かすかな闘志

「中段……か。鈴音のヤツ、応じ技主体で戦うつもりか?」

「いえ、違います。あれはむしろ、逆」

 鑓水は、中学までの鈴音の剣道を知りはしない。出会った時は既に、多少なり黒江の師事を受けたあとの状態だったからだ。だからこそ、彼女が中段の構えを取った時点で、その意図を理解できたのは、おそらくこのコートの観客の中では黒江と、撮影係を引き受けている蓮くらいだ。

(確かに意表は突けるかもしれない。だけど、あなたの〝それ〟はまだ――)

 こと黒江において、目の前の試合に対して不安を感じるということはない。それが自分の試合であっても、誰かの試合であっても。試合というのは稽古の成果を発揮する場でしかないから、一喜一憂する必要もなければ、自分ができる以上のことをする必要もない。だから不安は感じない。緊張もしない。予想しうる結果だけがそこにある。

 だからこそ、彼女の思考回路が警鐘を鳴らしていた。〝その剣道〟では、つばきに勝つことはできない――と。

(上段を捨ててわざわざ中段……? そんなもの、こちらからしたら慣れた剣道ができるだけで、余計にありがたいくらいなのに、何を考えているの? それとも、何も考えていないの?)

 警戒するつばきは、〝見〟に回りながらも鈴音の意図を読み取ろうと必死だった。自分が確実な一本を決めるための、最高の一手を相手に打たせるには、十分な相互理解が必要だ。相手の事を知り、相手にも自分のことを知ってもらう。むしろ自分の苦手をさらけ出すことで、相手に「しめしめ」と思わせて、ほくそ笑んだところの勝利をかっさらう。

 それが、つばきなりのカウンター剣道だった。もちろん、黒江のそれとは全く違う。黒江のカウンター剣道は、極限の打ち合いの果てに「これしかない」という一打を相手から引き出す。それを、さらに上回る一刀で切り捨てる。強者の剣道だ。

 チームメイトという特等席で、彼女の剣道を目にしてきたつばきは、当然のごとく憧れ、自分のものにしたいと思って来た。しかし、いくら望んでも越えられない壁はある。それを〝才能〟と呼ぶのは断固として拒否していたが、壁を無理やり壊すのではなく、少しずつレンガを積み上げて階段を作ることはできる。

 つばきの目指す剣道の完成形は、須和黒江であることに変わりはない。今の〝見〟主体の剣道は、その道中なのだと自らに言い聞かせてきた。そんな志半ばに現れた〝黒江の代わり〟と言わしめる存在、秋保鈴音。つばきにとって、面白いわけがない。

(私には一切手ほどきなんてしてくれなかったのに……なんで、いきなり)

 否――そもそも、手ほどきをしてくれなんて、頼んだこともなかった。彼女は孤高の女王だったから、近寄りがたかったし、他のチームメイトも含めてそういうものだと勝手に思い込んでいた。須和黒江の邪魔はしない。だから、稽古の邪魔にならないように強くなろう。彼女の全国連覇への道を妨げないように――

(私は掴んだ。自分の力で自分の居場所を……それを、外様から来たぽっと出の馬の骨なんかに!)

 つばきの心中は、同じ名を持つ花のように真っ赤に燃え上がっていたが、〝見〟を司る思考だけはいたってクリアだった。それゆえに、やがて鈴音の剣道に対する違和感も察知する。

(この子の剣道はなに……? リズムがない……と言うより、意図的に外している?)

 応じ技で仕留める以上、相手の呼吸やリズムを計るのは重要だ。重要なのだが……つばきは鈴音からそれを計れずにいた。それは、鈴音自身が黒江に勝つために生み出した、対カウンター剣道のための剣道。カウンター・カウンター剣道。ないしはアンチカウンター剣道と言っても良いのかもしれない。意図的にリズムをずらせるようになったのは、無意識のものだった。ただとにかく〝カウンター剣道〟にとって、嫌だと思われるようなことをする。その考えのもとで稽古に励み、研鑽の末に身に着いたもの。そう言うと聞こえはいいが、黒江は気づき、鈴音自身もうすうす気づいている欠点があった。

 意図的に外したリズムは、自身の気発のタイミングもズラし、技に思うような力が伝わらなかった。気剣体の〝気〟を損じている状況。つまり、有効打たり得る一本が出にくい。実際に相対したことがある黒江は、鈴音が中学生活の後半でスランプに陥った原因が、そこにあると踏んでいた。だから上段に挑戦すること自体は、彼女にとってプラスになるとも思った。中段には、無意識のアンチカウンター剣道が刷り込まれているから。


 そして、これは黒江は表立って指摘していないが、鈴音にはあの抜群のコートコントロール力がある。これまで練習試合やら、リーグ戦やら、鈴音の試合はひと通り目にしているが、彼女は一度たりとも場外による反則を取られたことがない。決してあり得ないことではないが――鈴音のそれは、体捌きの面で異常だ。仮に後ろの見えない引き技の最中であっても、まるで背中に目があるかのように、ビタリと場外のライン際で止まる。フィールドスポーツであれば、稀にコートを俯瞰する視点を持つ〝鷹の目〟の持ち主がいることもあるが、それに似ているか近いものだとしか考えられなかった。

 もっとも――場外を極度に恐れるのは考えものだ。それでも、広い間合いを必要とする上段にとってはプラスに働くことも多いだろう。それは、鑓水が鈴音に上段を勧めた理由の一端でもあった。

