今日からはじまる新たな一歩

 黒江のことは気になるけれど、私も私で自分のことをやらなきゃいけない。防具を装着して稽古の準備を終えると、礼儀として、日葵先輩の前で頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「い、いいよ、そんなにかしこまらなくって」

 謙遜する彼女は、面の隙間から覗く僅かな表情だけでも、目鼻立ちが整っているのがよく分かる。

「鈴音ちゃんは、上段は全然わかんない……よね?」

「そうですね。構え方とかは何となく分かりますけど、具体的に何に気をつけたら良いのかとかは」

「じゃあ、基本からいこうか。中川ちゃん、相手してくれるかな?」

「はい、もちろんです」

 日葵先輩は、中川先輩と中段で向かい合って構えると、そのままゆっくりと竹刀を頭上へ振り上げる。同時に左足を一歩前へ踏み出し、左前右後ろの姿勢に。テレビや動画でよく見る、上段の基本の構えだ。


 上段――五行の型のひとつで、文字通り竹刀を頭上高く掲げた状態で的に対峙するものだ。宝珠山の清水さんが使っていた下段とは、対照的な構えと言える。私みたいな若造の視点からすると『なんか強い人が使ってる構え』というイメージが強い。現に、上段使いで弱い人を見たことが無い……けど、それは大会の決勝戦の動画とか観てるせいだと思う。

 振り上げた竹刀は、予備動作を必要としないまま、直接打ち込みへ転じられる。疾さと威力、そして遠い間合いも兼ね備えた、典型的な攻撃特化の構えだ。

「基本の構え方はこの通りで、振り上げた竹刀は四十五度くらいに傾ける。足は中段と違って左右逆になるから……足捌きの練習は後でしようね。最初は慣れないと思うけど、基本ができてればすぐに身体が覚えると思うから」

「はい」

「注意するところは……うーん……大きく見せようと伸びあがらないようにすることかな。むしろ重心は低く。のっぽの木じゃなくて、大きな山のイメージかな」

「木じゃなくて山、ですね」

「それから、あとは……えーっと……」

 日葵先輩は、そのまま「うーん」と唸り始めてしまった。

「……とりあえず、実際に動いてるところを生で見てみよっか。中川ちゃん、軽く地稽古しよう」

「うす」

 手短な意思疎通の後に、ふたりは静かに打ち合いを始めた。はじめて見る日葵先輩の上段。対する中川先輩は基本の中段。上段の動きを見せる意味もあるからか、中川先輩のオラついた剣道はなりを潜めて、日葵先輩の出方を伺うような姿勢だ。その意図を察してか、日葵先輩は躊躇うことなく、上段からの一撃を振り下ろす。


 ズバンッ!


 っと、空間ごと切り裂かれたような衝撃が肌を伝った。実際にそんな事はあり得ないので、きっとこれは、全身を震えと鳥肌が駆け抜けたんだろう。やや遠間の間合いから、伸びるようなメン。上段の武器である〝左片手打ち〟を遺憾なく発揮した、稲妻のような一閃だ。

 日葵先輩は、勢いで鍔迫り合いに持ち込むが、すぐに引き技で距離を取る。そのまま再び上段に構えると、再度、えも言われぬ緊張が走る。稲妻に例えたせいもあるけど、空が光ってから「ゴロゴロ」が聞こえてくるまでの息を飲む感じ。それが、日葵先輩が構えてから打ち込むまでの剣抜弩張だった。

「ふう……だいたい、こんな感じかな」

 先輩が構えを解くのと同時に、私は、吐くのを忘れていた息を一気に吐きだした。完全に見入っていた。それこそ、全国大会の決勝の動画を現地で見ているかのような。

「先輩って、その、竹刀振るの上手いですよね」

 一瞬「実は剣道上手いですよね」って出かかって、慌てて言い直したら、なんだか変な言い回しになってしまった。

「え、そ、そうかな……?」

 そんな苦し紛れのお世辞でも彼女にとっては十二分な賞賛だったのか、照れ隠しみたいに身をよじる。言い回しはアレだったけど、言わんとしてることに間違いはない。〝ただ竹刀を振るだけ〟の姿に、これだけ目を奪われたのは始めてだ。厳密には二回目だけど……一回目も、朝の道場で竹刀を振る彼女を見た時のこと。黒江の剣道だって、目の当たりにすれば見入るけど、それは彼女の絶対的な強さとカウンター剣道の妙技に酔いしれてのことだ。

 それぐらい日葵先輩の一刀は、何というか気迫がある。鬼気迫ると言っても良い。

 あれ……じゃあ、なんでこの間の練習試合で上段を使わなかったんだろう?

