煮え滾っとるやん

 ――副将戦。


 赤、あこや南。安孫子。

 白、左沢産業。田中。


 竹刀を構えた蓮は、思たよりも落ち着いている自分に気づく。コートに入る前は心臓バクバクで、仲間に強がってみせるくらいでしか気持ちの整理をつけられなかったのに。これも慣れやルーティンと言うべきか。もしくは、試合が始まってしまえば逃げ場なんてないっていう、ある種の諦めによるものかもしれない。

 早坂コミュニティニュースの情報通り、沢産の田中は、試合開始の合図と共に構えを上段に移行する。

(ギラついた目しちゃってさ……)

 蓮は、相手の眼力に静かに息を飲む。中段相手であれば竹刀の切っ先を中心にいろいろなところへ向く意識が、上段相手となると開けた面金の向こうの表情に向けざるを得ない。それもまた、上段が持つ強みのひとつだろう。

(あこや南、なかなかやるやん。イーブンで出番が来るとは思わんかったで)

 田中の心中にあったのは、大事な局面を任された重責というよりは、予想外の難敵に出会えた喜びだった。畿内からわざわざ東北へやって来たのは、もちろん出来うる限りの出場機会を得るためだ。

 田中は、兎にも角にも試合が好きというタイプの剣士だった。強い相手ならなおいい。それで勝てたらもっと良い。言い方は悪いかもしれないが〝合法的に人と戦える場〟なのだ。彼女は、純粋にそのことを楽しんでいる。

(ポジションは副将までしか上がれんかったけど、うちに求められとるのは繋ぐ副将やない。勝つ副将や。ここまで来るのにほっこりしたけど、うちは今、最っ高にハッピーやで)

 前向きな気持ちは、たいてい試合においていい影響を与える。前に前にと意識を向けることは、着実に勝利への道をまい進していくことに他ならない。

 攻めっ気の強い相手に、蓮は半ば呆れながら竹刀を右方へ開く。穂波が使ったのと同じ平正眼だ。

(こっちも良いようにやられるつもりはないってね)

「副部長も平正眼だ……」

 穂波の時同様、応援席の鈴音は驚いて成り行きを見守ることしかでしかなった。

「平正眼はもともと、蓮と穂波が覚えたくて始めたことだったんだ。当時は、日葵を練習台にしてたかな」

 鈴音の隣で、楓香が昔を懐かしむように語る。全国レベルの学校と当たれば、必ず上段の選手がいる。そして勝たなければならない。県下でくすぶっていた時から、上を目指して準備していたことだ。

(とは言え、私の平正眼は〝やらないよりマシ〟レベルだけどね。ちょっとでも嫌がってくれたら御の字だけど……)

(残念! 平正眼くらい対策しとるに決まってるやん)

(だよねぇ)

 言葉は交わせなくても、相手の表情や、実際の動きで、何を考えているかは何となくわかる。もっともこの場合、田中の言う「対策」は「気にしない」程度のことであり「攻略」したというわけではない。ただ、この「気にしない」ことこそが、田中にとっては最も重要なことなのだ。

 田中が仕掛ける。上段から放たれる、重く鋭い打ち込み。守りに徹した蓮は竹刀で受け止めるが、ギシリと、手のひらまで伝わった技の威力を痛感する。

(やば……握力なくなりそう)

 アスリートの身体には、パワーよりもしなやかさが必要だと思う蓮は、純粋な筋力増強のためのトレーニングをほとんど積んで来なかった。事実、剣道に求められるのは〝技の正確〟さなので、試合が力勝負になることは、生涯かけてもほとんどないだろう。

 しかし、その〝ほとんど〟のうちのひとつが、今目の前の相手によって繰り広げられようとしている。正面からあたるのは不利だ。そう判断して、蓮は試合場を広く使えるよう、右に左に、側面から回り込むように間合いを調整する。

(なんや、コスい剣道するなぁ。こういう性格のヤツ多いから副将は嫌やねん)

 心中で悪態はつくものの、田中とてそういう剣道があることも認めるし、頭から否定するわけではない。

(どうせ戦うなら先鋒のヤンキーとか、次鋒の頭でっかちちゃんの方がよかったなぁ。さっさと終わらせて次いこか)

 蓮が時間稼ぎに回ったと判断した彼女は、一方的な攻勢を強めていく。攻撃が最大の防御という言葉は、上段にこそ相応しい。常に攻める姿勢を見せ、プレッシャーをかけ続けることで、多少の隙をカバーしてしまえばいい。

 そのために身につけた純粋な筋力。パワー。真上から攻撃を叩きつけ、鍛えた体感で体当たりすれば、相手が返しの一手を打つ余裕などない。

「やめ!」

(おっと……また、やりすぎたわ)

