挑戦者たち
半ば連れ込まれる形になったパウダールームは、ウナギの寝床みたいな細い間取りの部屋に、数人分の鏡と化粧スペースが並んだ、ちょっとした楽屋のような作りになっていた。
今このタイミングに化粧なんてする人は、当然のようにおらず、室内は私と安孫子先輩のふたりきりとなる。あっけにとられて棒立ちの私をよそに、先輩はスペースのひとつを確保すると、ポーチの中からじゃらじゃらとメイク道具を取り出した。
「これから試合だってのにメイクですか? 汗でどろどろになっちゃうんじゃ」
「耐水性のものを使えば、一~二試合くらいは余裕で持つもんだよ」
言いながら、彼女はてきぱきとアイライナーを引いていく。まるっと全部メイクするわけじゃなく、崩れたところの手直しといった様子だった。
「先輩って、普段から練習のときもメイクしてましたっけ」
「練習の時は流石にしないかな~。直してる時間ないし、それこそドロドロになっちゃう」
「じゃあ、わざわざ試合の時だけ?」
なんか、ちゃらちゃらした感じがしない……?
と思うのは、私がそう言う文化の中で育って来なかっただけのことなんだろうか。でも、今日この会場に集まっている剣士のほとんどみんな、化粧なんてしていないだろう。ウチの他の選手はもちろん、一さんや、清水さんだって――まあ、清水さんは、化粧しなくても十分に整ってる系のずるい人だけど。
先輩は、メイク中と言うのもあるけど、口元だけ苦笑する。少し不自然だけど、お母さんもメイク中に声かけるとあんな感じだなと思い出す。
「試合だからこそ、万全の状態で臨みたいじゃん。竹刀がささくれてないかチェックするのと同じだよ」
「はぁ……そういうもんですか」
言わんとしていることは、なんとなく分かるけど、やっぱりイマイチぴんとこない。私が化粧なんかして試合に出たら、汗で崩れないかどうかの方が気になって、余計に集中できないと思う。
「鈴音ちゃんもおいで。ラインくらい引いたげる」
「ええ、いや私は別に」
「いいから。それこそ試合に出ないうちは、崩れるとか気にしなくていいじゃん」
またまた強引に、私は隣の席に座らされてしまった。先輩は私と向き合うと、閉じた私の目蓋に、慣れた手つきでリキッドを走らせる。
「私さ、三年の中じゃそんなに強くないじゃん」
「え?」
突然の問いかけに思わず目蓋を開きかけたけど、「まだ動かないで」と優しく一喝されて思いとどまる。顔を良いようにいじくられている最中だってのに、答えにくい質問までされて、心の中までいいようにされてる気分だ。
「穂波は、言わずもがな強い。日葵だって単純な実力は、私よりもずっと上。楓香――ああ、早坂楓香ね。彼女は初心者だから、流石に負けるつもりはないけど、顔が広いコミュ力強者なのが、私とは大違い」
「私からしたら、安孫子先輩も十分にコミュ強だと思いますけど」
私のことを剣道部に入れたのも、実質は先輩が原因みたいなものだし。
「あはは、だとしたらまさしくメイクのおかげかもね。私、こう見えて自分に自信がない方だから」
「全くもって、頷きがたい話です」
「それ、悪い意味で行ってるでしょ。ま、いいけど。メイクしてるとさ、力が湧いてくるんだよね。堂々と胸を張れるっていうか。私が彼女たちの隣に立って、戦って良いんだって。他校の強い選手たちに挑んで、勝とうともがいたって良いんだって」
「強い人相手に勝とうともがくことって、普通のことじゃないですか? 許可がいるわけでもない話で」
「そう言うところは、やっぱり鈴音ちゃんも全国経験者だね。挑むだけならまだしも、勝ちたいって思うのには、すっごいエネルギーがいるもんなんだよ。そのうえ、勝ちたいだけじゃなくって、本当に勝つためにはもっともっと」
