最初の爪痕

 面紐を結び終えて、大きくひとつ深呼吸をする。馴染んで来たとはいえ、まだまだ染料の青い香りがする新品の防具は、まだパリッとした糊の固さが拭えない。周りの剣士たちに比べれば、いかにも一年生って感じがぬぐえないけど、そこは仕方がない。小手を嵌め終えたころには、そんな雑念は頭の外にぽーんと投げ出されていた。

「じゃあ、行ってくる」

 言い残すと、黒江が無言で頷いたのが見えた。前の試合が終わり、引き払った選手と入れ替わるようにコートの縁に立つ。試合場を仕切る、約十メートル四方の白線。昔、通っていた道場では、この線は生と死の境目だと教えられた。真剣勝負ならば、勝って帰ってくれば生き、負けて帰ってくれば死んでいる。時代劇じみた古い剣術論だけど、分かりやすくって私は好きだった。勝敗を決めるスポーツをやっているのだもの、どんな綺麗ごとを並べたって、勝つ方が良いに決まっている。

 審判に入場を促され、白線から一歩踏み出す。ここから先、私はひとりだ。目の前には試合の相手。初めて名前を聞いたような他校の生徒。同い年なのか、先輩なのか。実力のほどは。何ひとつわからない。顔すら知らない。そんな目の前の相手と、いきなり「武器を持って戦え」と言われるのだから、よくよく考えればなんとも野蛮な競技だ。私の言い方が悪いせいもあるけど、それだけ聞けば理不尽極まりない。

 開始線まで近づくと、面金の向こうからかすかに相手の顔が見えた。眉間に寄った皺と、横一文字に結ばれた口元。緊張しているんだろう。たぶん、私も似たような顔をしているはずだ。相手は、私の事をどう見ているんだろう。なんかでかいやつだなとか、新品の防具をつけた一年生が出て来たなとか。真偽は定かじゃないけど、たぶん似たようなことを考えているだろう。

 本当の意味で、頭からっぽでここに立つ人はいない。色んな感情がぐるぐる駆け巡って、緊張して、雑念ばっかりで、それが普通。当たり前なんだ。だって戦うんだもの。みんな不安だよ。怖いよ。もちろん、純粋に楽しんでる人も一部居るだろうけど。

 どんな感情を持っていたって良い。雑念だらけでも良い。そんなもの、試合が始まれば一瞬で吹き飛んでしまうのだから。

「――はじめっ!」

 主審の掛け声と共に気合を発する。ヤーでも、キエーでも、サーでも、相手を挑発する言葉じゃなければ何でもいい。それは威嚇でもあり、自らを奮い立たせるための叫びでもある。漢字で書けば鬨の声。外国語風に言えばウォークライ。

 この一声で、ぐちゃぐちゃ考えていた頭の中身は、スッキリと目の前の試合のことだけに切り替わる。これもひとつのルーティンと言えるんだろう。クリアになった思考で、私は迷うことなく上段で相手を見下ろした。

 びくりと、相手の竹刀の先が警戒するように揺れる。ピカピカの防具に身を包んだ、見るからに一年生の女が、いきなり上段を使ってくるなんて想定していなかったんだろう。正直、ナメられるのは好きじゃないけど、ナメてくれていたのなら御の字だ。こっちは初心からやり直すつもりでやって来たんだ。部内リーグで思うようにいかなかったのもあるし、相手をナメるような余裕もない。一戦一戦が全力で、常に退路のない戦いを強いられる気分なら、やっぱり小学校のころの教えが活きてくる。

 勝って帰ってくれば生き、負けて帰ってくれば死ぬ。

 それが、今の私の剣道に必要な、思いきりの良さを生んでくれるんだ。

「メンあり!」

 上段から放ったメンが、遠間から綺麗に決まる。中段の時なら、気持ち遠いかなと思った距離だったけど、今の私ならなんてことはない。それは相手も同じだったようで、完全に意識の外(の間合い)から一本を押し付けることができた。

 有効打突を放てた時の感覚が、竹刀の先から、びりびりと手元に伝わる。そう、これだ。自分から打って一本をもぎ取る、〝先の先〟を狙った剣道。私が本来得意とする剣道。久しぶりの感覚は、快感にも似た甘美な痺れだった。

「二本目!」

 開始線で仕切り直しての二本目。気分の高揚も一瞬のもので、すぐに落ち着いて構えを正す。剣道の試合で相手に先取点を取られた場合、大きく二通りの人間がいるだろう。取り返すべく攻勢を強めるか、それでも自分の剣道を変えずに落ち着いて迎え撃つか。目の前の相手は、その前者だった。一本目の時とは違い、できるだけ自分から前へ前へと踏み込むような立ち回りだが、強気と言うよりも焦りの方がが強く感じられた。

 そもそも攻めっ気が強いスタイルなら、部長や中川先輩や竜胆ちゃんで散々慣らされている。彼女たちに比べたら、ひと呼吸おけるくらいに遅い。強い人と稽古したら強くなるっていうのは、こういう側面もあるんだろう。だとしたら、感謝するべきはあこや南高校剣道部という環境だ。

