本物

 現在の、あこや南の戦績は〇勝一敗一分け。リードは奪われているものの、残りは中堅から大将までの三人のため、十分に巻き返しはきく。もし仮に、大将までやって一勝一敗三分けなんて形になれば、追加でもう一試合代表戦が行われるのが団体戦の基本ルールだ。登板する選手は、スタメンの中からなら自由なので、あこや南であれば穂波が出るのが妥当な線だろう。

 そこまで繋ぐためにも、まずはなんとか一勝を取り返さなければならない。


 ――中堅戦。


 赤、あこや南。八乙女。

 白、左沢産業。徳永。


 ここまでの二戦と違い、両選手がコートに足を踏み入れた瞬間、会場の空気があからさまにひりついた。他コートでの試合や応援の喧騒は、アクリル板ひとつ隔てているかのように、どこか遠い世界の出来事みたいで。このCブロックコートの周囲だけ、みじろぎひとつ憚られるくらいに、しんと鎮まり返っていた。

「はじめ!」

 主審の一声で、蹲踞の状態から両者一斉に立ち上がる。真っすぐ芯の通った正眼の構えを取る穂波に対し、相手の徳永は開幕から竹刀を振り上げ、左諸手の上段で対峙する。徳永の身長は鈴音と同程度で、女子高生基準で考えればかなり高いほうだ。一方の小柄な穂波と比べれば、ほとんど頭一個分の差がある。

 通常であれば体格差で不利にも見えそうなものだが、あこや南のチームメイト陣の中に不安な顔をする者は誰一人としていない。先の薔薇や鈴音、〝規格外〟の身長を持つ日葵を含め、見上げるような剣士を相手をばったばったとなぎ倒す、普段の穂波の姿を知っているからだ。

「あれ……部長の構え、なんか変じゃありません?」

 違和感を覚えた鈴音が声を上げる。相手が上段に構えたのに合わせるように、穂波が切っ先を僅かに右側に開いた。正眼の構えは「相手の正中に狙いを定めるべし」だが、今の構えは、完全に相手の左コテ辺りに向いている。

「ありゃ、平正眼だ。上段相手にメンとコテを警戒する、中段の変則系だな。上段以外には使い物にならんが」

「へぇ」

 鑓水の解説に鈴音は小さく頷く。流石に全国出場を目指して稽古を積んで来た剣士だ。必ず相対するであろう上段相手の対策を講じていないわけがない。

 両者とも、〝構え〟という最初の手札を見せ合って、ジリジリと間合いのせめぎ合いへと入る。間合いが広いという徳永の長所を警戒してか、穂波はやや深入りするような位置。一方の徳永は、無理に下がることはせずどっしりと構えている。

「流石は全中ベストエイト。焦らされても落ち着いてるッスね」

 そう評する熊谷の方が、じれったそうにやや前のめりの観戦スタイルとなっている。もっとも、焦らされる気持ち自体は、ほとんど全員同じだった。

 互いに下手に動けない。馬鹿正直に打って決まるような試合なら、これほどの緊張感が演出されることもないだろう。時おり強く踏み込んだり、身体を緊張させたり、〝動〟のフェイントをかけてくる徳永に対して、穂波も左コテを狙うように切っ先をずらしてみたり、逆に軽く振り上げてみたりと駆け引きに余念がない。

 沈黙が破られ、どちらかが打ち込んだ瞬間に、試合は大きく動く。そんな予感に満ち溢れていた。

 均衡を破って――先に仕掛けたのは、徳永だった。一度間合いを切って、大きく離れてからの、すかさずのメン。身長、上段、片手メン。その才能をフル動員しての、前評判に違わぬ超リーチの一刀。穂波は、手首のスナップだけで相手の竹刀をはじくように防ぐと、そのまま後ろに下がって引きメンで応じる。総じて、片手メンとは左手一本で竹刀を支えているわけであり、守りに転じるためにいくらかのタイムラグを必要とする。しかし徳永は、即座にその強靭な手首で軽々と竹刀を振り上げ、穂波の面を防いだ……かと思いきや、すぐさま右手を竹刀に沿え直して、返しの片手メンをもう一撃見舞う。

 咄嗟のことに、穂波は上半身をのけぞらせるようにして回避を試みる。ギリギリの距離だったが、相手の一撃は面金の縁に当たってどうにか事なきを得た。

(八乙女穂波……新人戦とは別人だな)

 対峙する徳永は、背筋に冷たい汗が流れていくのを感じていた。昨年の秋、県新人戦で目にした穂波の試合に対する評価は「県下での有力選手」という程度のものだった。もっと言えば、一年の夏の大会からそうだ。

 県外勢である徳永は、左沢産業に入学し、剣道部に入ってからの最初の一年間は、ひたすら県内の有力選手や情勢の把握に勤めていた。もともと、入部テストを経て一握りの精鋭ばかりを揃える沢産の剣道部では、BチームやCチームも出場できる地方の錬成大会を除いて、一年生が大事な試合に関わることはまずない。

 中学時代にどれほどの成績を残していようとも、高校生活の全てを稽古に費やし、実力が最大限に高まった二年の秋から三年の夏にかけてが、選手生命としての晴れ舞台でピークであった。