目元からリキッドの筆先が離れていくのを感じる。たぶん終わったんだろうけど、「終わり」とも言われてない私は、中途半端に動けないままだった。すると今度は、ひやりとした感覚が私の唇に触れた。どうやらリップも塗ってくれているようだ。
「唇、自分で馴染ませて。それでおわり」
「ありがとうございます」
私は、上と下の唇を軽く擦り合わせると、パッと開いて鏡に向き直る。本当にライン一本引いただけの目元は、さっきまでよりも力強く印象的で、ほんのりピンク色の唇には、血色の良さからくる生命力が感じられた。
「さっきの話、最後のだけは私にも分かります」
「最後の?」
「本当に勝つためには、もっとエネルギーがいるって話」
口にした瞬間、ぶるっと震えが足元から頭の先っぽまで駆け巡った。
「どうした、武者震い?」
「あ、いえ……その、お手洗い行こうと思ってたの忘れてました」
すごく良い話をしていたところに恥ずかしくって、私は消え入りそうな声で答える。先輩は、綺麗に整った目をぱちくりさせてから、噴き出したように笑った。
「いいよ、行っといで。私も道具片付けたら、アリーナに戻るから」
「すみません。あの、メイク、ありがとうございました。確かにちょっとだけ、力出た気がします」
「そりゃ良かった」
人懐こく笑う先輩を置いて、私は大慌てでパウダールームを後にする。
試合をするとき、負けてもいいなんて思ったことは一度もなかった。それはスランプだった中学後半の時も同じこと。負けても良いと思って試合に臨むのと、負けてしまったのとでは、全然意味が違う。
結果として勝てないことを悟った私は剣道を辞めてしまったけど、先輩はその中でももがくことを選んだんだろう。メイクの力を借りて、自分を奮い立たせてでも。そうやって割り切れた先輩のことを、少しだけ、ほんの少しだけ、カッコいいと思った。
アリーナに戻ると、先輩はとっくにチームに合流して試合の準備を進めていた。
「あー! 鈴音ちゃんお化粧してる! ずるーい!」
やって来た私の顔を観るなり、竜胆ちゃんが素っ頓狂な声をあげる。すると、熊谷先輩がニヤニヤと含みのある笑みを浮かべた。
「あらら、ミイラ取りがミイラになってたみたいッスね」
「これは安孫子先輩が無理矢理……」
「良いんじゃないスか? どうせなら試合中その目力でずっと、相手チームにプレッシャー与え続けて欲しいッスね」
もっと怒られるかと思ったけど、どうやらそんなことは無いようだ。そもそも安孫子先輩の化粧を当たり前のように受け入れてるチームだしね……これくらい、取るに足らないことなのかもしれない。
「じゃあそろそろ私の出番かな?」
「出た、早坂コミュニティニュース」
「何ですかそれ?」
部長が聞きなれない単語を口にするので、私は思わず聞き返してしまう。
「楓香さんのコミュニティによって得られた情報なので、早坂コミュニティニュースです」
部長は、大真面目な顔で答えてくれた。なるほど、意味を考えてみたらそのままだった。
「次の相手は、ご存じ左沢産業高校。県内トップの実力校で、注目すべき選手は……まあ、全員かな?」
でしょうね。トップ校っていうのはそう言うもんだ。全員が全員、他の学校だったらエース級の実力を持つ。だからこそ安定して有利な試合展開と、常勝をほしいままにできる。
「先鋒の庄司さんは千葉県出身。三年。中学時代の最高戦績は県ベストフォー。去年の新人戦ではベストエイトで宝珠山の清水さんに負けてる。軽快で手数が多い、THE先鋒って感じの選手だよ」
「ウチの日下部ほどの速度は無いが、代わりに一本一本にパワーがある。まともに打ち合えば消耗するばかりだから、中川、多少後手に回っても良いから上から被せるように打ち崩していけ。調子に乗らせねぇとガンくれながらな」
「うす」
早坂コミュニティニュースに、鑓水先生が具体的な対策を乗せていく。情報はあくまで情報でしかないわけだから、対策を講じてこそである。もっとも、それは相手のチームだって同じことだろう。県内勢かつニ三年が主体のあこや南は、より詳細なデータを取られていると見た方が良い。