「メンあり!」

 相手の技の切れ間を狙って放った片手メンが、小気味いい音を立てて決まった。勝負ありだ。ふぅと、肩の荷が下りた気分でため込んだ吐息と緊張を吐き出す。コンディションは万全だ。試合の内容も、去年までとは全然違う。フォームの変更もあって、プレイスタイルはガラッと変わってしまったけど、勝利の余韻はいつだって変わらない。

 秋保鈴音、高校剣道の公式戦初勝利は、ここ山形の地に刻まれた。

「お疲れさま」

 コートから離れて、黒江の元で面を外す。疲れはないけれど、しっとりと頬を濡らした汗を手ぬぐいで拭う。

「良い内容だったでしょ?」

「取るべきところで取れていたと思う」

「うん、私も手ごたえがあった」

 問題は、この手ごたえでどこまでやって行けるのかと言うことだ。できることは尽くしたとはいえ、上段も応じ技も、二ヶ月そこらの付け焼刃であることに変わりはない。ちょっとでも気を抜いたら足元をすくわれる。一戦一戦を、決勝戦のような緊張感で望まないと……肉体的には平気だけど、精神的にはきっついかも。

「あの、もしかして秋保鈴音さんですか?」

 突然声をかけられて、私は虚を突かれて振り向く。そこには、知らない顔のスーツ姿の女性がひとり立っていた。

「あれは確か……三年前の全中で、北海道代表だった」

「え、あ、はい」

 驚きと不安で声が上ずった。え、誰、この人。見た感じ高校生ではなく、明らかに大人の人だけど。どこかの学校の監督さんか、それとも剣道連盟の人とか……どちらも知り合いの心当たりなんて無いけれど。

 ぽかんとする私に、彼女は懐から名刺を取り出して私へと差し向けた。

「月刊剣友の東海林です。一度だけ記事を書かせて貰ったことがあります。お会いするのは初めてですが」

「えっ、あっ、そ、そうなんですか?」

 月刊誌の記者さんだった。剣友と言えば、地元でも何度か買ったことがある全国紙だ。というか、剣道の雑誌なんて数が少ないので全部全国紙しかないんだけど。

「ちなみに、記事って何の……?」

「それこそ全中に出場なさった時に。ページの片隅を埋めるコラムみたいな特集だったので、ご存じなかったかもしれませんが。あの年の中学女子は、下級学年の躍進が著しかったため、みなさんひっくるめての総評のような形ではありますが、期待を込めて書かせていただきました」

 そう言って、東海林さんは傍らの黒江に視線を移した。

「山形と北海道、遠く離れた地に生まれて全国の舞台で競い合った相手が、まさか同じ高校でチームメイトになっているとは……その辺り、後でお話を聞かせていただいても?」

「いや、それはその……」

 頭の中はパニックだった。そりゃそうだ、ちゃんとした取材の申し込みなんて初めて受けたんだもん。てか私のこと書いたなら、事後報告でもなんでも教えてくれたらいいのに。小さい特集って言ってたから、ほんとにちょろっとコメントつけて貰えたくらいだったのかもしれないけど。

 私があたふたしている間に、黒江はそっと肩を叩いてくれた。

「行こう、鈴音。先輩の試合が始まる」

「う、うん」

「もちろん、大会日程が全て終わってからで構いません。面と向かってがムリならメールでも――」

 追いすがろうとする東海林さんに、黒江は初めて視線を交して、思いっきり睨みつけた。

「あなたが聞きたいのは、私がどうして選手じゃないのかということですよね」

 ストレートな物言いに、東海林さんは面食らったように押し黙る。

「それなら既に話した通り、中学三年間でやり切ったので辞めた――それだけです。私の記事を書くために、鈴音を巻き込まないでください」

 ビシリと言い放つ黒江はすごくカッコいい……けど、間に挟まる私ははらはらして両者の顔を見比べることしかできなかった。東海林さんが、観念したようにため息をつく。

「大会中にすみませんでした。鈴音さんもごめんなさい。話を聞かせてほしいのは本当だから、大会が終わったらあなただけでも時間を貰えませんか?」

「は、はあ」

 それでこの場が丸く収まるのならと、私は半ば頷かされる。

 でもすぐに思い直して、去り際に彼女のことを振り返った。

「あ、あの! 取材は良いんですが……」

「何か?」

「大会が終わった後だっていうなら〝あこや南高校インターハイ出場〟の見出しで待ってます!」

 東海林さんは驚いたように目を見開いて、それからかすかに吹き出すように笑った。

「もちろん」

 すっかり対応を黒江に押し付けちゃったので、最後の最後で言ってやった感が出て満足する。だけど黒江本人には「何言ってるの?」と真顔で返されてしまった。あれ、やっぱりダメだったかな。どうやら私は、こういうコメントセンスがないらしい。

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