右から左から上から変幻自在に外山を襲う。同じ人間のはずなのに、何本もの腕で襲い掛かる阿修羅のように――

「日葵が全力で戦えてる……」

 コート脇で楓香が息を飲んだ。反則一本でも取られたら負けという緊張感の中で、全く違った胸の高鳴りが全身を満たしていく。傍で、鑓水が膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。

「腹くくんのが遅いんだ、バカ。二年も待つことになったぞ」

 コート上では、再び間合いを切っての仕切り直し。しかし冷酷無比な静かな闘気を滾らせる日葵に対して、外山は表情に疲れが見え隠れしていた。

(手数は負けても、一本一本の速度なら分がある……!)

 相メンに勝負を持ち込む。外山は覚悟を決め、全身に力を溜める。これまでで最も疾く、最も力強い一撃を、相手より遠い間合いから差し込む。これまで磨き続けてきた技の真骨頂であり、すべての基本である〝メン〟その一本に。

 互いの気合が充実する。ここから先はタイミングの勝負だ。相手より先に動いても、後に動いてもダメ。同時に動き出し、相手よりも先に技を決める。純粋な練度の差が試合に終止符を打つ。

 しんと、コート上もその周りも、不自然なくらいに静まり返った。観客も決着の気配を感じ取ってか、咳払いひとつも立てて邪魔をしてはなるまいと、息を殺して、瞬きも忘れて、二人の動きに集中する。

 刹那、二者同時に踏み込んだ。

 相撲で言えば立合い。互いの気が重なり合った瞬間。放たれたそれぞれのメンは、剣道に慣れ親しまない者が見たら、切っ先が消えたようにも見えただろう。張りつめた弓が解き放たれるように、竹刀と竹刀が真っすぐに交差する。永遠にも思う一瞬。しかし、時は確実に未来へ向かって進んでいる。

「メンあり!」

 旗が上がっていた。副審のふたりは白、赤の二分。そして主審は――赤。

 わっと、耐えきれない歓声がコートに溢れた。きわどい、それでも文句のつけようがない日葵の一本だった。勝機を逃した外山は、竹刀を抱えるように胸元に抱き寄せて、ぐっと目を閉じる。それから大きくひとつ息を吐くと、強がるように、口元に笑みを称えた。

「やめ!」

 勝負の三本目に入った瞬間に、制限時間いっぱいの笛が鳴り響いた。試合を止めた主審は、そのまま両手の旗を頭上高く挙げて交差させる。

「引き分け!」

 決着の言葉。大将戦の決着でもあり、チームとしての決着でもある。コートから出た瞬間、日葵は大きなため息をついた。今度は心労のため息ではない。重責を果たした、充実と安堵のため息だった。

「ナイスファイト」

 振り返ると、整列のためにレギュラー陣がコート端に並んで日葵のことを出迎えていた。みな控えめに、小脇で日葵に向けて拳を向ける。流石にひとりひとり迎えるわけにもいかず、日葵も小さく拳を突き出し、遠巻きに合わせる真似をする。

「ありがとう」

 口にする彼女の表情には、向日葵のように大輪の笑みが浮かんでいた。

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