 主審に試合を止められ、田中は小さく舌を出しながら開始線へと戻った。勢い余って、足がコートの枠線を越えてしまった。

 場外は反則一回の扱い。反則は二回で相手の一本となるが、だからこそ〝一回まではいい〟。場外が怖くて、コンパクトな剣道になるくらいなら――と、そういう思考だからこそ、このスタイルを曲げずにこれたのもあった。

(まあ、反則の価値はあったわ)

 力勝負に持ち込まれた蓮は、試合時間がそれほど立っていないというのに、表情に疲れが見え始めていた。すっかり自分のペースに引き込んだ田中は、そのまま一気に畳みかけた。

「メンあり!」

 疲労で動きが鈍ったところに、田中の片手メンが決まる。こちらは疲れを微塵も感じさせない、弾けるような溌剌とした一撃だった。

「安孫子先輩、頑張れ!」

 場外から鈴音たちの声援が響く中で、蓮はわざとらしく大きな深呼吸をする。場外の仕切り直しと違い、一本が決まった後の仕切り直しは、多少時間をかけて構え直しても許される空気がある。十秒にも満たないインターバルではあるが、その間に全力で休むことに徹する。呼吸をして酸素を取り込む。酸素を血液に載せて全身に運ぶ。

(なんや、闘志あるやん)

 蓮の表情を見て、田中は薄く笑みを浮かべた。これで戦意喪失になられたら、それこそ価値のない試合となるところだった。まだまだやる気に満ちているのなら、こちらだって全力で叩き潰す面目が立つ。そういう勝負ができてこそ、彼女は試合に出る意味があるのだ

「二本目!」

 主審の掛け声とともに、再び田中のメンが炸裂する。受け止めた竹刀がひしゃげるんじゃないかというほどの衝撃と、直後の体当たりを受けて、蓮は為す術なくよろめいた。

(もうちょい基礎トレにも時間を割けばよかったかな……ははは)

 頭の中で、自虐的な笑みを浮かべる。体力的にもかなりギリギリのところだけど、思ったより心に余裕があった。試合前に鈴音に語った、格上に挑む覚悟というやつが、思ったよりできていることに驚いたのは、ほかでもない自分自身だったのかもしれない。


 そもそも、蓮が中学まで続けていた剣道部を高校でも続けていたのは「なんとなく」であるところが大きかった。一応、同中学でかつ小学校の剣道クラブから同門でありながら、高校は別々となった宝珠山の南斎千菊と「高校でも続けて大会で会おうね」なんて、青春めいた約束はしたものの、剣道に対するモチベーション自体はそれほど高くなかった。

 適度な運動は体形維持に繋がるから、運動部には入ろうと思っていた。だけど、高校から新しいスポーツに挑戦するのもなぁ……なんて思って、結局は続けていた剣道に戻ってきたわけである。事実、当時のあこや南高校剣道部は「適度に運動をする」部としては最適解だった。

 直近に卒業した世代が全国大会で好成績を残したこともあり、部の雰囲気はいい。女子高だからと、多少の人間関係の不便も覚悟していたけど、校風のおかげか、それとも徹底された実力主義のおかげか、みなサバサバとして居心地がいい。しっかりと汗を流して、休む時は休んで遊ぶ。そんな理想的な環境。

 レギュラー争いにも興味がなかったし、補欠あたりでそれとなく青春に混ぜてもらえばいいかな。そんなのほほんとした気持ちで迎えた、部の初顔合わせの日。蓮は、八乙女穂波と出会った。

「目標は全国大会出場です」

 自己紹介で、やたらハキハキとした口調で宣言した彼女の姿を今でもよく覚えている。二年も前のことだから、今よりちょっと幼く、あどけない顔立ち。三年で部長となった今では、すっかり貫禄がついているが。

 純粋無垢な向上心と、小動物感のある可愛らしさも持つ穂波は、あっという間に先輩たち含む部員一同に気に入られていった。剣道の腕も、当時はまだまだ粗削りなところもあったが、全国を目標に掲げるのに相応しいだけのものを持っている。

 蓮の心の内には、「ヤバイ子と同期になっちゃったな」……なんて思いはなかった。半ば部のマスコットと化した彼女のことを、蓮もそれなりに好きだった。しかし、その時はまだ、穂波が語る〝全国〟の重みを知りはしなかったのだ。

 一年時に既に十分な実力を備えていた穂波は、団体戦のスタメンこそ機会を逃したが、補欠としてレギュラー入りを果たして個人戦に出場させて貰えることになった。ちょうど、今年の鈴音のような形だ。

 代わりに出場枠を逃した先輩たちからやっかまれることもなく、みんなの期待を受けて穂波は県予選に出場。見事、個人戦ベストエイトに輝いた。個人戦の全国出場枠は、準優勝までの二枠なので、目標へはあと二勝届かず。一年生ながら他校の強豪と戦い抜いた穂波のことを、みんな温かく祝福した。