 上段の素人目にしても、かなりの完成度だと思うのに。そもそも、練習試合事体があっという間の決着だったよね。しかも宝珠山の部長さん相手にボロ負け。今の動きを見る限り、決して引けを取るようには思えないのに。

「久しぶりに日葵サンの上段を身に受けて感激しました」

 中川先輩も、どこか興奮した様子で声を弾ませる。今だけは彼女の気持ちがちょっと分かる。強い人の一撃って、ただ棒立ちで食らってるだけでも、なんか気持ちよくなるんだよね。別にマゾってわけじゃないよ。きっと老若男女、全国の剣士がみんなそう。

 日葵先輩は、ここからでも分かるくらいに顔を真っ赤にして、取り繕うように顔をブルブル左右に振る。

「と、とりあえず構えてみようか。そのまま、左右逆のすり足を練習しよう。中川ちゃんも、今度は鈴音ちゃんに合わせて構えて貰って良いかな」

「はい」

「うす」

 構えてくれた中川先輩に、正面から迎えるように竹刀を交わす。そのまま、見様見真似で上段に構えてみる。竹刀を振り上げ、斜め四十五度……くらいの位置。足の踏み出しは左右逆に。

「う……なんか、変な感じです」

「最初は仕方ないよ。ダンスのつもりで、中川ちゃんに合わせて動いてみて」

「は、はい」

 これまでずっとやってきた構えとはぜんぜん違う感覚。足の踏み出しが左右逆になるだけで、こんなに違和感があるものなのかと愕然とする。

 とりあえず――の言葉そのままに、中川先輩は無作為に間合いを詰めたり、離れたりを始める。私はそれに合わせて、一足一刀の距離から離れないように、前に後ろに、右に左にと食らいつく。

「悪くないけど、少し頭の位置が高いかな。もっと低く低く、床を滑るように動いてみて」

 ううん……やっぱり慣れない。足さばきですらこうなのに、私はちゃんと、上段を習得できるんだろうか。


 午後の練習は、誰に言われるでもなく、それぞれのグループで程よいタイミングで終わった。

 先輩方はバスタイム。一年生は晩御飯の準備となる。一日目の晩御飯のメニューは、定番でカレーになった。

「お肉は豚でいいかな? 一番好き嫌いないと思うし」

 こういう時って、得手不得手が如実に出るよね。学食でも利用される厨房を、今は井場さんが完全に仕切っていた。

「井場さん、なんか慣れてるね?」

「うち、定食屋なんだ。だから、大人数のもの作るのは得意だよ」

 なるほど。そういう情報はもうちょい早く知りたかった……だとしたら、全部彼女に任せたのに。

「じゃあ、我々は皮むき部隊しますね!」

 初心者組の藤原さんが、同じく初心者組の戸田さんの肩を持ってどんと胸を叩く。

「じゃあ、あたしたちはサラダでも作ろっか」

 特に異論はないので、竜胆ちゃんたちに任せるママにしていると、戸田さんがおずおずと手を上げた。

「サラダもいいけど、カレーだと付け合せが大事じゃありませんか?」

「付け合せ?」

 虚を突かれて、みんなの視線が彼女に集まる。戸田さんは一瞬びくっと震えた後に、言葉を続けた。

「カツカレーとか、コロッケカレーとか……私、カレギュウとかも結構好きで」

「なるほど、付け合せねぇ……」

 竜胆ちゃんが唸る。カレーの付け合せって、これまで考えたことも無かったな。カツカレーとかは確かにあるけど、私は重くて食べれそうな気がしない。トンカツはトンカツで食べるほうが良いかな。

「ああー、付け合せは何でも準備するつもりだよ。先生から、買ってきたもの全部使えって言われてるから」

「えっ!」

 声を上げたのは私だけでは無かった。全部って……一般のご家庭なら一週間は過ごせそうなくらいの食材が、ここには並んでいるんだけれど。

「カツと生姜焼き、あと鳥は鍋みたいにしようかな。みんな苦手な味付けとかあるかな?」

 そう語る井場さんは、ほとんどお店の人モードっていうか、時分で食べるってこと分かってるのかな。なんか、ほとんど事務的っていうか、上の空っていうか……たぶん、現実逃避してるよね。

「身体を作るという意味では、これくらい食べるのは当たり前」

 誰もがコメントを差し控えていたところに、黒江の鶴の一声が響く。

「黒江もこんだけ食べるの?」

 せめてもの抵抗に訪ねてみると、彼女は何食わぬ顔で頷いてみせた。

「動いたら、お腹すくよね」

 ……すみませんでした。私はまだ、その域には達していないようです。沢山食べてるような気はするんだけどなぁ……。

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