 彼女の目線から、あこや南高校剣道部は、決して弱小チームではない。しかし、強豪校でもない。数年前に一度だけ全国大会で名を轟かせたことはあるが、たまたまレベルの高い選手が集まった世代だったという一過性のもの。そのころの選手たちはとっくに卒業してしまっているし、安定した中堅校の立場に収まっている。

 しかし、その中に置いても目を見張る存在。一年の夏からレギュラーに抜擢され、ベストエイトまで叩き上げたシューティングスター。徳永は、この三年間、八乙女穂波のことを人知れず注視していた。

 実力はまだまだ――だが、化けると怖い。

 高一の夏に感じていた懸念は、今や現実のものとなった。

(意識の変化……覚醒……いや、どちらかと言えば上を知ったというべきかな)

 この場合の〝上〟とは、〝県下〟の対義語としてのもの。つまり、全国レベルの剣道と相対する機会があったということ。

(須和黒江と稽古を積んだんだろうね。羨ましい。それは、私が望んでいたことだったのに)

 漠然と、須和黒江は沢産に入るのだと思っていた。だから、徳永もスカウトの話が来た時点で、二つ返事でこの高校を選んだ。実力者と稽古を積めば、己の実力も育つ。相手が全国優勝の逸材であるならば、なおさらだ。

 だが〝ベスト〟ではなかっただけで、沢産での生活は、徳永自身をも確かに強くした。先輩たちは全員が全国級の猛者。こうして三年時にチームを組むことが運命づけられた、同学年の友人たちも、ストイックに高みを目指す強い心の持ち主ばかり。レベルの高い選手と、レベルの高い稽古。

 その集大成が今日なのだ。そこらの学校に比べれば、積み重ねてきたものの重みが違う。


 相変わらず切っ先を右に開いたの平正眼で、付かず離れず、一定の距離を保ち続けていた穂波が、間合いを切るように後ろへ身を引いた。好機だと思い、徳永は遠く開いた間合いを歯牙にもかけず、抜群のリーチで一気に懐へと飛び込む。間合いを切ったつもりで、気持ちが弛緩しているのか、穂波は反応するそぶりを見せない。

 仕留めた――徳永の予感が確信へと変わったかに思えたその瞬間、目の前に居たはずの穂波の姿が消えた。

(な――)

 ひと呼吸遅れて、左コテに鋭い打突の衝撃。取られた。身体はどうしようもなく認めているのに、頭での理解がどうにも追いつかなかった。

「コテあり!」

「わぁっ!」

 高まり切った緊張の反動か、あこや南の応援陣がわっと沸き立つ。

「コテって左側狙っても良いんですね?」

「うん。上段相手だったらね」

 相手校の一年生たちが、穂波の雄姿にきゃいきゃいと盛り上がる中で、徳永もようやく自分が何をされたのか受け入れることができた。

(まさか、あの技? 身を引く時に発動したことなんてなかったのに……!)

 ずっと警戒していた徳永だからこそ、穂波の例の技について、ある程度の知見は持っている。あれは、真っすぐ構えて真っすぐ打ち込んだ時に発動するもの。引きながら発動するような技では無かったはずだ。

(八乙女穂波……やはり本物か!)

 目をかけていた他校の選手が、真の実力者であったことに対する、ある意味での安心感と優越感。好きだったインディーズバンドがメジャーデビューしてブレイクした時の古参ファンのような気持ち。

 その喜びとせめぎ合うのが、今この相手と対峙しているのが自分自身であるという焦燥感と絶望感。どうにか落ち着いて構え直すことができたのは、徳永自身も全国を戦い抜いたプライドがあるからに他ならない。

(今で良かった。まだ私たちには、個人戦もあるんだ)

 気持ちを切り替え、目の前の小さな怪物相手に、どうにかこうにか食らいつく。新人戦までは、間違いなく穂波の方が挑戦者と言うべき立場だった。しかし今、実力差は完全に裏返っている。否応なしに解らせられたからこそ、徳永もまた死力をとして立ち向かうことができるのだ。

 しかして、コート脇の計測係から制限時間いっぱいの笛が鳴る。

「やめ! 勝負あり!」

 主審の赤旗が上がると、大きな拍手がコートの周囲を包み込んだ。試合は一勝一敗一分け。試合前の穂波の宣言通り、再びイーブンへと取り返した。

「さすがエース」

「でも、ギリギリでした」

 陣へ戻る穂波と副将の蓮が、先の面子がそうしたように、拳同士をぶつけあって試合のバトンを託し合う。

「蓮さん、大役を任せてごめんなさい」

「うん? いいのいいの。部長が頑張ったんだもん、副部長だっていいとこ見せなきゃ」

「最悪、どうにか繋いで代表戦にさえ持ち越せれば、私がもう一度頑張ります」

「おっと、それは心外。最悪の前に最高を考えようよ。この先だってあるんだからさ」

 蓮は、八重歯を見せるように笑うと、身を翻してコート中央へと視線を向ける。その瞳には、いつになく強い闘志と、不退転の覚悟が滲み出ていた。

「バシッと決めてくる。私が、みんなを決勝に連れて行く」

 それは、自分自身に言い聞かせる暗示の決意でもあった。

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