 しかし、試合で負けて面を脱いだ瞬間、穂波は声をあげて泣いた。

 もはや汗か涙か分からないほど大粒の水滴を頬に伝わせ。激しい試合で息切れ寸前のたどたどしい呼吸で。枯れかけの喉で。それでも穂波は、わんわんと泣いたのだ。

 この時、蓮は初めて穂波が〝全国〟の二文字にどれだけの想いを込めているのかを知った。十分に稽古を積んで、三年目の今日になって目指すんじゃない。今この瞬間、既に彼女は全国大会へのチャンスをものにしようと死に物狂いで稽古をして、戦っているのだと。

 自然と、蓮の頬にも涙が伝った。もらい泣きと言えばそうかもしれないが、彼女自身の中で動かされるものがあったことに疑いの余地はない。他の部員たちと一緒に、穂波に覆いかぶさるように抱きしめて泣いた。本当の意味で、あこや南高校剣道部――特に、蓮たちの世代がひとつになった瞬間だった。

(あの時から〝全国〟は、みんなの目標になった。穂波の夢が……彼女を全国の舞台へ連れて行くことが、私たちの夢になったんだ。だから――)

 勝てたら良いなじゃない。勝つんだ。見上げるようなレベルの強豪が相手であっても。

 つくづく、個人戦に出場しなくて良かったと思った。そもそも、穂波以外の三年を個人戦に出さず、後輩たちに任せたのは蓮の提案だった。結果的には、純粋に体力がある人たちを選出した形にはなったが、他のメンバー――特に自分自身が、団体戦だけに全ての力を出し尽くすことができるようにしたかった。

 そもそも、自分が個人戦に出場したところで結果はたかが知れている。だったら、団体戦で余力の出し切って潔く散ろうと。むしろそのくらいの気持ちでなければ、全国クラスの剣士たち相手に渡り合うことなんてできないと思った。

 今日の試合はこれで終わり。だから、試合が終わった後にいくらぶっ倒れようと関係ない。

「さぁぁぁぁぁあああ!!」

 腹の底から気合を絞り出す。気合とは、相手を威嚇し、自分を鼓舞するためのもの。「今からお前を倒す」と言う、宣戦布告の雄叫びなのだ。

(なんやこいつ、急に畳みかけてきよった……!)

 先ほどまでの慎重な剣道から一変、猛攻を始めた蓮に、田中は虚を突かれる。しかしそれも一瞬のこと。むしろ、こういうがむしゃらな打ち合いは、彼女の得意とするところだ。

(ええで。ここで決着つけようや!)

 猛攻には猛攻を。田中もまた、得意のパワー剣道で応じる。激しい打ち合いになれば、自然と相打ちが増える。相打ち勝負になれば、より「相手を仕留めた」と思わせる力強い太刀筋の方に軍配があがる。田中は今日までそうやって戦い、勝利を収めてきたのだ。

 ズバン、ズドンと、互いのメン打ちが飛び交う。速度自体は紙一重。一瞬、副審の旗が白に上がりかるが、ほか二人の審判が旗を交差させ「無効」を示し、なあなあになる。

 こういう勝負になれば、選手たちはもう審判の判定なんていちいち気にしていない。旗が上がった上がらないに一喜一憂することなく、力の限り斬り結ぶのみ。

 田中の体当たりで蓮の足元がよろめく。これ好機と、身を引きながらの担ぎメンで、さらなる一撃を見舞う。蓮は、不格好な姿勢でどうにか受け止めると、引き下がった相手にすぐさま追撃の一手を仕掛ける。

 なんてことはない、真っすぐなメン打ち。ただもう、残心を考える余裕などなく、身体ごと相手にぶつかっていくような、決死の一撃だった。

(こいつ、まだこんな――)

 うわっと、会場に悲鳴ににたどよめきが起こった。田中が引きの最中だったせいか、蓮の体当たりを支えきれず、ふたりしてもみ合うようにコート傍で応援する観客たちの中へ吹っ飛んで行ったのだ。ぐしゃっと、人間ふたりが板の間に倒れ伏す鈍い音が響く。

「先輩!?」

 鈴音が息を飲んだ。遠巻きに眺めていることしかできない彼女には、ただ成り行きを見守ることしかできない。

 やがて、倒れたふたりがゆっくりと起き上がる。方や、ぴょんと飛び跳ねるように立ち上がった田中が、よろよろと身を起こした蓮に手を差し伸べる。

「グラグラに煮え滾っとるやん。見くびってたわ」

「……そりゃどうも」

 嬉々とした表情で引っ張り上げてくれた田中に、蓮はせいいっぱいの強がりで笑い返す。呼吸を整えながら開始線に戻ったふたりに、主審は交互に目くばせをした。

「反則一回」

 蓮が、無言で頭を下げる。

「反則二回……一本!」

 田中に向かって指を二本突き立てた主審が、赤旗を高らかに上げる。同時に、ホワイトボードのスコア表に刻まれる「マル反」の文字。文字通り気合でもぎ取った、巻き返しの一本だった。

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