(どうする、つばき。このままじゃ埒があかない……けど、この子、つかみどころがなさすぎる。フリースタイルのラップじゃないんだから、そんな場当たりな剣道で勝負が決まるわけもないのに)

 思考回路は冷静ながら、つばきの心中には多少なり焦りがにじむ。そろそろ時間がない。〝見〟には著しい集中力を使うので、延長戦までは体力が持たない。ただでさえ、中学から一分間も増えた試合時間だ。これに適応させる体力を身につけるのが、つばきが高校に入学してから今日まで二ヶ月間にできたことの全てだった。なお、中三の部活引退から卒業までの半年間は、受験勉強で心身ともにいっぱいいっぱいだった。

(……こうなったら自信は無いけれど)

 つばきは、気合を入れ直すように小さく息を吐く。鈴音もまた、彼女が纏う空気が変わったことを敏感に察知した。

「さぁぁぁぁぁぁ!!!」

 気合が弾けるのと共に、つばきが動いた。それまでの〝見〟のための、牽制のような一撃ではなく、しかと一本を狙うための攻撃的な仕掛け。逆にリズムを外された鈴音は、慌てて防戦に回る。

(動き方が変わった? 焦って慎重さを欠いたというよりも、これは――)

 練度の違いこそあれ、鈴音は目の前の剣道に覚えがあった。仕掛け技でも一本を取れる確かな地力。それでいて狙うのは、切羽詰まった相手が放つ、今わの際の一撃。

 これは、黒江の剣道だ。つばき風にアレンジされたカウンター剣道ではなく、手本にしたであろう黒江自身の――

 鈴音は無意識に、少しだけ間合いを広く取った。見よう見まねの模造品であっても、かつて自分が勝てなかった剣道に対しての、当然の警戒心だった。

(皿どころか毒そのもの……確かに、すごく黒江っぽい)

 この一という剣士は、よほど黒江のことをよく見ていたんだろうということが、鈴音には手に取るようによく分かった。真似るためではなく倒すためと理由は違えど、自分も黒江の試合映像は、目をつぶっても思い出せるほどよく〝見〟ていたから。

(だけど……ぽい、だけなら)

 それは、剣士としての意地でもあった。黒江本人ならまだしも、真似た相手に負けたくはない。負けるようなことがあるなら、黒江がさらに遠い存在のように思えてしまうから。

 鈴音の心中など察する余地もなく、つばきはこれまでの待ちを一変させ、圧をかけるように攻め立てる。

(隙は待つのではなく作る……それが、あなたの剣道だったわね。黒江)

 待つことしかできない自分は、まだまだ半人前なのだと理解している。技量と練度が足りないことも。

(いつまでも半人前ではいられない。否――殻を破らなければ、いつまでも半人前なんだから)

 つばきは、一度攻勢を止めてまっすぐに構え直した。鼻から大きく息を吸い込み、身体中に酸素を取り込む。次で決着をつけると覚悟を決めた。立ちはだかる壁――鈴音の姿が、やたらと大きく見える。それが怖気づいたせいだとしたら……つばきは恐れを振り払うように、ここ一番の気合を発する。

 自分から動くつもりはなかった。動いたとしても、動くようにみせかけるだけ。攻めの姿勢を見せたからこそ、〝みせかけ〟の効力が増す。あとはタイミングだけ。相手も自分も、思わず動いてしまったと思えるタイミングを。

(まだ……まだ……)

 中段で交わされた互いの切っ先が、気持ちを急くように小刻みにぶつかり合う。あとはパンパンに膨らんだ風船と同じだ。破裂した瞬間。抑えきれなくなった瞬間。それが決着の時だ。

 今だ――と、つばきが仕掛けた。厳密には動くわけではなく、僅かに竹刀の切っ先を振り上げただけ。フェイントだ。釣られるように鈴音が踏み込む。飛び込むような大股の動きではなく、刻むような小さな踏み込み。

 しめた――と思い、竹刀をそのまま大きく振り上げる。スナップを効かせて放たれた、鈴音のコテを抜く。

 決まった――かに思われた。少なくとも、つばきはそう信じて疑わなかった。鈴音が、ひと呼吸耐えるように踏みとどまった瞬間までは。

(あっ……)

 気づいた時には、既に自分の身体は大きく開いていた。メンを打つため、竹刀を頭上に振り上げたまま。

 鈴音の竹刀が翻る。鍛えた手首の強さに任せて、縦の動きから、横の動きへと。無防備になった、つばきの胴に吸い込まれるように。

「――ドウあり!」

 文句のつけようがない抜きドウだった。正しくは、コテ抜きメン抜きドウ、か。審判の旗があがったのを察した瞬間、鈴音は大きく、それは大きく息を吐きだした。うまくいったのは、ほとんど偶然だった。本当は、鈴音は、出コテを打ったつもりだった。リーグ戦で竜胆を下した、あの技を。だけど、つばきがコテを抜くつもりなのだと、直前で咄嗟に理解できた。だから無理を承知で堪え、竹刀を引いたのだ。

 そこからドウを放てた理由は――鈴音自身、よく分からなかった。ただ強いて言えば、黒江ならこういう場面でドウを決める、そんな脳内のヴィジョンに従ったまでのことだったのかもしれない。

 この決着に、何より息を飲んだのは黒江だった。カウンターにカウンターで返す、その見事な一手を褒める意味もあったが、何よりも、望んだ形の決着がついたはずなのに、胸の内がひとつドクンと鳴った。だらりと振り下ろしていた左手の指が、竹刀を握るようにゆっくりと絞られる。

 黒江自身にとっても無自覚の、純粋な闘志がかすかに芽生えていた。

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