「次鋒、押野さん。三年。今年のメンバーで唯一の県内出身。最高戦績は中学県優勝。ただし二年の時の話で、三年は二位。須和ちゃんが現れたからね。じっくり構えて要所を抑える剣道で、弱点らしい弱点がないかな。強いて言えば終盤にかけてエンジンが掛かっていくから、序盤はおとなしめかも」
「日下部は、いつもの調子でガツガツ攻めてけ。その無尽蔵のスタミナの活かしどころだ。ただし、温い打ち込みはするなよ。すぐに返されるからな」
「はい!」
「中堅、徳永さん。三年。宮城県出身。中学の戦績は県優勝。全中ベストエイト。新人戦もベストエイトで、鶴ヶ岡南の現主将に負けてる。上段の使い手で、恐ろしく間合いが広いのが特徴かな」
「間合いの広さなら八乙女も負けてないが、やはり手元のリーチが違う。焦って、下手にいつもの技に頼るな。お前がこれまで地道に積み重ねてきた基本を大事にしろ。堪えれば必ず勝機が見える」
「はい」
部長にとっても、ここが正念場だろう。相手は名実ともに実力者。生半可で勝てる相手ではないとしても、勝てなければ全国なんて夢のまた夢。先生の言う通り、これまで積み重ねてきたものが試されている。
「副将、田中さん。三年。唯一の西日本は滋賀県出身で、同じく上段の使い手。中学県ベストフォー。比較的、調子に左右されることが多いみたいだけど、それも〝他の四人に比べたら〟の話。副将ながら、ガツガツ攻める剣道が得意だよ」
「田中は前のめりの剣道だが、調子づくと手に負えなくなる。一方で空間認識が甘いのか場外反則を取られがちのようだ。しっかり間合いを切って仕切り直せ」
「はい」
返事と共に、安孫子先輩はぐっと拳を握りしめる。勝とうと意識するためには、エネルギーを使うと彼女は言った。おそらくは多少力んで、絞り出すことになっても。頑張れ、先輩。
「最後に大将、外山さん。三年で主将。新潟県二位で、全中ベストフォー。昨年の新人戦でもベストフォーで穂波を倒しての準優勝。県下最強クラスの実力者だね。こちらも上段の使い手で、これまた弱点がないタイプ。まあ、上段の弱点がそのまま弱点ってなっちゃうのかな」
「北澤……いけるな?」
他の選手たちと違い、先生は日葵先輩の事を見つめて、そう問いかける。先輩は多少身じろぎしたうえで、静かに頷く。
「は、はい」
「分かった。上段相手だ。お前も上段で行け。常に前へ前へプレッシャーをかけ続けろ。教え子のひいき目なしに、実力自体は遜色が無いと、私は思っている」
「あ……ありがとうございます」
「あるのは覚悟の違いだ。強豪校の大将としての覚悟、外山にはそれがある」
「覚悟……」
「私は、精神論を教えるつもりはない。ただ、前へ踏み込み続けることで、こちらにもその覚悟があるように思わせろ。退いたら負けと思え。できるか?」
「……わかりました」
日葵先輩の返事に間があったのは、理解が遅れたわけではなく、自分の中でかみ砕く時間が欲しかったからだろう。それこそ、覚悟の問題だ。彼女の瞳は、未だに憂いで揺れている。それでも、頷き返した以上は戦うのだと、その志だけは輝きの奥にたたえているような気がした。
ひと通りのアドバイスを終えて、鑓水先生はもう一度メンバーの顔を見渡す。やがてふっと不敵な笑みをこぼすと、パンと力強く手を叩いた。
「よし、行ってこい」
「はい! ナンコー、ファイト―!」
「おぉぉぉぉ!」
部長の発破に合わせて、レギュラーメンバーだけでなく部員全員で気合を入れる。まるで決勝戦のような光景だが、それがいい。私たちはこれから王者に挑む――いいや。
王者を倒すのだ。
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